蔵頭廻文借字詩 ~漢字の魔法陣2015-07-22 20:41:27

 以下、「錦纏枝」という「藏頭廻文借字詩」を写してきました。
 「笑苑千金」の巻の三、もしくは「事林廣記」の巻の七に掲載されているものです。

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|巒秀聳岩飛澗水|
|翠閑吟恣取歡邊|
|近待歸興酒宴松|
|居客來残闌聚竹|
|深邀喜席終陪檜|
|處親室浄窗寒宜|
|好音清玉漱泉○|
+-------+

 ヒントとして、「寒字藏頭 左右貫串 借韻読之 自然流転」の注釈が書かれています。


 さて、正しい読み方は、以下の通りだそうです:

 寒泉漱玉清音好
 好處深居近翠巒
 巒秀聳岩飛澗水
 水邊松竹檜宜寒

 寒窗浄室親邀客
 客待閑吟恣取歡
 歡宴聚陪終席喜
 喜來歸興酒闌残

 
 「藏頭」の意味は簡単で、ヒントの通り、頭の「寒」が隠れているだけです。
 「廻文」とあるのは、周りのほうから中心へと、くるくると廻って読んでいく意味です。
 「借字」のほうは、句末の一文字が、次の句の頭に来ることを表しています。

 押韻の知識に長けた当時文人なら、ヒントから、上記の解釈にたどり着くのは、それほど難しくないかも知れません。

離合詩 ~漢字の算数2015-07-12 08:33:14

 テレビ番組の「ミラクルナイン」に、「バラバラ漢字」という種類のパズルが時々出てきますが、あれは割りと得意です。

 漢字は様々なパーツに分けて見ることができます。昔の人はその特徴をとらえ、漢字の分解と合成を詩にして遊んでいました。かつて、ここで紹介していた石川丈山の「大筍五本」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/05/07/5850125)も、こういう「離合詩」と呼ばれる漢字遊びの一例です。

 二人相連欠其一  ( 二 + 人 - 一 = 大 )
 旬日竹友消日彩  ( 旬 + 日 + 竹 - 日 = 筍 )
 欲語無口亦無言  ( 語 - 口 - 言 = 五 )
 全躰忘身何有待  ( 躰 - 身 = 本 )


 日本では古来より、このような漢字遊びは好まれているようです。

 池田正式の「堀川百首題狂歌合」に、「蘭」の題名で、「草葺きに門を構へて西側の向かひに秋の花ぞかをれる」の歌があります。西側の向かいは東であり、「東+門+草冠」から、この秋の花は「蘭」であることを示しています。

 中世のなぞなぞ集「なそたて」(永正13年=1516年)に、「嵐は山を去って、軒のへんにあり」、「廿人木にのぼる」や「梅の木を水にたてかえよ」などの謎々が掲載され、「嵐-山=風」、「廿+人+木=茶」や「梅-木+水=海」と言った漢字の算術になっています。


 中国は宋代、葉夢得の「石林歌話」にも離合詩の例を挙げていますが、これは相当複雑なものになります。

 『古詩有離合體,近人多不解。此體始於孔北海,余讀《文類》,得北海四言一篇云:「漁公屈節,水潛匿方,與時進止,出寺弛張。呂公磯釣,闔口渭旁,九域有聖,無土不王。好是正直,女回于匡,海外有截,隼逝鷹揚。六翮將奮,羽儀未彰,龍蛇之蟄,俾也可忘。玟琁隱曜,美玉韜光。無名無譽,放言深藏,按轡安行,誰謂路長。」此篇離合「魯國孔融文舉」六字。』

 すなわち、以下のような算法で、魯國の孔融(字は文舉)を指すことになるようです。

 漁公屈節 水潛匿方 與時進止 出寺弛張  (漁-水+時-寺= 魯)
 呂公磯釣 闔口渭旁 九域有聖 無土不王  (呂-口+域-土= 国)
 好是正直 女回于匡 海外有截 隼逝鷹揚  (好-女+截-隹-十-’-ノ= 孔)
 六翮將奮 羽儀未彰 龍蛇之蟄 俾也可忘  (翮-羽+蛇-它= 融)
 玟琁隱曜 美玉韜光               (玟-玉= 文)
 無名無譽 放言深藏 按轡安行 誰謂路長  (譽-言+按-安= 舉)

 「鷹揚」が「’」と「ノ」を示すところなど、難解なのかも知れません。

残酷極まる四月の花2014-04-14 23:33:58

 四月は残酷極まる月です。

 そう書いたのは英国のノーベル賞詩人T.S.エリオットです。
 1922年刊の長詩「The Waste Land」の一章は、次のように始まっています:

 APRIL is the cruellest month, breeding
 Lilacs out of the dead land, mixing
 Memory and desire, stirring
 Dull roots with spring rain.
 Winter kept us warm, covering
 Earth in forgetful snow, feeding
 A little life with dried tubers.

