ふたたび借金先生の錬金術を想う ― 2011-05-03 23:15:10
4月の前半でしたが、黒澤明監督の「八月の狂詩曲」と「まあだだよ」が「日本映画専門チャンネル」で放送されていて、二週続けて見てしまいました。
二作品とも黒澤監督最晩年の作品で、洗練されたアクションはすでに影を潜め、「影武者」や「乱」の豪華絢爛さもなくなりましたが、良い意味で枯れたように感じました。
特に内田百閒の随筆を原案にした「まあだだよ」は、興行的には失敗だったかも知れませんが、馬鹿鍋のシーンなどは穏やかにして軽やか、飄々とした百閒先生にぴったりな仕上がりでした。
前にも書きました(<http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/23/1598176>)が、百閒先生は借金をまつわる話が多いです。
最近読んだ「錬金術」なる短文では、次のように書いています:
「夏じゅうは団扇を使うのと、汗を拭くのとで、両手がふさがっていたから、原稿が書けなかった。それで見る見る内に身辺が不如意になり、御用聞や集金人の顔がささくれ立って来た。」
「仕事をする時候ではないけれど、お金はいるので、錬金術を行う事にした。原稿料の前借りをしたり、印税の先払いをして貰ったりした。しかしそうして心を千千に砕いて見ても、矢っ張り足りない。」
「いくら錬ってもおんなじ事である。」
また、「無恒債者無恒心」という随筆で、以下のような、わかるようなわからないような論理を展開しています:
「小生の収入は、月給と借金によりて成立する。二者の内、月給は上述のごとく小生を苦しめ、借金は月給のために苦しめられている小生を救ってくれるのである。」
「学校が月給と云うものを出さなかったら、どんなに愉快に育英のことに従事することが出来るだろう。そうして、お金のいる時は、一切これを借金によって弁ずるとしたら、こんな愉快な生活はないのである。」
「小生、今こうして週刊朝日の需めに応じ文を草す。脱稿すれば稿料を貰う。その金を手にした後のいろいろの気苦労、方方への差しさわり、内証にもして置けず、原稿料が入ったらと云うので借りたのは返さねばならず、月給の足りなかった穴うめ、質屋の利子、その他筆録を憚るものあり、到底足りないのは、今からわかりきっているのである。原稿料を受け取ると同時に、それ等の不足、不義理、或いはあて外れが、みんあ一時に現実になって小生を苦しめる。」
映画の「摩阿陀会」は、なかなか死にそうにない百閒先生に生徒たちが「まあだかい」と訊ね、百閒先生が「まあだだよ!」と応える会だそうです。
以上の名調子だけ見れば、そうそう容易くくたばる先生ではなかったと思います。
二作品とも黒澤監督最晩年の作品で、洗練されたアクションはすでに影を潜め、「影武者」や「乱」の豪華絢爛さもなくなりましたが、良い意味で枯れたように感じました。
特に内田百閒の随筆を原案にした「まあだだよ」は、興行的には失敗だったかも知れませんが、馬鹿鍋のシーンなどは穏やかにして軽やか、飄々とした百閒先生にぴったりな仕上がりでした。
前にも書きました(<http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/23/1598176>)が、百閒先生は借金をまつわる話が多いです。
最近読んだ「錬金術」なる短文では、次のように書いています:
「夏じゅうは団扇を使うのと、汗を拭くのとで、両手がふさがっていたから、原稿が書けなかった。それで見る見る内に身辺が不如意になり、御用聞や集金人の顔がささくれ立って来た。」
「仕事をする時候ではないけれど、お金はいるので、錬金術を行う事にした。原稿料の前借りをしたり、印税の先払いをして貰ったりした。しかしそうして心を千千に砕いて見ても、矢っ張り足りない。」
「いくら錬ってもおんなじ事である。」
また、「無恒債者無恒心」という随筆で、以下のような、わかるようなわからないような論理を展開しています:
「小生の収入は、月給と借金によりて成立する。二者の内、月給は上述のごとく小生を苦しめ、借金は月給のために苦しめられている小生を救ってくれるのである。」
「学校が月給と云うものを出さなかったら、どんなに愉快に育英のことに従事することが出来るだろう。そうして、お金のいる時は、一切これを借金によって弁ずるとしたら、こんな愉快な生活はないのである。」
「小生、今こうして週刊朝日の需めに応じ文を草す。脱稿すれば稿料を貰う。その金を手にした後のいろいろの気苦労、方方への差しさわり、内証にもして置けず、原稿料が入ったらと云うので借りたのは返さねばならず、月給の足りなかった穴うめ、質屋の利子、その他筆録を憚るものあり、到底足りないのは、今からわかりきっているのである。原稿料を受け取ると同時に、それ等の不足、不義理、或いはあて外れが、みんあ一時に現実になって小生を苦しめる。」
映画の「摩阿陀会」は、なかなか死にそうにない百閒先生に生徒たちが「まあだかい」と訊ね、百閒先生が「まあだだよ!」と応える会だそうです。
以上の名調子だけ見れば、そうそう容易くくたばる先生ではなかったと思います。
にわか魚屋の呼び売り ― 2011-05-04 00:11:18

.
