幻の本 ― 2012-01-20 00:38:47
曾つて誤つて法を破り
政治の罪人として捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
数多あるうちに余は其首領なり、
中に、余が最愛の
まだ蕾の花なる少女も、
国の為とて諸共に
この花婿も花嫁も。
:
:
と始まるのが、北村門太郎の「楚囚之詩」です。
いや、北村門太郎と言ってもあまりピンと来ないかも知れませんが、明治の文豪のひとり、北村透谷の本名です。
思潮社から出版されている「現代詩文庫1001 北村透谷詩集」を図書館から借りていますが、冒頭に全編収録されているのが処女作の「楚囚之詩」です。
実は、この原書は近代文学書の稀覯本の親玉と言われるぐらい、噂だけが有名で、実物を見たことのある人はごく稀という珍本です。
古書店のあるじでもあった作家・出久根達郎が「古本綺譚」で書いた話によれば、22歳の透谷がこのB6判横綴わずかな叙事詩を自費出版したのは、明治22年の4月だそうです。
自序では、「余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是れを書肆の手に渡して知己及び文学に志ある江湖の諸兄に頒たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇しました。」で始まり、「余は此『楚囚之詩』が江湖に容れられる事を要しませぬ」と続いたりと、はなはだ頼りない言葉を綴りました。
はたしてこの小冊子が印刷されるや、やはり自信がなく、後悔したのか、まもなく著者により回収され、手元に残す一冊を除いてすべて廃棄した、と透谷が日記に書きました。
透谷は満25歳のときに自殺しましたが、透谷の名声が上ってからは、もし見つかったら幻の本だろうと言われていました。
42年後の昭和5年、本郷の古本即売展で、ある大学生が雑本の山からその「幻の本」を見つけ出し、稀覯本につきものの数奇な伝説はここから始まりました。
その学生は35銭で購入しましたが、すると隣から突如、その学生をつかまえて、ぜひ5円でゆずれと血相を変えて談判する紳士が現れました。何事かとほかの客がとり囲い、くだんの学生は本を抱きしめて逃げるように会場から消えてしまい、話題騒然となったそうです。
その本が透谷日記にいう、残った唯一の一冊だと思われましたが、実はそうではないかも知れません。十数年経って、二冊目が出て、そのときは80円で売れたそうです。
最近では平成14年の京都組合大市に出品されたそうですが、当初店頭に並んでいたわずかの時間で何冊か売れたものがあって、現在完全本は4、5部存在していると言われています。
また、昭和37年に神戸の古書市場に出品された「万象図譜」という、四六判40頁袋綴の袋から、バラバラになった「楚囚之詩」の本文が出てきて、やはり大騒ぎになりました。「万象図譜」は明治24年に出版されたもので、特に稀覯本ではないですが、同じ製本所で破棄処分になった「楚囚之詩」のページをシン紙に用いたと推定されたので、愛書家やコレクターたちはたちまち「万象図譜」探しに血眼となりました。ところがせっかく入手して開いてみると、シン紙には古新聞やほかの本の断裁が詰め込まれ、残骸でもなかなか現れてこないから、「楚囚之詩」は幻の本なのであります。
北村透谷はここ小田原の生まれです。
父母とともに上京したのは十三、四歳の頃だと思います。また、短い人生としての最晩年も、小田原市国府津の長泉寺で過ごしました。
「小田原と北村透谷」(小澤勝美 著)という本が僕の手元にありますが、透谷の文章の美しさと力強さは、壮大な箱根の山々を背景に美しい相模の海に面した自然環境にも関係するだろう、と記されています。
彼が生まれ育った小田原唐人町の海岸や、祖母とお参りした早川の観音、「景色よろし」と日記に書いた江の浦、いずれも僕ににとっても身近の景色で、珍しくもなく、むろん幻でもないです。
政治の罪人として捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
数多あるうちに余は其首領なり、
中に、余が最愛の
まだ蕾の花なる少女も、
国の為とて諸共に
この花婿も花嫁も。
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:
と始まるのが、北村門太郎の「楚囚之詩」です。
いや、北村門太郎と言ってもあまりピンと来ないかも知れませんが、明治の文豪のひとり、北村透谷の本名です。
思潮社から出版されている「現代詩文庫1001 北村透谷詩集」を図書館から借りていますが、冒頭に全編収録されているのが処女作の「楚囚之詩」です。
