福島の馬と写真家 ― 2012-05-14 23:28:58
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横浜に住む馬好きによれば、この前の子供の日、根岸競馬記念公苑では「相馬野馬追」を紹介するイベントがあったそうです。
むかし野馬追祭は5月中の申の日に行われるものですが、旧暦だったので、いまでは7月の行事としてあらためています。
その歴史は古く、相馬氏の遠祖・平将門まで遡ると言われています。元享三年(1323年)、相馬孫五郎重胤が下総より奥州行方郡に封を移し、雲雀ヶ原で行われるようになったのが、いまの相馬野馬追の起源だそうです。
雑誌「太陽」の1971年の11月号がいま手元にあります。「馬と人と大地の祭り」と題し、大判の写真とともに、古山高麗雄が相馬野馬追について書いた文章が掲載されています。上の話はその受け売りです。
記事の写真は秋山忠右と佐藤晴雄によるものです。佐藤晴雄は存知しておりませんが、秋山忠右は「くにざかい」などを撮った、素晴らしい社会派写真家で知られています。だいぶ若い頃の写真でしたね。
「馬を飼う相馬地方の家は、年々減少の途をたどっている。原町市についていえば、昭和37年には686頭いた馬が、45年には五分の一足らずの128頭に減ってしまった。」と記事にあります。
現在では、さらに減ってしまったのではないでしょうか。本祭りでは500頭もの馬が集められ、規模としては国内最大ですが、多くは関東圏からのレンタルになったようです。
さて、冒頭の写真は、石原徳太郎によって刊行された「大日本博覧絵」という銅版画集の1ページです。「福島県 産馬会社」と題がつけられていますが、描かれているのは、明治初期、労働力としての優秀な馬を生産、育成する目的で設立された「須賀川産馬会社」です。
「近代デジタルライブラリー」を眺めたときに見つけた1枚(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853938)ですが、調べてみたら、その下図となっている写真が地元に残されているそうです。撮ったのは写真師の松崎晋二、明治9年5月31日に撮影されたものです。
この松崎晋二は、僕は出久根達郎の随筆で知りました。
わが国最初の従軍写真師だそうです。と言っても日清戦争や日露戦争ではなく、明治7年の、いわゆる台湾出兵(宮古島の漁船が難破し、台湾に漂着して殺害されました。新政府不平士族の不満をそらすために出兵を強行したと言われている)のときです。
松崎晋二はその台湾の写真と、小笠原で撮影した写真を、一般向けに売りに出しました。いまはほとんど残っていないらしいですが。
松崎晋二は「写真必用写客の心得」という小冊子も出版しています。こちらは「近代デジタルライブラリー」にあり、一応読むことができました。
明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しておりましたが、そのなかの1枚が上記の須賀川産馬会社の写真でした。
むかし福島県は馬産地として有名でした。
僕が競馬を見始めた頃、CBC賞など重賞を3勝したトーアファルコン(http://db.netkeiba.com/horse/1981100431/)は、当時すでに珍しくなった福島県産の活躍馬として知られていました。
名馬ビワハヤヒデも表記上は福島県産ですが、こちらは輸入馬の母馬が北海道に運ぶ前に産気づいてしまい、急遽福島県桑折町にある早田牧場本場で出産させたためです。交配はアメリカで行われた、いわゆる持込み馬です。
福島の浜通りには馬産で知られる双葉郡葛尾村がありますが、去年の震災および原発事故の影響により、残念ながら、葛尾村で唯一残っていた篠木牧場は、廃業に追い込まれたそうです。
もしかして、福島県産馬が競馬場で走ることは、今後、もうなくなるかも知れません。
横浜に住む馬好きによれば、この前の子供の日、根岸競馬記念公苑では「相馬野馬追」を紹介するイベントがあったそうです。
むかし野馬追祭は5月中の申の日に行われるものですが、旧暦だったので、いまでは7月の行事としてあらためています。
その歴史は古く、相馬氏の遠祖・平将門まで遡ると言われています。元享三年(1323年)、相馬孫五郎重胤が下総より奥州行方郡に封を移し、雲雀ヶ原で行われるようになったのが、いまの相馬野馬追の起源だそうです。
雑誌「太陽」の1971年の11月号がいま手元にあります。「馬と人と大地の祭り」と題し、大判の写真とともに、古山高麗雄が相馬野馬追について書いた文章が掲載されています。上の話はその受け売りです。
記事の写真は秋山忠右と佐藤晴雄によるものです。佐藤晴雄は存知しておりませんが、秋山忠右は「くにざかい」などを撮った、素晴らしい社会派写真家で知られています。だいぶ若い頃の写真でしたね。
「馬を飼う相馬地方の家は、年々減少の途をたどっている。原町市についていえば、昭和37年には686頭いた馬が、45年には五分の一足らずの128頭に減ってしまった。」と記事にあります。
現在では、さらに減ってしまったのではないでしょうか。本祭りでは500頭もの馬が集められ、規模としては国内最大ですが、多くは関東圏からのレンタルになったようです。
さて、冒頭の写真は、石原徳太郎によって刊行された「大日本博覧絵」という銅版画集の1ページです。「福島県 産馬会社」と題がつけられていますが、描かれているのは、明治初期、労働力としての優秀な馬を生産、育成する目的で設立された「須賀川産馬会社」です。