初カツオを書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/04/12/5801133)が、ついてに適当に検索したら、「時に范蠡鰹はいくらするな」という江戸川柳が出てきました。江戸の人たちがいかに漢籍に通じ、中国の歴史に親しんでいたかを、改めて感じました。
范蠡(はんれい)は中国春秋時代の人、例の「嘗胆」の勾践に仕えた名臣、政治家です。
フィクションかも知れませんが、勾践が呉に敗れて姑蘇城に監禁されていたとき、魚商に扮して主君に話を伝えたくだりが、日本では「太平記」に出ています。
冒頭の川柳は、値があってないような高価な初カツオの値段を行商の魚屋さんに聞く、それだけの話ですが、故事にあやかって魚屋さんを「范蠡」に置き換えて、なんとなく格調が高くなりました。
同じく「誹風柳多留」に見える川柳に、「范蠡恥ずかしさうに魚を呼び」というのもあります。
本職でないゆえ、呼び売りの声も、どこか恥ずかしそうにしていたんだろう、という想像からですね。
初カツオを書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/04/12/5801133)が、ついてに適当に検索したら、「時に范蠡鰹はいくらするな」という江戸川柳が出てきました。江戸の人たちがいかに漢籍に通じ、中国の歴史に親しんでいたかを、改めて感じました。
范蠡(はんれい)は中国春秋時代の人、例の「嘗胆」の勾践に仕えた名臣、政治家です。
フィクションかも知れませんが、勾践が呉に敗れて姑蘇城に監禁されていたとき、魚商に扮して主君に話を伝えたくだりが、日本では「太平記」に出ています。
冒頭の川柳は、値があってないような高価な初カツオの値段を行商の魚屋さんに聞く、それだけの話ですが、故事にあやかって魚屋さんを「范蠡」に置き換えて、なんとなく格調が高くなりました。
同じく「誹風柳多留」に見える川柳に、「范蠡恥ずかしさうに魚を呼び」というのもあります。
本職でないゆえ、呼び売りの声も、どこか恥ずかしそうにしていたんだろう、という想像からですね。
革命志士とインドカリー ― 2011-05-06 04:40:22
自殺志望の青年の投書に対し、雑誌の人生相談欄を担当していた寺山修司は、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ」と返答したそうです。
名高い中村屋の純インド式カリー・ライスは、創業者の相馬愛蔵・黒光夫婦が開発、販売し始めたものですが、インド独立運動のリーダーだったラス・ビハリ・ボースが深く関わっていました。
芥川賞の受賞作を読みたくて、文藝春秋のバックナンバーを借りましたが、秘められた恋の特集のほうに、つい目が行ってしまいました。
そのなか、ラス・ビハリ・ボースと新宿中村屋の娘・俊子さんの話も取り上げられています。
前に読んだ出久根達郎の随筆によれば、ボースは子供の時から革命志士の本を読みふけていました。英国からの独立運動に身を投じ、そのうち総督に爆弾を仕掛け(未遂)、おたずね者となりました。その頃、詩人のタゴールが日本を訪れることを知り、タゴールの親族だと装い、偽名で日本に逃亡しました。
英国が察知し、日本に引き渡しを要求すると、日本政府は退去命令を発しましたが、これに怒った頭山満らアジア独立主義者たちは、新宿中村屋の相馬愛蔵にラースをかくまうよう依頼しました。
亡命者を助けるのが日本人の仁義ではないかと、相馬夫婦は店の裏のアトリエに忍ばせました。その際、愛蔵は三十余人の店員にも一切を隠さず、協力を頼みました。よくうち明けてくれましたと、店の人たちも感激し、いざとするときは命を張ると決意し、密告する人は出なかったそうです。
それと、文藝春秋の記載によれば、連絡係を長女の俊子さんが行ったそうです。
頭山満たちの働きかけもあって、ラス・ビハリ・ボースの国外退去命令が撤回されました。しかし英国政府の追及の手はなおも続き、日本各地を転々とせざるをえない状況でした。1918年にボースはかねてから恋仲にあった俊子さんと結婚し、1923年には日本に帰化しています。俊子との間には2人の子供をもうけたものの、俊子は1928年に28歳の若さで亡くなりました。