実は、この原書は近代文学書の稀覯本の親玉と言われるぐらい、噂だけが有名で、実物を見たことのある人はごく稀という珍本です。
古書店のあるじでもあった作家・出久根達郎が「古本綺譚」で書いた話によれば、22歳の透谷がこのB6判横綴わずかな叙事詩を自費出版したのは、明治22年の4月だそうです。
自序では、「余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是れを書肆の手に渡して知己及び文学に志ある江湖の諸兄に頒たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇しました。」で始まり、「余は此『楚囚之詩』が江湖に容れられる事を要しませぬ」と続いたりと、はなはだ頼りない言葉を綴りました。
はたしてこの小冊子が印刷されるや、やはり自信がなく、後悔したのか、まもなく著者により回収され、手元に残す一冊を除いてすべて廃棄した、と透谷が日記に書きました。
透谷は満25歳のときに自殺しましたが、透谷の名声が上ってからは、もし見つかったら幻の本だろうと言われていました。
42年後の昭和5年、本郷の古本即売展で、ある大学生が雑本の山からその「幻の本」を見つけ出し、稀覯本につきものの数奇な伝説はここから始まりました。
その学生は35銭で購入しましたが、すると隣から突如、その学生をつかまえて、ぜひ5円でゆずれと血相を変えて談判する紳士が現れました。何事かとほかの客がとり囲い、くだんの学生は本を抱きしめて逃げるように会場から消えてしまい、話題騒然となったそうです。
その本が透谷日記にいう、残った唯一の一冊だと思われましたが、実はそうではないかも知れません。十数年経って、二冊目が出て、そのときは80円で売れたそうです。
最近では平成14年の京都組合大市に出品されたそうですが、当初店頭に並んでいたわずかの時間で何冊か売れたものがあって、現在完全本は4、5部存在していると言われています。
また、昭和37年に神戸の古書市場に出品された「万象図譜」という、四六判40頁袋綴の袋から、バラバラになった「楚囚之詩」の本文が出てきて、やはり大騒ぎになりました。「万象図譜」は明治24年に出版されたもので、特に稀覯本ではないですが、同じ製本所で破棄処分になった「楚囚之詩」のページをシン紙に用いたと推定されたので、愛書家やコレクターたちはたちまち「万象図譜」探しに血眼となりました。ところがせっかく入手して開いてみると、シン紙には古新聞やほかの本の断裁が詰め込まれ、残骸でもなかなか現れてこないから、「楚囚之詩」は幻の本なのであります。
北村透谷はここ小田原の生まれです。
父母とともに上京したのは十三、四歳の頃だと思います。また、短い人生としての最晩年も、小田原市国府津の長泉寺で過ごしました。
「小田原と北村透谷」(小澤勝美 著)という本が僕の手元にありますが、透谷の文章の美しさと力強さは、壮大な箱根の山々を背景に美しい相模の海に面した自然環境にも関係するだろう、と記されています。
彼が生まれ育った小田原唐人町の海岸や、祖母とお参りした早川の観音、「景色よろし」と日記に書いた江の浦、いずれも僕ににとっても身近の景色で、珍しくもなく、むろん幻でもないです。
木馬は運べない箱根八里 ― 2012-01-11 23:41:29
箱根八里の道が歩きにくいのは、昔から定評があるものです。
安政2年(1855年)、幕末きっての名官吏・川路聖謨が下田からの帰り道で箱根を越えるとき、石畳で転んでしまいました。
実は、彼は前の年も箱根の坂で二度転んだらしく、氏は「下田日記」に「箱根みち、殊のほかわるし。例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候。」と書き、箱根の雲助が地獄に落ちても、エンマ様は剣の山のお仕置きはしないだろう、とまで言い捨てました。
安政の大地震からわずか五ヵ月後のことで、その影響もあったかも知れません。
但し、そもそも箱根の石畳は平らに作ろうとしていなかったせいかも知れません。
「はこね昔がたり」(かなしんブック)によれば、寛政5年(1793年)、相模、伊豆の沿岸を踏査した老中筆頭松平定信が帰路に箱根を越えた際、たまたま道普請が行われ、石畳の道を平らに修理していました。それを見た定信は江戸城に帰るや、直ちに道中奉行を呼んだそうです。
「箱根山の儀は、御要害の場所につき、石高く難所これ有るべく候処、道造りの儀、入念候ては御趣旨に当たらず......」
つまり、箱根は江戸を守る大事な関所、石が凹凸して歩きにくいであるべきなのに、道造りを入念に行っては、要害の地である趣旨に反する、ということを言っていました。
当然のこと、小田原藩と江川代官所にはその旨の通達がすぐに出されました......