「近代デジタルライブラリー」を眺めたときに見つけた1枚(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853938)ですが、調べてみたら、その下図となっている写真が地元に残されているそうです。撮ったのは写真師の松崎晋二、明治9年5月31日に撮影されたものです。
この松崎晋二は、僕は出久根達郎の随筆で知りました。
わが国最初の従軍写真師だそうです。と言っても日清戦争や日露戦争ではなく、明治7年の、いわゆる台湾出兵(宮古島の漁船が難破し、台湾に漂着して殺害されました。新政府不平士族の不満をそらすために出兵を強行したと言われている)のときです。
松崎晋二はその台湾の写真と、小笠原で撮影した写真を、一般向けに売りに出しました。いまはほとんど残っていないらしいですが。
松崎晋二は「写真必用写客の心得」という小冊子も出版しています。こちらは「近代デジタルライブラリー」にあり、一応読むことができました。
明治9年の東北・北海道巡幸に際し、松崎は福島県庁からの依頼により半田銀山・二本松製糸会社など県内の殖産興業施設や名所旧跡を事前に撮影して天覧に供しておりましたが、そのなかの1枚が上記の須賀川産馬会社の写真でした。
むかし福島県は馬産地として有名でした。
僕が競馬を見始めた頃、CBC賞など重賞を3勝したトーアファルコン(http://db.netkeiba.com/horse/1981100431/)は、当時すでに珍しくなった福島県産の活躍馬として知られていました。
名馬ビワハヤヒデも表記上は福島県産ですが、こちらは輸入馬の母馬が北海道に運ぶ前に産気づいてしまい、急遽福島県桑折町にある早田牧場本場で出産させたためです。交配はアメリカで行われた、いわゆる持込み馬です。
福島の浜通りには馬産で知られる双葉郡葛尾村がありますが、去年の震災および原発事故の影響により、残念ながら、葛尾村で唯一残っていた篠木牧場は、廃業に追い込まれたそうです。
もしかして、福島県産馬が競馬場で走ることは、今後、もうなくなるかも知れません。
馬の走り方 ― 2012-04-09 23:02:47
今日(4月9日)のGoogleロゴは、疾走する馬のアニメーションです。
カーソルを合わせると、「エドワード・マイブリッジ生誕182周年」の文字が見えてきますが、エドワード・マイブリッジはイギリス出身の写真家です。元カリフォルニア州知事のリーランド・スタンフォードから依頼を受け、走る馬の4本の足がすべて地面から離れる瞬間の写真を初めて撮影した人です。
疾走する馬が全部の足を同時に地面から離すことがあるかどうか、というのは、手元の「馬のすべてがわかる本」(原田俊治、PHP文庫)によると、実は古代ギリシャから綿々と続いていた議論のテーマでした。
しかしなにしろ疾走する馬の足の動きが速くて、観察者は自分の見ているものに確信を持てなかったのであります。
エドワード・マイブリッジは独創的な撮影方法を考案し、苦労した末に依頼をみごと応えました。また、そのために考案した連続写真の撮影方法は、後に映写機、映画の誕生に結びついたとも言われ、カメラの歴史の本には必ずと言って良いほど、取り上げられています。
運動中の馬の足の運びは、馬術家によると10種類以上と数えられますが、常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、および駆歩(かけあし)の3つに分類することが多いです。
常歩とは、馬がゆっくり自然に歩いている状態です。一歩ずつ等間隔に移動し、蹄音は4拍子、全部の足が同時に地面を離れることはありません。
速歩とは、前後の足二本が一組となって同時に地面を離れ、同時に着地する歩様です。トロット(Trot、斜対歩)とペース(Pace、側対歩)の2種類に大別でき、前者は斜め前後の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動き、後者は同じ側の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動く走り方です。
駆歩は、最もスピードの速い歩様です。そのなか、日本語で競走駆歩もしくは襲歩とも呼ばれるのがギャロップで、緩駆歩の訳が割り当てられるのがキャンターです。ギャロップの蹄音は四拍子、右後→左後→右前→左前、もしくは左後→右後→左前→右前の順で着地します。キャンターの蹄音は三拍子、右後→左後と右前同時→左前、もしくは左後→右後と左前同時→右前の順で着地します。いずれも全部の足が地面から離れる浮遊期は、一完歩ごとに一度発生します。
速歩でも、全部の足が地面から離れることが、ごく短時間ですが、一完歩ごと二度生じることがあるそうです。「馬のすべてがわかる本」によると、エドワード・マイブリッジが撮影して、その事実を突き止めたそうですが、少なくともGoogleロゴに載っているのは、速歩中の馬ではなく、明らかに馬がギャロップしているときの写真です。
日本でもかつて速歩競走が多く行われましたが、だいぶ前に書いた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/04/26/1466536)ように、キャンターだけでなく、ペースも異歩法とされ、失格の対象です。アメリカなどでは、速歩競走のなかでもトロットとペースのレースが約半々だったようです。