 意味がよくわかりませんが、追憶(memory)と欲情(desire)をかき混ぜたり、ライラック(Lilac)を死の土から生み出すそうです。


 ライラックは英語読みで、フランス語読みだとリラになります。花は白と淡紫とあり、紫のほうは植民地時代にアメリカに持って行かれ、東部および中部の庭園に植えられ、ニューハンプシャー州の州花だとされています。

 Who thought of the lilac?
 “I,” dew said,
 I made up the lilac out of my head.”

 こちらは Humbert Wolfeの詩です。
( http://m.thenorthfieldnews.com/news/2010-06-10/House_(and)_Home/Home_Again.html )

 続きがあります。あえて日本語訳のほうで:

  「露がライラックを作ったって!
 ふーん」とベニヒワが高い声で言った。
 そして、ひとつひとつの露の音符に
 ライラックが宿っていた。

 それより古く、1865年4月、観劇中に撃たれて死んだアメリカ第十六代大統領リンカーンへの、ワルト・ホイットマンの追頌歌にも出てきます。

 咲き残りのライラックが戸口の庭に匂ひ、
 夜空の西にたくましい星が沈み果てた時
 私は嘆き悲しんだ~而して返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだらう。
 (有島武郎 訳)


 ライラックスマイルという馬が中央競馬で走ったのは、1990年代の初めです。

 菊花賞に春の天皇賞と、長距離のGIレースで無類の強さを誇るライスシャワーの妹で、一時期結構注目されました。3歳時、確かにライスシャワーが出走するオールカマーの前日に3勝目をあげ、これでこの馬もエリザベス女王杯が楽しみ、翌日に走る兄貴にも弾みがついたんだな、と思ったりしました。
 ライスシャワーのオールカマーは、しかし一番人気を裏切って3着に破れ、そこから長きに渡って不振の日々が続きました。ライラックスマイルのほうも、次のクイーンカップで二桁着順の惨敗を喫し、エリザベス女王杯には出走も諦めました。

 ようやくライラックスマイルが1994年の秋に久々の勝利を収めれば、呼応するように、ライスシャワーのほうも1995年の春の天皇賞で大復活を果たし、3つ目のG1を手に入れました。
 が、残念ながら、次走の宝塚記念のレース中にライスシャワーは故障してしまい、そのまま予後不良となりました。
 ライスシャワーが亡くなった後、妹は一勝もできず、繁殖にあがった後に生んだ子供たちも、中央競馬ではつい勝ち鞍をあげることができませんでした。


 ライラックの花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。
 一方、一本でも切られるとまわりのライラックは翌年は咲かない、不吉な花だと言われ、病人の見舞いには厳禁、だそうです。
 エリオットが残酷極まる四月の象徴に挙げたのも、根が深い話です。

鄭愁予の「偈」を写したもの2013-06-22 22:22:29

 地球你不需留我。

鳴かぬなら 鳴かせてみせよう 鳩や亀2012-01-30 22:58:12

 「亀鳴くや 皆愚なる 村のもの」と詠んだのは、高浜虚子です。

 「亀鳴く」は、俳句では春の季語であり、歳時記にも載っています。しかし、果たして亀は本当に鳴くのでしょうか?

 タイトルもずばり「亀が鳴く国~日本の風土と詩歌」(中西進 著、角川学芸出版 発行)という書物が、いま手元にあります。作者によれば、これこそは俳句の「エアポケット」というものです。
 読者は亀が鳴くことなどありえないと決めかかっているから、作者は百も承知の上で、「亀が鳴きました。だから(あるいは、なのに)こうです」と言って、聞くほうは突然フェイントをかけられたような気がする、という理屈になります。

 「いったい、だれがいつ、亀が鳴くなど言い出したのか。さらに、それに悪乗りして季語とさえ認定したのはいつのだれだ。歳時記によると、亀は春鳴くことになっている。なぜ春か、それらはいっさい不明のままに、現代にいたるまで、俳句はむしろ喜んで、亀の鳴く句を作っているように見える。」
 「すばらしいではないか。この虚を遊ぶ文芸こそが俳句である。」

 「亀鳴くや ひとりとなれば 意地も抜け」 (鈴木真砂女)
 「亀鳴いて 椿山荘に 椿なし」       (菅裸馬)
 「亀鳴くや 小説どれも 同じ型」      (高崎梨郷)

 みんな意地が抜けた瞬間です。
 例えば、大いに期待して読め始めた小説が型通りのつまらないもので、なんだとがっかりさせられた気持ちが、亀を鳴かせたそうです。

 なるほど、と頷きながら読みました。


 いや、いや、亀は鳴くものだ、と言っているのは、英国大使やモロッコ大使を歴任していた平原毅氏です。

 蛙には共鳴袋、哺乳類には声帯、鳥類には鳴管があって、亀には何もないゆえ、亀は鳴かない、と「図説 俳句大歳時記」(角川書店)の解説・今泉吉典氏は根拠を挙げて力説していますが、それでもやはり実際に聞いたという人にはかなわないでしょう。
 平原毅氏の「英国大使の博物誌」によれば、ヘルマン亀、ガラパゴス島の象亀はキーッと叫ぶような声を出し「私は自分の耳で聞いている」そうです。それと、日本の天然記念物である西表島の「せまるはこ亀」が鳴くのも聞いたことがあるそうです。
 しかも、「いずれも愛の季節に、愛の行為の最中に、びっくりするほど大きなキーッという叫び声を出す」、とのことです。