それが幕末になり、公武合体を進めるために徳川十四代将軍家茂が上洛することになり、その前年の文久2年(1862年)の10月から、箱根の石畳の全面改修が行われました。
石畳の道の改修を裏書きする資料が残っていますが、さすがに天下の大将軍を転ばせるにはいかないので、今度は念を入れて丈夫に作ったようです。平らな石を選んで並べただけでなく、昭和55年の調査結果によると、赤土を板築状に固めて土台を造り、敷石の裏には城の石垣を思わせる裏込の小石が詰められたそうです。
もちろん、歩きやすくなった箱根の道は、もうはや江戸を守る要害の地ではなくなり、わずか6年後の慶応4年(1868年)、有栖川宮を大総督とする東征軍は、楽々とこの石畳の道を通って江戸に向けて進軍したことでしょう。
本を閉じて思い出したのは、中国の古典「韓非子」にある話です。
春秋時代の晋の六卿のひとりである知伯は、仇由という国を攻めようとしたが、難路に阻まれ、兵隊を遣ることができません。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、仇由の君主に贈ろうと申し出ました。仇由の君主は忠臣の諌めを聞かず、道路を整備して鐘を国内に入れましたが、僅かに七ヶ月後に、仇由は知伯によって亡ぼされました。
この説話をもうちょっと変形すれば、例のトロイの木馬の話になる、と指摘したのは、人類学者にして博物学者の金関丈夫です。
安政2年(1855年)、幕末きっての名官吏・川路聖謨が下田からの帰り道で箱根を越えるとき、石畳で転んでしまいました。
実は、彼は前の年も箱根の坂で二度転んだらしく、氏は「下田日記」に「箱根みち、殊のほかわるし。例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候。」と書き、箱根の雲助が地獄に落ちても、エンマ様は剣の山のお仕置きはしないだろう、とまで言い捨てました。
安政の大地震からわずか五ヵ月後のことで、その影響もあったかも知れません。
但し、そもそも箱根の石畳は平らに作ろうとしていなかったせいかも知れません。
「はこね昔がたり」(かなしんブック)によれば、寛政5年(1793年)、相模、伊豆の沿岸を踏査した老中筆頭松平定信が帰路に箱根を越えた際、たまたま道普請が行われ、石畳の道を平らに修理していました。それを見た定信は江戸城に帰るや、直ちに道中奉行を呼んだそうです。
「箱根山の儀は、御要害の場所につき、石高く難所これ有るべく候処、道造りの儀、入念候ては御趣旨に当たらず......」
つまり、箱根は江戸を守る大事な関所、石が凹凸して歩きにくいであるべきなのに、道造りを入念に行っては、要害の地である趣旨に反する、ということを言っていました。
当然のこと、小田原藩と江川代官所にはその旨の通達がすぐに出されました......