同じ側の手と足が同時に動くと、たどたどしい幼稚園児の行進を思い浮かびそうですが、馬の場合、ペースするときに後肢の踏み込みが前肢にぶつかることがなく、歩幅を大きく踏み込める利点があります。また、左右の動きが大きくなる代わり、上下の動きは少なく、馬車を引くとも安定性も良いと言われ、わざわざその歩様ができるように調教されています。
実はモンゴル馬や北海道和種は、基本的に側対歩で走ると聞きます。象、ラクダ、ライオンなどもそうです。
「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)によれば、昔の武士が乗る馬は側対歩で走ることが要求されるそうです。馬上から矢を射る場合、上下動が少ない側対歩が良いとされ、側対歩のできない馬の調教法などが馬術伝書に記されています。
ついてに、時代劇で俳優さんが馬の左側から乗ることをよく見かけますが、これは時代考証の誤りです。西洋式の馬文化が入る幕末以降ならいざ知らず、昔の武士が馬に乗るときは、必ず右側から乗っていました。室町時代以降、様々な馬術の流儀が生まれましたが、すべて右乗りが原則でした。
カーソルを合わせると、「エドワード・マイブリッジ生誕182周年」の文字が見えてきますが、エドワード・マイブリッジはイギリス出身の写真家です。元カリフォルニア州知事のリーランド・スタンフォードから依頼を受け、走る馬の4本の足がすべて地面から離れる瞬間の写真を初めて撮影した人です。
疾走する馬が全部の足を同時に地面から離すことがあるかどうか、というのは、手元の「馬のすべてがわかる本」(原田俊治、PHP文庫)によると、実は古代ギリシャから綿々と続いていた議論のテーマでした。
しかしなにしろ疾走する馬の足の動きが速くて、観察者は自分の見ているものに確信を持てなかったのであります。
エドワード・マイブリッジは独創的な撮影方法を考案し、苦労した末に依頼をみごと応えました。また、そのために考案した連続写真の撮影方法は、後に映写機、映画の誕生に結びついたとも言われ、カメラの歴史の本には必ずと言って良いほど、取り上げられています。
運動中の馬の足の運びは、馬術家によると10種類以上と数えられますが、常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、および駆歩(かけあし)の3つに分類することが多いです。
常歩とは、馬がゆっくり自然に歩いている状態です。一歩ずつ等間隔に移動し、蹄音は4拍子、全部の足が同時に地面を離れることはありません。
速歩とは、前後の足二本が一組となって同時に地面を離れ、同時に着地する歩様です。トロット(Trot、斜対歩)とペース(Pace、側対歩)の2種類に大別でき、前者は斜め前後の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動き、後者は同じ側の2本(左前と右後、または右前と左後)が同時に動く走り方です。
駆歩は、最もスピードの速い歩様です。そのなか、日本語で競走駆歩もしくは襲歩とも呼ばれるのがギャロップで、緩駆歩の訳が割り当てられるのがキャンターです。ギャロップの蹄音は四拍子、右後→左後→右前→左前、もしくは左後→右後→左前→右前の順で着地します。キャンターの蹄音は三拍子、右後→左後と右前同時→左前、もしくは左後→右後と左前同時→右前の順で着地します。いずれも全部の足が地面から離れる浮遊期は、一完歩ごとに一度発生します。
速歩でも、全部の足が地面から離れることが、ごく短時間ですが、一完歩ごと二度生じることがあるそうです。「馬のすべてがわかる本」によると、エドワード・マイブリッジが撮影して、その事実を突き止めたそうですが、少なくともGoogleロゴに載っているのは、速歩中の馬ではなく、明らかに馬がギャロップしているときの写真です。
日本でもかつて速歩競走が多く行われましたが、だいぶ前に書いた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/04/26/1466536)ように、キャンターだけでなく、ペースも異歩法とされ、失格の対象です。アメリカなどでは、速歩競走のなかでもトロットとペースのレースが約半々だったようです。
同じ側の手と足が同時に動くと、たどたどしい幼稚園児の行進を思い浮かびそうですが、馬の場合、ペースするときに後肢の踏み込みが前肢にぶつかることがなく、歩幅を大きく踏み込める利点があります。また、左右の動きが大きくなる代わり、上下の動きは少なく、馬車を引くとも安定性も良いと言われ、わざわざその歩様ができるように調教されています。
実はモンゴル馬や北海道和種は、基本的に側対歩で走ると聞きます。象、ラクダ、ライオンなどもそうです。
「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)によれば、昔の武士が乗る馬は側対歩で走ることが要求されるそうです。馬上から矢を射る場合、上下動が少ない側対歩が良いとされ、側対歩のできない馬の調教法などが馬術伝書に記されています。
ついてに、時代劇で俳優さんが馬の左側から乗ることをよく見かけますが、これは時代考証の誤りです。西洋式の馬文化が入る幕末以降ならいざ知らず、昔の武士が馬に乗るときは、必ず右側から乗っていました。室町時代以降、様々な馬術の流儀が生まれましたが、すべて右乗りが原則でした。