ラス・ビハリ・ボースが中村屋にかくまわれていた頃、急に牛肉をたくさん買いに来る人はいないかと、警察は東京の肉屋を一軒ずつ当たっていたそうです。日本人で牛肉を食する人はまだ少なかったが、外国人だから牛肉を食べるだろうと推測したのでしょう。
宗教の関係上、インド人は牛肉をほとんど口にしないのを知らないのは、警察側捜査担当者の不勉強だったのでしょう。
名高い中村屋の純インド式カリー・ライスは、創業者の相馬愛蔵・黒光夫婦が開発、販売し始めたものですが、インド独立運動のリーダーだったラス・ビハリ・ボースが深く関わっていました。
芥川賞の受賞作を読みたくて、文藝春秋のバックナンバーを借りましたが、秘められた恋の特集のほうに、つい目が行ってしまいました。
そのなか、ラス・ビハリ・ボースと新宿中村屋の娘・俊子さんの話も取り上げられています。
前に読んだ出久根達郎の随筆によれば、ボースは子供の時から革命志士の本を読みふけていました。英国からの独立運動に身を投じ、そのうち総督に爆弾を仕掛け(未遂)、おたずね者となりました。その頃、詩人のタゴールが日本を訪れることを知り、タゴールの親族だと装い、偽名で日本に逃亡しました。
英国が察知し、日本に引き渡しを要求すると、日本政府は退去命令を発しましたが、これに怒った頭山満らアジア独立主義者たちは、新宿中村屋の相馬愛蔵にラースをかくまうよう依頼しました。
亡命者を助けるのが日本人の仁義ではないかと、相馬夫婦は店の裏のアトリエに忍ばせました。その際、愛蔵は三十余人の店員にも一切を隠さず、協力を頼みました。よくうち明けてくれましたと、店の人たちも感激し、いざとするときは命を張ると決意し、密告する人は出なかったそうです。
それと、文藝春秋の記載によれば、連絡係を長女の俊子さんが行ったそうです。
頭山満たちの働きかけもあって、ラス・ビハリ・ボースの国外退去命令が撤回されました。しかし英国政府の追及の手はなおも続き、日本各地を転々とせざるをえない状況でした。1918年にボースはかねてから恋仲にあった俊子さんと結婚し、1923年には日本に帰化しています。俊子との間には2人の子供をもうけたものの、俊子は1928年に28歳の若さで亡くなりました。
ラス・ビハリ・ボースが中村屋にかくまわれていた頃、急に牛肉をたくさん買いに来る人はいないかと、警察は東京の肉屋を一軒ずつ当たっていたそうです。日本人で牛肉を食する人はまだ少なかったが、外国人だから牛肉を食べるだろうと推測したのでしょう。
宗教の関係上、インド人は牛肉をほとんど口にしないのを知らないのは、警察側捜査担当者の不勉強だったのでしょう。
大筍五本 ― 2011-05-07 11:31:00
いつの間にか立夏となりましたが、冬の小雨と春の低温が原因で、今年はタケノコがちょっと遅め、今になってたくさん出ていると人から聞きました。
「雨後春筍」と熟語にありますが、そもそもタケノコは歳時記のうえでは夏の食べ物、俳句だと夏の季語になります。
「筍が竹とならんず梅雨晴れの山いつぱいにひそめる力」
これは大正期の歌人・岩谷莫哀の歌で、国会図書館近代デジタルライブラリーで見付けました(<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018239>)。シンプルですが、山いっぱいに力を貯めている出ようとするタケノコが見えてきそうで、僕にはおもしろいです。
これも梅雨晴れのときに詠んだものですね。
京都の早掘りなど、春先どころか寒中からタケノコは食べられます。
「その味は出盛りの季節の美味ではないが、これはこれで一種捨てがたい風味があって、十分珍重に価する。」と、食通で知られる北大路魯山人は言っていました。
中国浙西省の溪口鎮は竹林とタケノコの生産で知られています。規模では較べようもないかと思いますが、台湾嘉義縣の溪口郷にも竹林があって、やはりタケノコが名産のひとつになっています。
幼いとき、親に連れられて一泊の旅に行ったことがありますが、早朝の霧のなかの竹林の幽玄なこと、昼に食べた筍つくし料理の美味なこと、どっちも忘れられません。
そのとき食べたのは、ほとんどは真竹だったと思います。
日本でいま食されるタケノコは、例の二十四孝の孟宗に因む孟宗竹がほとんどですが、そこまで肉厚でない真竹の筍も、野趣があって美味しいと思います。