それが幕末になり、公武合体を進めるために徳川十四代将軍家茂が上洛することになり、その前年の文久2年(1862年)の10月から、箱根の石畳の全面改修が行われました。
石畳の道の改修を裏書きする資料が残っていますが、さすがに天下の大将軍を転ばせるにはいかないので、今度は念を入れて丈夫に作ったようです。平らな石を選んで並べただけでなく、昭和55年の調査結果によると、赤土を板築状に固めて土台を造り、敷石の裏には城の石垣を思わせる裏込の小石が詰められたそうです。
もちろん、歩きやすくなった箱根の道は、もうはや江戸を守る要害の地ではなくなり、わずか6年後の慶応4年(1868年)、有栖川宮を大総督とする東征軍は、楽々とこの石畳の道を通って江戸に向けて進軍したことでしょう。
本を閉じて思い出したのは、中国の古典「韓非子」にある話です。
春秋時代の晋の六卿のひとりである知伯は、仇由という国を攻めようとしたが、難路に阻まれ、兵隊を遣ることができません。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、仇由の君主に贈ろうと申し出ました。仇由の君主は忠臣の諌めを聞かず、道路を整備して鐘を国内に入れましたが、僅かに七ヶ月後に、仇由は知伯によって亡ぼされました。
この説話をもうちょっと変形すれば、例のトロイの木馬の話になる、と指摘したのは、人類学者にして博物学者の金関丈夫です。
象も歩いた箱根八里 ― 2012-01-10 23:32:36
いまの箱根駅伝でも、5区の山登りと6区の山下りは足に負担がかかり、相当なスタミナが要求される難関ですが、江戸時代の人々は整備が不完全な道を歩かなければならないので、なおさら大変だったと思われます。
人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。
その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
享保14年(1729年)5月のことです。
「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。
象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。
そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。
象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。
ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。
なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
・十六日、まんじゅう急用、百文。
・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
:
:
・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
・象相煩い候につき、護摩代、一分。
・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。
好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。
この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。
人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。
その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
享保14年(1729年)5月のことです。
「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。
象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。
そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。
象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。
ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。
なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
・十六日、まんじゅう急用、百文。
・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
:
:
・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
・象相煩い候につき、護摩代、一分。
・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。
好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。
この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。
賀正 ― 2012-01-01 07:54:00
夢の診断 ― 2011-12-24 13:06:01
夢を見ました。
メガネのサイド側のツルの部分、あれをテンプルと言うらしいですが、なぜか左側のが真ん中から折れてしまいました。簡単に修理できそうになく、夜も更けたので、ひとまずそのまま置いて寝ることにしました。
夜中に目が覚めて、メガネが壊れたのは夢ではないかと疑い、手を伸ばしてベッドサイドテーブルに置いてあるメガネを触ってみました。残念ながら、しっかりと折れていて、とても使い物にならない状態。
朝方になって、やはりあれは夢であることに気づき、もう一度メガネをチェックしました。するとどこにも故障はなく、いつもの状態に戻っていました。
恐らく夜中に目が覚めたのも、夢の一部だったのでしょう。
夢の診断学に通じている人によれば、メガネは考え方、見方、良識、常識、分別、観察力、先見の明を表します。
メガネを探している夢は、見通しが甘くなっている警告だそうです。
メガネが壊れている夢は、物事をシビアに考えすぎず、いろんな角度から見るべき、という示唆かも知れません。
で、壊れた夢の夢を見るのは、どういう意味でしょうか?
メガネのサイド側のツルの部分、あれをテンプルと言うらしいですが、なぜか左側のが真ん中から折れてしまいました。簡単に修理できそうになく、夜も更けたので、ひとまずそのまま置いて寝ることにしました。
夜中に目が覚めて、メガネが壊れたのは夢ではないかと疑い、手を伸ばしてベッドサイドテーブルに置いてあるメガネを触ってみました。残念ながら、しっかりと折れていて、とても使い物にならない状態。
朝方になって、やはりあれは夢であることに気づき、もう一度メガネをチェックしました。するとどこにも故障はなく、いつもの状態に戻っていました。
恐らく夜中に目が覚めたのも、夢の一部だったのでしょう。
夢の診断学に通じている人によれば、メガネは考え方、見方、良識、常識、分別、観察力、先見の明を表します。
メガネを探している夢は、見通しが甘くなっている警告だそうです。
メガネが壊れている夢は、物事をシビアに考えすぎず、いろんな角度から見るべき、という示唆かも知れません。
で、壊れた夢の夢を見るのは、どういう意味でしょうか?