【メモ】ロンシャン競馬場の落成 ― 2011-08-17 22:03:03
「19世紀フランス 光と闇の空間 ~挿絵入り新聞『イリュストラシオン』にたどる」(小倉孝誠、人文書院)を、いま読んでいます。
ブローニュの森に、1900メートルと2800メートルの2つのコース、パドック、五千人を収容できる観覧席、ビュッフェ等が整備されたロンシャン競馬場が落成したのは1857年4月26日です。パリの都市改造などに尽力したことによりその名を歴史に残したジョルジュ・オスマンは、その日のことを、「私の知事在職中もっとも幸せだった一日」だと、その「回想録」に記しました。
1857年5月の「イリュストラシオン」も、2ページにわたる大きな図版を掲載し、競馬場の完成を報告しました:
「城壁内で古い界隈が取り壊され、大規模な公共事業と美化作業が行われ、パリは世界でも無比の首都になったが、この現代のバビロンには何かが欠けていた。競馬場が欠けていたのだ。......」
「今やパリは、この点でもっとも恵まれているイギリスの町と比べても何ら遜色ない。魔法のように広大で幻想的な公園に変貌したあの森の向こう側、城壁跡からほど遠くないところに、大きな競馬場ができたのである。それは有名ニューマーケットやエプソムにも匹敵しうるほどだ。」
ニューマーケットやエプソムの名前を挙げるほど、競馬の先進国イギリスをライバル視しているようです。
パリ郊外にはすでに1833年にシャンティー競馬場が作られていましたが、市街から60キロも離れているため、フランスの馬種改良促進協会はずっと市中心部に近い土地を物色していました。
ジョルジュ・オスマン知事の大工事により、広い空き地となったロンシャン修道院の跡地が、まさにそのぴったりの空間となったわけです。
ちなみに、障害レース用のオートイユ競馬場が森の東側にできたのは、さらに15年後です。
(http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/02/18/2637841)
ブローニュの森に、1900メートルと2800メートルの2つのコース、パドック、五千人を収容できる観覧席、ビュッフェ等が整備されたロンシャン競馬場が落成したのは1857年4月26日です。パリの都市改造などに尽力したことによりその名を歴史に残したジョルジュ・オスマンは、その日のことを、「私の知事在職中もっとも幸せだった一日」だと、その「回想録」に記しました。
1857年5月の「イリュストラシオン」も、2ページにわたる大きな図版を掲載し、競馬場の完成を報告しました:
「城壁内で古い界隈が取り壊され、大規模な公共事業と美化作業が行われ、パリは世界でも無比の首都になったが、この現代のバビロンには何かが欠けていた。競馬場が欠けていたのだ。......」
「今やパリは、この点でもっとも恵まれているイギリスの町と比べても何ら遜色ない。魔法のように広大で幻想的な公園に変貌したあの森の向こう側、城壁跡からほど遠くないところに、大きな競馬場ができたのである。それは有名ニューマーケットやエプソムにも匹敵しうるほどだ。」
ニューマーケットやエプソムの名前を挙げるほど、競馬の先進国イギリスをライバル視しているようです。
パリ郊外にはすでに1833年にシャンティー競馬場が作られていましたが、市街から60キロも離れているため、フランスの馬種改良促進協会はずっと市中心部に近い土地を物色していました。
ジョルジュ・オスマン知事の大工事により、広い空き地となったロンシャン修道院の跡地が、まさにそのぴったりの空間となったわけです。
ちなみに、障害レース用のオートイユ競馬場が森の東側にできたのは、さらに15年後です。
(http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/02/18/2637841)
先週末の競馬 ― 2010-10-04 23:04:08
先週末の競馬はとてもエキサティングでした。
まずは土曜日のアメリカ、ベルモントパーク競馬場で行われたフラワーボウル招待ステータス(米G1)に、日本からは松永厩舎のレッドデザイアが出走しました。
レッドデザイアは去年の秋華賞馬(桜花賞、オークスはいずれもブエナビスタの2着)で、ジャパンカップ3着、3月はドバイのマクトゥームCR3(G2)で強敵相手に勝利しています。ドバイワールドカップは11着に終わりましたが、今回はブリーダズカップ・フィリー&メアターフを狙って、その前哨戦としての出走です。
映像を見ましたが、結果から言えば勝ち馬アーヴェイ(Ave)から1馬身差の3着でした。本番に較べれば楽な相手に勝ち切れなかったが、休み明けのレースとしてはまずまずだったかも知れません。
同じくアメリカ、日曜日にはもうひとつ牝馬限定のG1レース、レディーズシークレット・ステータスが行われました。芝のフラワーボウル招待Sと違って、こちらはハリウッドパークのオールウェザー、あのセニヤッタ(Zenyatta)が出走しました。
わずか5頭立てですが、ゼニヤッタは例によって最後方からレースを進み、最後の直線、逃げ馬を交わしてスウイッチ(Switch)が余力を持って先頭に立ったときはさすがにどうかなと思いましたが、そこからでもセニヤッタはやっぱり差し切ってしまうのですね。これでデビューからの連勝記録はなんと積み重ねてついに北米競馬記録タイの19連勝となりました。どこまで続くのでしょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=omHNYaPCU6w
