吉川英治と競馬2014-12-08 00:23:45

 菊池寬は大の競馬ファンで、文人馬主の草分けで言ってもよい人です。菊池寬に誘われて、競走馬のオーナーになった文人が多くいて、国民作家と言われていた吉川英治もそのひとりです。


 もっとも、吉川英治にとって、競馬は小さいときから身近にあったものです。

 吉川が生まれたのは横浜の根岸、回想録「忘れ残りの記」によると、
「家の前から競馬場の芝生が見えたということである。」
「ぼくの父は馬は持たなかったが、経営していた横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。」

 吉川は幼い頃から父と一緒に何度も競馬を観戦していたし、騎手になりたいと夢見たこともあったようです。
 父親は旧小田原の藩士・吉川直広、横浜桟橋合資会社を一緒に設立した高瀬理三郎との裁判に敗訴し、刑務所に入れられたりして、家運が急激に衰えていきました。

 英治はやむをえず小学校を中退し、小僧奉公に出ました。店員、工員、職人、給仕などあらゆる職につき、一家を支えました。

 母親は女学校を卒業後、国学者宅に見習いに出た、というから教養豊かな女性であったらしいです。
 出久根達郎のエッセイによれば、ある晩、食物が尽き、母親が台所で放心していました。
 英治は外へ出て、他家のジャガイモ畑に分け入って掘り出しました。畑の向こうに、希望していながら貧乏のゆえ入れなかった県立一中の校舎が白く見えたそうです。
 盗んできたものを見て、正直一途の母が何も言わなかったのは、それほど家が土壇場だったからでしょう。
 「貧しさもあまりのはては笑い合い」は、のちの吉川英治の川柳です。


 吉川英治が人気作家になった後、多くの競走馬の持ちました。
 昭和28年、愛馬チエリオは、牝馬ながらスプリングステークスなどを勝ち、皐月賞では1番人気に支持されました(6着)。オークスを1番人気で2着した後、連闘で日本ダービーにも出走しました(4着)。
 チエリオは秋にクイーンステークス、東京牝馬特別を、古馬となってから中山記念を勝ち、通算13勝をあげた、
いわゆる馬主孝行の馬です。。

 チエリオの二つ下の全弟がケゴンと名づけられ、やはり吉川英治の持ち馬です。
 ケゴンは旧3歳(現在の2歳)時だけで13回もレースに出て、2着3着の多い、タフで堅実な馬でした。3歳はオープン戦を勝って2番人気になった皐月賞も勝ち、吉川にクラシックホース・オーナーの栄耀を与えました。(ダービーでは1番人気で3着)

コメント

_ 蓮 ― 2014-12-08 23:59:59

吉川英治の子供時代にまで遡らなくても、ぼくの子供のころは貧乏人の子供か、金持ちの家の子供かは見分けがつきやすかったように思いますね。今は貧乏人の子供か金持ちの家の子供か一見しただけではわからないような気がします。

_ T.Fujimoto ― 2014-12-11 23:14:35

蓮さん、こんばんは。
一億総中流時代を経て、貧富の差が減ったかも知れません。あるいは、本当はお金がなくても、各種のローンやクレジットカード、サラリーマン金融等の普及により、少なくとも見た目は繕えるようになっただけかも知れませんね。

_ 風宮 ― 2014-12-14 21:35:40

通りすがりの書籍宣伝です、読後削除してください。
作品名 鎮守の杜

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