【レース予想】今年はクリスマス決戦 2011有馬記念 ― 2011-12-20 23:16:21
金に縁なき衆生にも年の瀬。と3年前もこのように書き始めましたが、なんだかんだ一年の締めくくり、例年通り、否応無く、今年も有馬記念がやってきます。
例年通りでないのは、クリスマス決戦となった今年の有馬記念は、考えるだけで興奮してしまう、豪華絢爛なメンバーが出走を予定しています。
ジャパンカップを快勝して改めて満天下に実力を示した女帝・ブエナビスタに、日本競馬史上7頭目の牡馬クラシック三冠馬となった若い英雄・オルフェーブルが挑戦する図式が、巷の好事者で囁かれています。しかしそう簡単に括れないのが今年の出走馬たちです。
例えば、アーネストリー。夏の宝塚記念では現実にブエナビスタを斥け、エイシンフラッシュ、ローズキングダムと言った4歳の看板馬も従え、堂々のG1制覇を果たしていました。
例えば、トーセンジョーダン。強敵を相手に一歩も引かなかった天皇賞、JCの走りは現在の充実さを物語っています。実は17戦9勝、何気に安定していて崩れません。去年の5着から前進があって当然の状態です。
例えば、ヴィクトワールピサ。久々となったこの前のJCは凡走しましたが、東日本大震災で愁雲が日本を覆っていた3月、ドバイワールドカップ制覇の喜報を伝えたのはこの馬だったことを忘れてはなりません。それに去年の有馬記念の勝ち馬で、中山競馬場は大の得意です。
例えば、エイシンフラッシュ。春の時点では史上でも最も層の厚い世代とまで語られた現4歳馬、まさかの全馬伏兵扱いに成り下がりましたが、逆襲がありそうな雰囲気が出ていて怖いです。なかでもこの馬、去年のダービー馬ですよ。軽視しないほうが良いでしょう。
例えば、ヒルノダムール。例えば、レッドデイヴィス。例えば、ローズキングダム...
どこから買っても、実はそれぞれ理屈が付けられてしまうひとかどでない強豪たちが、ずらりと並んでいます。
もうこうなると、勇気と愛情と気迫で決めるしかないでしょう。
◎ オルフェーブル
○ エイシンフラッシュ
▲ ヴィクトワールピサ
△ ルーラーシップ
引退レースとなるブエナビスタには、ありがとうと、お疲れ様の声を掛け、来年もエキサイティングな競馬が見たいという願望を込めての予想、もしくは理想です。
波乱に満ちた一年と相成りましたが、終わりよければすべて良し、どうか冬枯れの芝を、どの馬も怪我なく完走してほしいものです。そのうえ、なんとか予想も当てて良い気分で新年を迎えられれば、こんなに嬉しいことはないです。
例年通りでないのは、クリスマス決戦となった今年の有馬記念は、考えるだけで興奮してしまう、豪華絢爛なメンバーが出走を予定しています。
ジャパンカップを快勝して改めて満天下に実力を示した女帝・ブエナビスタに、日本競馬史上7頭目の牡馬クラシック三冠馬となった若い英雄・オルフェーブルが挑戦する図式が、巷の好事者で囁かれています。しかしそう簡単に括れないのが今年の出走馬たちです。
例えば、アーネストリー。夏の宝塚記念では現実にブエナビスタを斥け、エイシンフラッシュ、ローズキングダムと言った4歳の看板馬も従え、堂々のG1制覇を果たしていました。
例えば、トーセンジョーダン。強敵を相手に一歩も引かなかった天皇賞、JCの走りは現在の充実さを物語っています。実は17戦9勝、何気に安定していて崩れません。去年の5着から前進があって当然の状態です。
例えば、ヴィクトワールピサ。久々となったこの前のJCは凡走しましたが、東日本大震災で愁雲が日本を覆っていた3月、ドバイワールドカップ制覇の喜報を伝えたのはこの馬だったことを忘れてはなりません。それに去年の有馬記念の勝ち馬で、中山競馬場は大の得意です。
例えば、エイシンフラッシュ。春の時点では史上でも最も層の厚い世代とまで語られた現4歳馬、まさかの全馬伏兵扱いに成り下がりましたが、逆襲がありそうな雰囲気が出ていて怖いです。なかでもこの馬、去年のダービー馬ですよ。軽視しないほうが良いでしょう。
例えば、ヒルノダムール。例えば、レッドデイヴィス。例えば、ローズキングダム...