日本では日曜日に短距離のG1・スプリンターズ・ステークスが行われました。
日本ではここ数年、スプリンター戦線に傑出馬が現れなく、今回のレースも前哨戦のセントウル・ステータスで2着に入った香港馬のグリーンバーディー(綠色駿威)が単勝1番人気に押し出されました。
しかし、レースを逃げ切ったのはもう1頭の香港馬、ほとんど人気がなかったほうのウルトラファンタジー(極奇妙)でした。名馬セイクリッドキングダム(蓮華生輝)と同じ厩舎、これが初のG1勝利だったようです。香港調教馬としてはあのサイレントウィットネス(精英大師、2005年勝ち馬)以来のスプリンターズS制覇です。人気のグリーンバーディーは7着に敗れましたが、少なくとも短距離レースにおける香港競馬のレベルの高さは示したと思います。
18頭いる出走馬のうち、2頭だけ参戦してきた香港馬が日本のスプリンターズSで7着と1着に入りましたが、20頭の出走馬がいる今年の凱旋門賞で、日本から参戦した2頭の着順も、7着と、1着にかなり近い2着でした。
あのエルコンドルパサーに並び、日本調教馬としては最高着順の2着に大健闘したナカヤマフェスタは、いくら褒めても褒めたりないと思います。日本でもG1で人気になったことがないですが、今年の宝塚記念を快勝したように、みんなが思っているよりもかなり強い馬になったかも知れません。ナカヤマフェスタは4歳、もう1頭のビクトワルピザは3歳と、どちらもまだ若く、今後の活躍も期待できそうです。
先週末の競馬はとてもインターナショナルでした。
まずは土曜日のアメリカ、ベルモントパーク競馬場で行われたフラワーボウル招待ステータス(米G1)に、日本からは松永厩舎のレッドデザイアが出走しました。
レッドデザイアは去年の秋華賞馬(桜花賞、オークスはいずれもブエナビスタの2着)で、ジャパンカップ3着、3月はドバイのマクトゥームCR3(G2)で強敵相手に勝利しています。ドバイワールドカップは11着に終わりましたが、今回はブリーダズカップ・フィリー&メアターフを狙って、その前哨戦としての出走です。
映像を見ましたが、結果から言えば勝ち馬アーヴェイ(Ave)から1馬身差の3着でした。本番に較べれば楽な相手に勝ち切れなかったが、休み明けのレースとしてはまずまずだったかも知れません。
同じくアメリカ、日曜日にはもうひとつ牝馬限定のG1レース、レディーズシークレット・ステータスが行われました。芝のフラワーボウル招待Sと違って、こちらはハリウッドパークのオールウェザー、あのセニヤッタ(Zenyatta)が出走しました。
わずか5頭立てですが、ゼニヤッタは例によって最後方からレースを進み、最後の直線、逃げ馬を交わしてスウイッチ(Switch)が余力を持って先頭に立ったときはさすがにどうかなと思いましたが、そこからでもセニヤッタはやっぱり差し切ってしまうのですね。これでデビューからの連勝記録はなんと積み重ねてついに北米競馬記録タイの19連勝となりました。どこまで続くのでしょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=omHNYaPCU6w
日本では日曜日に短距離のG1・スプリンターズ・ステークスが行われました。
日本ではここ数年、スプリンター戦線に傑出馬が現れなく、今回のレースも前哨戦のセントウル・ステータスで2着に入った香港馬のグリーンバーディー(綠色駿威)が単勝1番人気に押し出されました。
しかし、レースを逃げ切ったのはもう1頭の香港馬、ほとんど人気がなかったほうのウルトラファンタジー(極奇妙)でした。名馬セイクリッドキングダム(蓮華生輝)と同じ厩舎、これが初のG1勝利だったようです。香港調教馬としてはあのサイレントウィットネス(精英大師、2005年勝ち馬)以来のスプリンターズS制覇です。人気のグリーンバーディーは7着に敗れましたが、少なくとも短距離レースにおける香港競馬のレベルの高さは示したと思います。
18頭いる出走馬のうち、2頭だけ参戦してきた香港馬が日本のスプリンターズSで7着と1着に入りましたが、20頭の出走馬がいる今年の凱旋門賞で、日本から参戦した2頭の着順も、7着と、1着にかなり近い2着でした。
あのエルコンドルパサーに並び、日本調教馬としては最高着順の2着に大健闘したナカヤマフェスタは、いくら褒めても褒めたりないと思います。日本でもG1で人気になったことがないですが、今年の宝塚記念を快勝したように、みんなが思っているよりもかなり強い馬になったかも知れません。ナカヤマフェスタは4歳、もう1頭のビクトワルピザは3歳と、どちらもまだ若く、今後の活躍も期待できそうです。
先週末の競馬はとてもインターナショナルでした。
40年前の凱旋門賞(2) ― 2010-09-27 07:58:06
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前の記事で、「ササフラが勝った1970年の凱旋門賞」と書きましたが、1970年の凱旋門賞はササフラのレースというより、やはり名馬ニジンスキー(Nijinsky)が初めて敗退したレースとして人々に記憶されているのでしょう。
1970年、いまから40年前、大阪万博が行われ、よど号ハイジャック事件が発生し、三島由紀夫が切腹自決した年です。
その年の凱旋門賞はいつものように秋のロンシャン競馬場で行われましたが、出走頭数15頭は、その時代の凱旋門賞としてはかなり少ない部類です。