そもそも孟宗竹は、文久元年琉球を経由して中国より伝来したそうで、その前の時代だと、例えば其角が読んだ「老僧の筍をかむなみだ哉」なども、孟宗竹ではなく、たぶん真竹だと思われます。
真竹は孟宗竹より季節が遅く、昔の歳時記で夏に分類するのも合点がいきます。
江戸初期はというと、こちらも孟宗竹ではなかったと思いますが、木下長嘯子が石川丈山に筍を送り、しゃれた和歌を付けた話は、なかなかおもしろいと思います。
「谷のかけ 軒のなてしこ 今さきつ
常より君を くやと待ける」
「たけのこいつゝをくるといふを句の上下をきて 石川丈山翁のもとへつかはしける」ともあるので、これは五七五七七のそれぞれの句の上下一字ずつ取って、「た・け・の・こ・い・つ・つ・を・く・る」と読ませる遊びです。
漢詩の名人で知られる石川丈山は、即座に詩を賦して返したそうです。
「二人相連欠其一
旬日竹友消日彩
欲語無口亦無言
全躰忘身何有待」
こちらは全体が字謎、各句にひと文字ずつを当てているようです。
例えば起句の「二人相連欠其一」は、「二」と「人」をつなげた「夫」から「一」が欠けるので、「大」という字になる、といった具合です。
「雨後春筍」と熟語にありますが、そもそもタケノコは歳時記のうえでは夏の食べ物、俳句だと夏の季語になります。
「筍が竹とならんず梅雨晴れの山いつぱいにひそめる力」
これは大正期の歌人・岩谷莫哀の歌で、国会図書館近代デジタルライブラリーで見付けました(<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018239>)。シンプルですが、山いっぱいに力を貯めている出ようとするタケノコが見えてきそうで、僕にはおもしろいです。
これも梅雨晴れのときに詠んだものですね。
京都の早掘りなど、春先どころか寒中からタケノコは食べられます。
「その味は出盛りの季節の美味ではないが、これはこれで一種捨てがたい風味があって、十分珍重に価する。」と、食通で知られる北大路魯山人は言っていました。
中国浙西省の溪口鎮は竹林とタケノコの生産で知られています。規模では較べようもないかと思いますが、台湾嘉義縣の溪口郷にも竹林があって、やはりタケノコが名産のひとつになっています。
幼いとき、親に連れられて一泊の旅に行ったことがありますが、早朝の霧のなかの竹林の幽玄なこと、昼に食べた筍つくし料理の美味なこと、どっちも忘れられません。
そのとき食べたのは、ほとんどは真竹だったと思います。
日本でいま食されるタケノコは、例の二十四孝の孟宗に因む孟宗竹がほとんどですが、そこまで肉厚でない真竹の筍も、野趣があって美味しいと思います。
そもそも孟宗竹は、文久元年琉球を経由して中国より伝来したそうで、その前の時代だと、例えば其角が読んだ「老僧の筍をかむなみだ哉」なども、孟宗竹ではなく、たぶん真竹だと思われます。
真竹は孟宗竹より季節が遅く、昔の歳時記で夏に分類するのも合点がいきます。
江戸初期はというと、こちらも孟宗竹ではなかったと思いますが、木下長嘯子が石川丈山に筍を送り、しゃれた和歌を付けた話は、なかなかおもしろいと思います。
「谷のかけ 軒のなてしこ 今さきつ
常より君を くやと待ける」
「たけのこいつゝをくるといふを句の上下をきて 石川丈山翁のもとへつかはしける」ともあるので、これは五七五七七のそれぞれの句の上下一字ずつ取って、「た・け・の・こ・い・つ・つ・を・く・る」と読ませる遊びです。
漢詩の名人で知られる石川丈山は、即座に詩を賦して返したそうです。
「二人相連欠其一
旬日竹友消日彩
欲語無口亦無言
全躰忘身何有待」
こちらは全体が字謎、各句にひと文字ずつを当てているようです。
例えば起句の「二人相連欠其一」は、「二」と「人」をつなげた「夫」から「一」が欠けるので、「大」という字になる、といった具合です。
咬文嚼字、食言而肥 ― 2011-05-24 23:11:17
書籍は精神の糧ですが、場合によっては口にも入れます。
日本語のページは見つかりませんでしたが、噂で聞く「The International Edible Book Festival」、もしくは「Edible Book Day」で検索したら、たくさんのページにヒットしました。
「国際食書日」とでも訳しましょうか?