どこから買っても、実はそれぞれ理屈が付けられてしまうひとかどでない強豪たちが、ずらりと並んでいます。
もうこうなると、勇気と愛情と気迫で決めるしかないでしょう。
◎ オルフェーブル
○ エイシンフラッシュ
▲ ヴィクトワールピサ
△ ルーラーシップ
引退レースとなるブエナビスタには、ありがとうと、お疲れ様の声を掛け、来年もエキサイティングな競馬が見たいという願望を込めての予想、もしくは理想です。
波乱に満ちた一年と相成りましたが、終わりよければすべて良し、どうか冬枯れの芝を、どの馬も怪我なく完走してほしいものです。そのうえ、なんとか予想も当てて良い気分で新年を迎えられれば、こんなに嬉しいことはないです。
日本最初の特許 ― 2011-12-12 23:48:23
職業柄、特許文書を読んだりすることがありますが、馴染みのない英文に白旗をあげざるをえないは仕方ないとして、日本語の文章も同様です。どうしてこうもわかりにくく書けるかを、いつも不思議に思ってしまいます。
果たして、特許文書というものは、最初からそういうものだったのでしょうか?
「ぐうたらテクノロジー」(近藤雅樹、河出書房) という本があって、明治時代に特許登録された、どこかユーモラスな様々な発明が紹介されています。
日本では、明治維新後の1871年に最初の特許法である専売略規則が公布されましたが、この制度は利用されず、翌年には施行が中止されました。その後、ウィキペディアによれば「1885年4月18日に本格的な特許法である専売特許条例が公布・施行された」とありますが、どうやら4月には公布されただけで、施行は7月1日から、だそうです。
初日に早く5件の発明が申請され、輝く第1号は「錆び止め塗料」だそうです。
初年度の1885年は、さまざまな発明が集中的に出願されましたが、前出の本の作者が「日本的発明の白眉」として取り上げたのは、「改良蝙蝠傘」です。
折り畳み傘の第一号です。
折りたたみ傘が世に普及し始めたのは1950年代半ばになってからですが、特許はそのだいぶ前に出されたようです。
果たして、特許文書というものは、最初からそういうものだったのでしょうか?
「ぐうたらテクノロジー」(近藤雅樹、河出書房) という本があって、明治時代に特許登録された、どこかユーモラスな様々な発明が紹介されています。
日本では、明治維新後の1871年に最初の特許法である専売略規則が公布されましたが、この制度は利用されず、翌年には施行が中止されました。その後、ウィキペディアによれば「1885年4月18日に本格的な特許法である専売特許条例が公布・施行された」とありますが、どうやら4月には公布されただけで、施行は7月1日から、だそうです。
初日に早く5件の発明が申請され、輝く第1号は「錆び止め塗料」だそうです。
初年度の1885年は、さまざまな発明が集中的に出願されましたが、前出の本の作者が「日本的発明の白眉」として取り上げたのは、「改良蝙蝠傘」です。
折り畳み傘の第一号です。
折りたたみ傘が世に普及し始めたのは1950年代半ばになってからですが、特許はそのだいぶ前に出されたようです。
スゲー、スゲー奴ら ― 2011-12-08 22:33:04
最近、海外(米国発)のスレッドを2つほど読んでいますが、やたらに出てくる、気になる単語がいくつかあります。
まず、「epic」という単語です。
「Very powerful message, another epic chapter ! 」とか、
「I am speechless...man, this is simply soo soo epic !」とか、
「His death was just EPIC.」とか。
英和辞典では、叙事詩、叙事詩的な、雄大な、異常に大きい、と言った意味しか見当たりません。
ネット用語かも知れませんが、どうやら単に「凄いこと!」という意味で、近頃多用されているように見えます。
似ているところで、「awesome」もよく目にします。
「Looks awesome, thanks.」とか、
「I cannot fathom the awesomeness.」とか、
「FxxKING AWESOME」とか。
こちらはもっとまっとうな英語らしいですが、学生時代に真面目に英語を勉強していなかった僕が、ようやくこの単語を頭に入れたのはだいぶ後で、オーサムアゲイン(Awesome Again)という競走馬が北米で活躍し、1998年のブリーダーズカップ・クラシックを勝った頃です。
「awesome」はたぶん「素晴らしい」という意味ですが、使われすぎて、本来のニュアンスから若干外れた用例もたくさんあるような......