理由のひとつに、ニジンスキーはあまり傑出していて、勝負にならないと考えた陣営が多かったかも知れません。そう考えたとしても不思議なことではなく、ニジンスキーは凱旋門賞前まで、2000ギニー、ダービー、セントレジャーの英クラシック3冠を含めて11戦11勝、出走したすべてのレースを楽勝してきたわけですから。
栄光を目指して欧州各国から集まった錚々たるメンバーのなかに入っても、ニジンスキーのオッズは4対10、日本流で言えば単勝が1.4倍という抜けた支持率でした。1956年のリボー(1.6倍)、1965年のシーバード(2.2倍)、1971年のミルリーフ(1.7倍)、1985年のダンシングブレーブ(2.1倍)など、歴代の大本命馬と較べても、ニジンスキーの人気ぶりは明白です。
しかし心配された点もありました。
当初のプランになかったセントレジャーの出走も含めて、デビューから1年間で11レースも走り、その疲れがわずかながら噂されていました。しかし、それはレースが終わったあとだから言えるもので、ニジンスキーに限ってはよもやの負けはないだろう、という見方が大勢を占めていたようです。
最後の直線、先行するミスダンを馬場の真ん中からササフラが追いかけ、そのさらに外からニジンスキーが捉えようとした瞬間まで、そのように見えたかも知れません。
しかし、ニジンスキーの伸びは案外なものでした。あるいは、ゴールドカップなどを勝った父Sheshoonの血を受け継ぐササフラのスタミナが強靱だったか、数秒の間、両馬は等間隔のまま繋がり、やがてササフラが頭差のままのリードを守ったままゴール板まで凌ぎ切りました。
絶対ということはどこにもないです。不世出の天才ダンサー、ワスラフ・ニジンスキーから名前を取った不世出の名馬が、はじめての敗北を喫した40年前のレースの映像と写真を見ながら、不思議な感じがしながら、改めて思いました。
前の記事で、「ササフラが勝った1970年の凱旋門賞」と書きましたが、1970年の凱旋門賞はササフラのレースというより、やはり名馬ニジンスキー(Nijinsky)が初めて敗退したレースとして人々に記憶されているのでしょう。
1970年、いまから40年前、大阪万博が行われ、よど号ハイジャック事件が発生し、三島由紀夫が切腹自決した年です。
その年の凱旋門賞はいつものように秋のロンシャン競馬場で行われましたが、出走頭数15頭は、その時代の凱旋門賞としてはかなり少ない部類です。
理由のひとつに、ニジンスキーはあまり傑出していて、勝負にならないと考えた陣営が多かったかも知れません。そう考えたとしても不思議なことではなく、ニジンスキーは凱旋門賞前まで、2000ギニー、ダービー、セントレジャーの英クラシック3冠を含めて11戦11勝、出走したすべてのレースを楽勝してきたわけですから。
栄光を目指して欧州各国から集まった錚々たるメンバーのなかに入っても、ニジンスキーのオッズは4対10、日本流で言えば単勝が1.4倍という抜けた支持率でした。1956年のリボー(1.6倍)、1965年のシーバード(2.2倍)、1971年のミルリーフ(1.7倍)、1985年のダンシングブレーブ(2.1倍)など、歴代の大本命馬と較べても、ニジンスキーの人気ぶりは明白です。
しかし心配された点もありました。
当初のプランになかったセントレジャーの出走も含めて、デビューから1年間で11レースも走り、その疲れがわずかながら噂されていました。しかし、それはレースが終わったあとだから言えるもので、ニジンスキーに限ってはよもやの負けはないだろう、という見方が大勢を占めていたようです。
最後の直線、先行するミスダンを馬場の真ん中からササフラが追いかけ、そのさらに外からニジンスキーが捉えようとした瞬間まで、そのように見えたかも知れません。
しかし、ニジンスキーの伸びは案外なものでした。あるいは、ゴールドカップなどを勝った父Sheshoonの血を受け継ぐササフラのスタミナが強靱だったか、数秒の間、両馬は等間隔のまま繋がり、やがてササフラが頭差のままのリードを守ったままゴール板まで凌ぎ切りました。
絶対ということはどこにもないです。不世出の天才ダンサー、ワスラフ・ニジンスキーから名前を取った不世出の名馬が、はじめての敗北を喫した40年前のレースの映像と写真を見ながら、不思議な感じがしながら、改めて思いました。
40年前の凱旋門賞(1) ― 2010-09-25 12:59:26
欧州古馬競走の最高峰・凱旋門賞は、次の日曜日、10月3日に行われます。
シーザスターズ(Sea The Stars)やザルカヴァ(Zarkava)のようなスターがいないですが、宝塚記念を制したナカヤマフェスタと皐月賞馬のヴィクトワールピサ、今年の凱旋門賞には日本からのチャレンジーが2頭参戦予定です。ディープインパクトのときと違って、現地での評価はさほど高くないようですが、どっちも調子はまずまずと伝えられ、日本調教馬が2頭同時に凱旋門賞に出走するのは史上初めてのことで、日本の競馬ファンの間では盛り上がってきています。
日本調教馬が初めて凱旋門賞に挑戦したのは1969年、旧表記で7歳(現在の6歳)時のスピードシンボリです。後にシンボリルドルフを育て、名調教師として名を馳せた「ミスター競馬」野平祐二氏が、ロンジャンまで駆けつけて騎乗していました。