書籍をテーマにした料理を作っては、みんなで見て頬張る、はなはた意味不明ですが、なぜか結構流行っているようです。
この「国際食書日」に4月1日が選ばれたのは、フランスの美食家Jean-Anthelme Brillat-Savarinの誕生日だから、というのもありますが、ウィキペディアによれば、エイプリルフールの日が「食言」するのに最も相応しいから、でもあります。
2000年頃から始まるイベントで、まだそう長い歴史はありません。
「古今著聞集」巻十六に「無沙汰の智了房」という一段があり、登場している智了房という男は、すでに十三世紀に、しかも本物の書物を食べていたかも知れません。
智了房という人は万事だらしがないですが、能筆なところだけが取り柄で、ある人から「古今集」の写本を頼まれました。
ところがなかなか納品しないので、依頼主がしびれを切らし、もういいから、預けた「古今集」と写すための料紙を返してくれ、と言ってきました。
すると、先だってのころ痢病(下痢)が続いた際、紙に困りまして、やむをえず、料紙をみな使ってしまいましたのですが...と智了房が言いました。
じゃ、もういいから、預けた本だけ返してくれ、というと、「其事に候、其本をも紙みそうづに皆つかうまつりて候をばいかゞし候べき」と返ってきました。
「紙みそうづ」で全部使ってしまいましたが、どうしましょうか、とまあ、人を食ったような答えでした。
「みそうづ」は「みぞうず」、「未曽水」、つまり雑炊のことです。
この文章には少なくとも2つの解釈があります。
雑炊みたいな下痢便がひきもきらず、本もすべて尻拭き紙に使ってしまった、というのがそのひとつです。(<http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0093chiryobo.htm>)
いやいや、「みぞうず」に「紙」が冠されているから、これは紙を入れた雑炊のことに違いない、といま読んでいる「たべもの噺」(小学館ライブラリー)の作者・鈴木晋一は説いています。
「古今著聞集」の本文だけ見れば、確かに紙を入れた雑炊説が妥当ぽいですが、はたしてそんな食べ物が日本にあったのでしょうか?
そこで作者は、「料理物語」に出てくる杉原紙を入れる「杉原もち」の話や、疫病のまじないとして「めぐり」という紙入り米粉団子のすいとんが皇族に進められた話をあげ、自説に押し通そうとしています。考えてみれば随分とどうでも良い話ですが、横道にそれた面白さがたまりません。
ともかく鈴木説の通りだとすると、智了房は薬餌のようなものとして「古今集」を食べた、ということになります。
まあ、実際は預かった物を横領して何かに換えてしまったのを、ウソで飾り、言い訳をしたに過ぎないようにも思えますが。
だいぶ時代が下っての話になりますが、出久根達郎の小説「むほん物語」に、挿話として、書物を土鍋で煮て食べた侍が出てきます。
江戸は天明年間、大飢饉の惨状を目にしたひとりの江戸番の侍が、救荒食を研究し、身辺の悪書を煮て食することに思いつきました。味噌で味付けし、山椒を振って匂いを消し、さてと試食しました。
ところが外し忘れた綴じ紐が絡み合って、ついノドに詰まり、あげなく窒息してしまいました。武士にあるまじき死に方で、お家の恥だからと、藩は内聞にしました...