それと、もうひとつ、「badass」という見るからにあまり上品でない単語も、実によく見かけます。
「You're the man. badass.」とか、
「Yup, XXXXX is officially the most badass person ever.」とか、
「Badass! He isn't called the strongest man in the world for nothing.」とか。
和英辞書では「たちの悪い人、悪いやつ」といった悪い意味しか出てこないようですが、僕が最近目にしているのは逆のパターンで、ほとんど褒める場合で使われています。
「スゲー奴!」という感じで、これはいまどきの流行り言葉なのでしょうか?
「American Bad Ass」という曲もあったようですが、僕がこの単語を覚えたのは、ジ・アンダーテイカー(The Undertaker)が一時期、この「American Bad Ass」をニックネームに付けていた頃です。(但し正直、あまり意味がわからなかったのです ^^;)
WWEで二十数年間もトップを張っていられるほぼ唯一のレスラーであるジ・アンダーテイカーは、怪奇派ではありますが、決してヒールではないです。アメリカン・バッド・アスという不良中年ギミックで登場していた頃も含めて、いつも大声援を受けている超の付く人気選手です。
「badass」も、なんだか使われすぎて、新鮮さがなくなってきたかも知れません。
英語に限らず、日本の若い人たちも「凄い!」「すごい!」「すげー!」と濫用しすぎている感が否めません。残念ながら、感情の高ぶり以外、何も伝わらない場合がしばしばです。
ひどいときは、すごく嬉しいのか、すごく悲しいのかを、判別すらできなかったりします......
まず、「epic」という単語です。
「Very powerful message, another epic chapter ! 」とか、
「I am speechless...man, this is simply soo soo epic !」とか、
「His death was just EPIC.」とか。
英和辞典では、叙事詩、叙事詩的な、雄大な、異常に大きい、と言った意味しか見当たりません。
ネット用語かも知れませんが、どうやら単に「凄いこと!」という意味で、近頃多用されているように見えます。
似ているところで、「awesome」もよく目にします。
「Looks awesome, thanks.」とか、
「I cannot fathom the awesomeness.」とか、
「FxxKING AWESOME」とか。
こちらはもっとまっとうな英語らしいですが、学生時代に真面目に英語を勉強していなかった僕が、ようやくこの単語を頭に入れたのはだいぶ後で、オーサムアゲイン(Awesome Again)という競走馬が北米で活躍し、1998年のブリーダーズカップ・クラシックを勝った頃です。
「awesome」はたぶん「素晴らしい」という意味ですが、使われすぎて、本来のニュアンスから若干外れた用例もたくさんあるような......
それと、もうひとつ、「badass」という見るからにあまり上品でない単語も、実によく見かけます。
「You're the man. badass.」とか、
「Yup, XXXXX is officially the most badass person ever.」とか、
「Badass! He isn't called the strongest man in the world for nothing.」とか。
和英辞書では「たちの悪い人、悪いやつ」といった悪い意味しか出てこないようですが、僕が最近目にしているのは逆のパターンで、ほとんど褒める場合で使われています。
「スゲー奴!」という感じで、これはいまどきの流行り言葉なのでしょうか?
「American Bad Ass」という曲もあったようですが、僕がこの単語を覚えたのは、ジ・アンダーテイカー(The Undertaker)が一時期、この「American Bad Ass」をニックネームに付けていた頃です。(但し正直、あまり意味がわからなかったのです ^^;)
WWEで二十数年間もトップを張っていられるほぼ唯一のレスラーであるジ・アンダーテイカーは、怪奇派ではありますが、決してヒールではないです。アメリカン・バッド・アスという不良中年ギミックで登場していた頃も含めて、いつも大声援を受けている超の付く人気選手です。
「badass」も、なんだか使われすぎて、新鮮さがなくなってきたかも知れません。
英語に限らず、日本の若い人たちも「凄い!」「すごい!」「すげー!」と濫用しすぎている感が否めません。残念ながら、感情の高ぶり以外、何も伝わらない場合がしばしばです。
ひどいときは、すごく嬉しいのか、すごく悲しいのかを、判別すらできなかったりします......

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