スピードシンボリの凱旋門賞での着順は、「はてなキーワード」で調べると10着(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C9%A5%B7%A5%F3%A5%DC%A5%EA)ですが、ウィキペディアのほうを見ると着外(11着以下は公式記録にないので着順不明)になっています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA)。
これはウィキペディアのほうが正確だと思います。公式記録を見ても、10着に名前の残っているのは Balto産駒のZborという馬です。
但し、ウィキペディアでも「野平祐二」の項では、「1969年、再びスピードシンボリで海外遠征を敢行。キングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)や、凱旋門賞(24頭中10着)に騎乗。」との記述があります。スピードシンボリが10着に入った、という間違ったソースが、どこかで流れていたと思われます。
非公式であれば、「The Grand History of The Prix de I'Arc de Triomphe」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2006/09/23/534846)で表記した順列を見る限り、スピードシンボリは出走馬24頭中の13着、ということになります。
凱旋門賞の公式記録で全出走馬の着順が残るようになったのは1971年以降です。スピードシンボリが挑戦した翌年、ササフラ(Sassfras)が勝った1970年の凱旋門賞も、公式記録上に着順が載っているのは 10着の A Charaまでです。
シーザスターズ(Sea The Stars)やザルカヴァ(Zarkava)のようなスターがいないですが、宝塚記念を制したナカヤマフェスタと皐月賞馬のヴィクトワールピサ、今年の凱旋門賞には日本からのチャレンジーが2頭参戦予定です。ディープインパクトのときと違って、現地での評価はさほど高くないようですが、どっちも調子はまずまずと伝えられ、日本調教馬が2頭同時に凱旋門賞に出走するのは史上初めてのことで、日本の競馬ファンの間では盛り上がってきています。
日本調教馬が初めて凱旋門賞に挑戦したのは1969年、旧表記で7歳(現在の6歳)時のスピードシンボリです。後にシンボリルドルフを育て、名調教師として名を馳せた「ミスター競馬」野平祐二氏が、ロンジャンまで駆けつけて騎乗していました。
スピードシンボリの凱旋門賞での着順は、「はてなキーワード」で調べると10着(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C9%A5%B7%A5%F3%A5%DC%A5%EA)ですが、ウィキペディアのほうを見ると着外(11着以下は公式記録にないので着順不明)になっています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA)。
これはウィキペディアのほうが正確だと思います。公式記録を見ても、10着に名前の残っているのは Balto産駒のZborという馬です。
但し、ウィキペディアでも「野平祐二」の項では、「1969年、再びスピードシンボリで海外遠征を敢行。キングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)や、凱旋門賞(24頭中10着)に騎乗。」との記述があります。スピードシンボリが10着に入った、という間違ったソースが、どこかで流れていたと思われます。
非公式であれば、「The Grand History of The Prix de I'Arc de Triomphe」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2006/09/23/534846)で表記した順列を見る限り、スピードシンボリは出走馬24頭中の13着、ということになります。
凱旋門賞の公式記録で全出走馬の着順が残るようになったのは1971年以降です。スピードシンボリが挑戦した翌年、ササフラ(Sassfras)が勝った1970年の凱旋門賞も、公式記録上に着順が載っているのは 10着の A Charaまでです。
オグリキャップの名を呟く ― 2010-07-05 17:49:41
大勢の仲間に入るように、稀代の名馬・オグリキャップにも迎えが来ました。
競馬の歴史上、オグリキャップより強い馬もいたのでしょう。しかし彼ほど「劇的」な名馬は、ほかには見当たらないと思います。
バブルに沸き、何もかも「劇的」であったあの時代においてさえ、オグリキャップは飛びぬけて、最もドラマチックな競走生活を送っていました。
地方育ちのゆえ栄光のクラシックに登録がなく、裏街道を驀進していた、噂の転入生の時代。先輩・タマモクロスとの葦毛対決に競馬キチの血潮を沸騰させた最初の秋。酷使と批判されながらも健気に走り続け、奇跡のマイルCS、ジャパンカップ連闘から、最後に力尽きた有馬記念まで、完璧に世間の涙を誘った二度目の秋。そして、もちろん完璧の安田記念から不振に喘ぐ秋、そして有終の美を飾った歓喜のラストランまで、あくまでも波乱万丈の最後の、三年目の走り。オグリキャップは長編の叙事詩、ど演歌、人間くさいヒーロー、伝奇です。