フィクションですが、ホラばかりでないと、作者は随筆でネタばらしもしています。
佐藤信淵という経済学者、思想家が食べました、と。蔵書を水につけてふやかし、それを蒸して団子を作り、一家が飢えを凌ぎました。村人も信淵に倣い、寺の経巻を食って餓死を免れたそうです。
味がどうこうの話ではなく、肥えるほど食えたものでもなさそうです。
日本語のページは見つかりませんでしたが、噂で聞く「The International Edible Book Festival」、もしくは「Edible Book Day」で検索したら、たくさんのページにヒットしました。
「国際食書日」とでも訳しましょうか?
書籍をテーマにした料理を作っては、みんなで見て頬張る、はなはた意味不明ですが、なぜか結構流行っているようです。
この「国際食書日」に4月1日が選ばれたのは、フランスの美食家Jean-Anthelme Brillat-Savarinの誕生日だから、というのもありますが、ウィキペディアによれば、エイプリルフールの日が「食言」するのに最も相応しいから、でもあります。
2000年頃から始まるイベントで、まだそう長い歴史はありません。
「古今著聞集」巻十六に「無沙汰の智了房」という一段があり、登場している智了房という男は、すでに十三世紀に、しかも本物の書物を食べていたかも知れません。
智了房という人は万事だらしがないですが、能筆なところだけが取り柄で、ある人から「古今集」の写本を頼まれました。
ところがなかなか納品しないので、依頼主がしびれを切らし、もういいから、預けた「古今集」と写すための料紙を返してくれ、と言ってきました。
すると、先だってのころ痢病(下痢)が続いた際、紙に困りまして、やむをえず、料紙をみな使ってしまいましたのですが...と智了房が言いました。
じゃ、もういいから、預けた本だけ返してくれ、というと、「其事に候、其本をも紙みそうづに皆つかうまつりて候をばいかゞし候べき」と返ってきました。
「紙みそうづ」で全部使ってしまいましたが、どうしましょうか、とまあ、人を食ったような答えでした。
「みそうづ」は「みぞうず」、「未曽水」、つまり雑炊のことです。
この文章には少なくとも2つの解釈があります。
雑炊みたいな下痢便がひきもきらず、本もすべて尻拭き紙に使ってしまった、というのがそのひとつです。(<http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0093chiryobo.htm>)
いやいや、「みぞうず」に「紙」が冠されているから、これは紙を入れた雑炊のことに違いない、といま読んでいる「たべもの噺」(小学館ライブラリー)の作者・鈴木晋一は説いています。
「古今著聞集」の本文だけ見れば、確かに紙を入れた雑炊説が妥当ぽいですが、はたしてそんな食べ物が日本にあったのでしょうか?
そこで作者は、「料理物語」に出てくる杉原紙を入れる「杉原もち」の話や、疫病のまじないとして「めぐり」という紙入り米粉団子のすいとんが皇族に進められた話をあげ、自説に押し通そうとしています。考えてみれば随分とどうでも良い話ですが、横道にそれた面白さがたまりません。
ともかく鈴木説の通りだとすると、智了房は薬餌のようなものとして「古今集」を食べた、ということになります。
まあ、実際は預かった物を横領して何かに換えてしまったのを、ウソで飾り、言い訳をしたに過ぎないようにも思えますが。
だいぶ時代が下っての話になりますが、出久根達郎の小説「むほん物語」に、挿話として、書物を土鍋で煮て食べた侍が出てきます。
江戸は天明年間、大飢饉の惨状を目にしたひとりの江戸番の侍が、救荒食を研究し、身辺の悪書を煮て食することに思いつきました。味噌で味付けし、山椒を振って匂いを消し、さてと試食しました。
ところが外し忘れた綴じ紐が絡み合って、ついノドに詰まり、あげなく窒息してしまいました。武士にあるまじき死に方で、お家の恥だからと、藩は内聞にしました...
