革命志士とインドカリー2011-05-06 04:40:22

 自殺志望の青年の投書に対し、雑誌の人生相談欄を担当していた寺山修司は、「君は新宿中村屋のカリーを食べたことがあるか?なければ食べてから再度相談しろ」と返答したそうです。

 名高い中村屋の純インド式カリー・ライスは、創業者の相馬愛蔵・黒光夫婦が開発、販売し始めたものですが、インド独立運動のリーダーだったラス・ビハリ・ボースが深く関わっていました。


 芥川賞の受賞作を読みたくて、文藝春秋のバックナンバーを借りましたが、秘められた恋の特集のほうに、つい目が行ってしまいました。
 そのなか、ラス・ビハリ・ボースと新宿中村屋の娘・俊子さんの話も取り上げられています。

 前に読んだ出久根達郎の随筆によれば、ボースは子供の時から革命志士の本を読みふけていました。英国からの独立運動に身を投じ、そのうち総督に爆弾を仕掛け(未遂)、おたずね者となりました。その頃、詩人のタゴールが日本を訪れることを知り、タゴールの親族だと装い、偽名で日本に逃亡しました。
 英国が察知し、日本に引き渡しを要求すると、日本政府は退去命令を発しましたが、これに怒った頭山満らアジア独立主義者たちは、新宿中村屋の相馬愛蔵にラースをかくまうよう依頼しました。
 亡命者を助けるのが日本人の仁義ではないかと、相馬夫婦は店の裏のアトリエに忍ばせました。その際、愛蔵は三十余人の店員にも一切を隠さず、協力を頼みました。よくうち明けてくれましたと、店の人たちも感激し、いざとするときは命を張ると決意し、密告する人は出なかったそうです。
 それと、文藝春秋の記載によれば、連絡係を長女の俊子さんが行ったそうです。

 頭山満たちの働きかけもあって、ラス・ビハリ・ボースの国外退去命令が撤回されました。しかし英国政府の追及の手はなおも続き、日本各地を転々とせざるをえない状況でした。1918年にボースはかねてから恋仲にあった俊子さんと結婚し、1923年には日本に帰化しています。俊子との間には2人の子供をもうけたものの、俊子は1928年に28歳の若さで亡くなりました。


 ラス・ビハリ・ボースが中村屋にかくまわれていた頃、急に牛肉をたくさん買いに来る人はいないかと、警察は東京の肉屋を一軒ずつ当たっていたそうです。日本人で牛肉を食する人はまだ少なかったが、外国人だから牛肉を食べるだろうと推測したのでしょう。
 宗教の関係上、インド人は牛肉をほとんど口にしないのを知らないのは、警察側捜査担当者の不勉強だったのでしょう。