田舎から上京して、見知らぬ都会で奮闘する自身に投影し、オグリに励まされた、とこぼす若者。くすんだ灰色の毛色とやっけに離れた両目の間隔だけが似ているぬいぐるみを抱いて、おぐりん、カワイイ!と叫ぶ新たな競馬ファン。こんなむちゃくちゃなローテーションをオレは認められないと否定しながら、酔ったときだけ、あいつはすごいや、と嘆くオールドファン。どの口で語るオグリキャップもすべてではないですが、どの目に映るオグリキャップも真実でありました。
オグリキャップ、いまは、その名を呟くだけです。
競馬の歴史上、オグリキャップより強い馬もいたのでしょう。しかし彼ほど「劇的」な名馬は、ほかには見当たらないと思います。
バブルに沸き、何もかも「劇的」であったあの時代においてさえ、オグリキャップは飛びぬけて、最もドラマチックな競走生活を送っていました。
地方育ちのゆえ栄光のクラシックに登録がなく、裏街道を驀進していた、噂の転入生の時代。先輩・タマモクロスとの葦毛対決に競馬キチの血潮を沸騰させた最初の秋。酷使と批判されながらも健気に走り続け、奇跡のマイルCS、ジャパンカップ連闘から、最後に力尽きた有馬記念まで、完璧に世間の涙を誘った二度目の秋。そして、もちろん完璧の安田記念から不振に喘ぐ秋、そして有終の美を飾った歓喜のラストランまで、あくまでも波乱万丈の最後の、三年目の走り。オグリキャップは長編の叙事詩、ど演歌、人間くさいヒーロー、伝奇です。
田舎から上京して、見知らぬ都会で奮闘する自身に投影し、オグリに励まされた、とこぼす若者。くすんだ灰色の毛色とやっけに離れた両目の間隔だけが似ているぬいぐるみを抱いて、おぐりん、カワイイ!と叫ぶ新たな競馬ファン。こんなむちゃくちゃなローテーションをオレは認められないと否定しながら、酔ったときだけ、あいつはすごいや、と嘆くオールドファン。どの口で語るオグリキャップもすべてではないですが、どの目に映るオグリキャップも真実でありました。
オグリキャップ、いまは、その名を呟くだけです。
黄金の跡地に幸福が走っていた ― 2010-04-06 01:14:58
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オーロパークの愛称を持つ、いまの盛岡競馬場が完成したのは1996年(平成8年)です。新競馬場のオープンに伴い、高松の池に隣接する旧・盛岡競馬場は65年間の歴史に幕を閉じ、廃用となりました。
旧・盛岡競馬場の跡地は現在、公園ゾーン、保健・福祉ゾーン、環境ゾーンなどに区分けして、徐々に整備されているようですが、上の写真は僕が1996年の夏に撮った写真です。まだ閉場して間がなく、観客席や走路がそのまま残っていました。
旧・盛岡競馬場ができたのは昭和8年です。
当時の盛岡競馬は政府公認を目指し、走路を帝国競馬協会が定める規模にするため、元々の「黄金競馬場」(旧・旧盛岡競馬場)を廃用にし、新たに高松池近くの毛無森に「新黄金競馬場」を急ピッチで完成したものです。
なぜ盛岡競馬場の名前が「黄金」に拘るか、その理由はわかりませんが、いまのオーロパークもまた黄金競馬場です。ラテン語で黄金を意味するaureoに由来すると思われます。
さて、昭和8年の11月「新黄金競馬場」で最初に行われたレースは繋駕(けいが)速歩競走だったそうです。繋駕速歩というのは、1人乗りの馬車に騎手が乗って操縦する形態のレースです。当時は馬の資源が少なく、出走間隔が少なくて済む速歩競走は全国各地に行われていました。なかでも特に岩手競馬は繋駕速歩レースの数が多く、年を追って徐々に編成が減らされながらも、延々と1971年まで続いていたようです。
そして、その最初のレースをめでたく勝ったのが、「コウフク」号という馬だったそうです。降服なのか幸福なのか、いまいちはっきりしませんが、なにしろめでたい日だったので、きっと後者なのでしょう。
オーロパークの愛称を持つ、いまの盛岡競馬場が完成したのは1996年(平成8年)です。新競馬場のオープンに伴い、高松の池に隣接する旧・盛岡競馬場は65年間の歴史に幕を閉じ、廃用となりました。
旧・盛岡競馬場の跡地は現在、公園ゾーン、保健・福祉ゾーン、環境ゾーンなどに区分けして、徐々に整備されているようですが、上の写真は僕が1996年の夏に撮った写真です。まだ閉場して間がなく、観客席や走路がそのまま残っていました。
旧・盛岡競馬場ができたのは昭和8年です。
当時の盛岡競馬は政府公認を目指し、走路を帝国競馬協会が定める規模にするため、元々の「黄金競馬場」(旧・旧盛岡競馬場)を廃用にし、新たに高松池近くの毛無森に「新黄金競馬場」を急ピッチで完成したものです。
なぜ盛岡競馬場の名前が「黄金」に拘るか、その理由はわかりませんが、いまのオーロパークもまた黄金競馬場です。ラテン語で黄金を意味するaureoに由来すると思われます。
さて、昭和8年の11月「新黄金競馬場」で最初に行われたレースは繋駕(けいが)速歩競走だったそうです。繋駕速歩というのは、1人乗りの馬車に騎手が乗って操縦する形態のレースです。当時は馬の資源が少なく、出走間隔が少なくて済む速歩競走は全国各地に行われていました。なかでも特に岩手競馬は繋駕速歩レースの数が多く、年を追って徐々に編成が減らされながらも、延々と1971年まで続いていたようです。
そして、その最初のレースをめでたく勝ったのが、「コウフク」号という馬だったそうです。降服なのか幸福なのか、いまいちはっきりしませんが、なにしろめでたい日だったので、きっと後者なのでしょう。


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