フィクションですが、ホラばかりでないと、作者は随筆でネタばらしもしています。
佐藤信淵という経済学者、思想家が食べました、と。蔵書を水につけてふやかし、それを蒸して団子を作り、一家が飢えを凌ぎました。村人も信淵に倣い、寺の経巻を食って餓死を免れたそうです。
味がどうこうの話ではなく、肥えるほど食えたものでもなさそうです。
裝神弄鬼、雕虫小技 ― 2011-05-25 22:59:35
「今昔物語集」巻十四の十三「入道覚念、法花ヲ持シテ前世ヲ知レルコト」の話を、澁澤龍彦が「文字食う虫について」(「ドラコニア奇譚集」に収録)で引き、だいぶ前に読みました。
曰く、覚念というお坊さんが法華経を習い覚え、朝晩誦しましたが、なぜかそのうちの三行だけ、どうしても覚えられません。いくら暗誦しても、その場所にかかると、けろりと忘れてしまいます。
覚念は大変悲しみ、三宝に祈願して加護を求めたら、その夜に夢を見て、ある気高い老僧からお告げがありました。すなわち、覚念の前世は紙魚(シミ)であり、法華経のなかに巻き込まれ、経典のなかの三行の文を食べてしまったのが宿因となり、転生したいまも、どうしてもその三行は覚えられないのだそうです。
この話を原典に、芥川龍之介が短編を書いていると聞きますが、残念ながら未読です。
人間に転生した後も書物を食べたらそりゃ珍事だと言えますが、紙魚の身で食べていたなら、当然の話、仕方のないことです。
出久根達郎の小説「御書物同心日記」(<http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/01/10/1103792>)に、「一寸はゆうにある」という、紙魚の親分というか、ヌシみたいなのが出てきます。
ざっと三百年は生きていますよ、とその紙魚を捕まえた主人公の丈太郎が吹いていますが、昆虫としては長く生きる紙魚でも、調べたら寿命は7、8年程度で、仙人みたいに三百年を生きるのは、到底無理な話です。
「文字食う虫について」のなか、澁澤龍彦がもうひとつ、李時珍の「本草綱目」にある話を引用しています。
紙魚が道教の経典に入り、「神仙」と書いている文字を食うと身の色が五色になるが、人がその紙魚を食べれば、その人間が神仙に羽化できるという俗説があったそうです。
武則天の寵臣・張易之の子供がその話を聞き、「神仙」の字をとにかくたくさん書いた紙を引き裂き、瓶の中に入れ、その瓶に紙魚を放り込んで、紙を食わせました。もちろん、紙魚を食べるだけで首尾良く神仙になろうと企んだものですが、なぜか一向に成功せず、とうとうその男、精神病になってしまったそうです。
自分でお経も読まず、修練もさぼり、紙魚を食べるだけで一挙神仙の高みに駆け上がろうとするのは、さすがに虫が良すぎたのでしょうね。
曰く、覚念というお坊さんが法華経を習い覚え、朝晩誦しましたが、なぜかそのうちの三行だけ、どうしても覚えられません。いくら暗誦しても、その場所にかかると、けろりと忘れてしまいます。
覚念は大変悲しみ、三宝に祈願して加護を求めたら、その夜に夢を見て、ある気高い老僧からお告げがありました。すなわち、覚念の前世は紙魚(シミ)であり、法華経のなかに巻き込まれ、経典のなかの三行の文を食べてしまったのが宿因となり、転生したいまも、どうしてもその三行は覚えられないのだそうです。
この話を原典に、芥川龍之介が短編を書いていると聞きますが、残念ながら未読です。
人間に転生した後も書物を食べたらそりゃ珍事だと言えますが、紙魚の身で食べていたなら、当然の話、仕方のないことです。
出久根達郎の小説「御書物同心日記」(<http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/01/10/1103792>)に、「一寸はゆうにある」という、紙魚の親分というか、ヌシみたいなのが出てきます。
ざっと三百年は生きていますよ、とその紙魚を捕まえた主人公の丈太郎が吹いていますが、昆虫としては長く生きる紙魚でも、調べたら寿命は7、8年程度で、仙人みたいに三百年を生きるのは、到底無理な話です。
「文字食う虫について」のなか、澁澤龍彦がもうひとつ、李時珍の「本草綱目」にある話を引用しています。
紙魚が道教の経典に入り、「神仙」と書いている文字を食うと身の色が五色になるが、人がその紙魚を食べれば、その人間が神仙に羽化できるという俗説があったそうです。
武則天の寵臣・張易之の子供がその話を聞き、「神仙」の字をとにかくたくさん書いた紙を引き裂き、瓶の中に入れ、その瓶に紙魚を放り込んで、紙を食わせました。もちろん、紙魚を食べるだけで首尾良く神仙になろうと企んだものですが、なぜか一向に成功せず、とうとうその男、精神病になってしまったそうです。
自分でお経も読まず、修練もさぼり、紙魚を食べるだけで一挙神仙の高みに駆け上がろうとするのは、さすがに虫が良すぎたのでしょうね。
最近のコメント