 「私は日本の『いし亀』や『くさ亀』が鳴くのを聞いたことはない。みみずが鳴くのは『おけら』の鳴き声のことだといわれるが、この『亀鳴く』もあるいは『おけら』の鳴き声を間違っているかも知れない。」と、作者は一応続けました。しかし、もしかして古では亀ももっと大声で遠慮なく鳴いていたかもしれません。
 中国の古典で、僕が知るところでは、「唐書」に、「大和三年,魏博管內有虫,状如龜,其鳴晝夜不絕。」なる記述が見えます。

 こうなったら、文明の利器?、YouTubeを探しましょう。そうしたら、象亀でなくても、普通に亀が鳴く映像がありました。



 元大英博物館館長のサー・デイヴィド・ウイルソンが来日して、平原毅氏と酒を交わして歓談した折、確かに聖書にも亀の声が聞こえる、という表現がある、と言い出したそうです。

 酒の席なので期待しなかったが、十日程して航空便で知らせが来て、それは旧約聖書の「ソロモン雅歌」第2章10~12だそうです。
 「Rise up, my love, my fair one, and come away.
  For, lo, the winter is past, the rain is over and gone;
  The flowers appear on the earth; The time of the singing of birds is come, and the voice of turtle is heard in our land.」

 なるほど、確かに「the voice of turtle」とあります。

 いや、しかし、日本語訳ではどうなっているかと言いますと、
 「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、
  立って、出てきなさい。
  見よ、冬は過ぎ、
  雨もやんで、すでに去り、
  もろもろの花は地にあらわれ、
  鳥のさえずる時がきた。
  山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」

 あれ?亀が登場しないです。

 ちなみに僕は中国語訳も探してみましたが、やはり亀は出てきません。
「我的佳偶 、我的美人 、起來、與我同去。
  因為冬天已往、雨水止住過去了
  地上百花開放、百鳥鳴叫的時候已經來到、斑鳩的聲音在我們 境內也聽見了。 」

 なんのことはなく、平原毅氏の調べによれば、単にサー・デイヴィド・ウイルソンの勘違いです。
 もちろん英語で「亀」のことを「turtle」と書きますが、これは通俗ラテン語の「tartuga」に由来するフランス語の「tortue」から英語に入ってきた単語です。別にラテン語の「turtur」から古代英語の「turtla」になり、さらに「turtle」になった鳥もいます。綴りも発音も「亀」と同じですが、正確には「turtledove」と呼び、和名では「こきじばと」というものだそうです。
 大英博物館の館長を務めたほどの知識人でも、イギリスにはまったく棲息していない亀は、あまり知らないようです。

 皆愚なる、とは、巨匠は厳しいです。

【翻訳練習 (日→中)】昔から雨が降ってくる2011-06-28 01:53:15

 いつものようにwhyさんのブログを眺めていたら、中島みゆきの歌詞を中国語に翻訳されているのを見つけました(http://blogs.yahoo.co.jp/bao_bao_cj/60615579.html#60617634)。
 どうやら元は、塵さんが先に訳されていたようで(http://blogs.yahoo.co.jp/sea85419sen/archive/2011/06/19)、いわば競作?です。

 whyさんの訳も、塵さんの訳も、さすがにプロだけに、それは実に素晴らしいものです。あえて顰みに倣い、素人なりに訳してみたいと思いました。
 推敲はあまりできていないですが、素朴な原詩から、素直に思いつく言葉を並べると、このようになりました。

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  「雨總是下不停」  ~中島みゆき

以前 我好像是池辺的一棵樹
只懂得要把手伸向遙遠的天際 是一棵無奈的樹
雨珠不停地飄落
於是我想起來了 我到底是誰
雨總是下不停 令人千思萬想的雨

以前 我好像是海辺的一尾魚
只想著如何学会説出心裏的話 是一尾寂寞的魚
雨珠不停地飄落
於是我想起來了 我到底是誰
雨總是下不停 令人千思萬想的雨

以前 這裡有大恐龍 還有小恐龍
是不是也如此仰頭看著雨 是不是也如此垂頭被雨打
雨珠不停地飄落
雨總是下不停

以前 我好像是崖辺的一隻虫
只知道朝著遙遠森林的那頭走 是一隻虔誠的虫
雨珠不停地飄落
於是我想起來了 我到底是誰
雨總是下不停 令人千思萬想的雨
雨珠不停地飄落
令人千思萬想的雨
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媽祖祭(2)2011-06-14 01:28:30

 日本の領土として統治を受けていた時代、台湾における日本語文学を語るうえ、避けて通れないのが西川満です。
 西川満の功過は語るに難しく、台湾文壇を牛耳るやり方には批判の声も多かったようです。しかし、二十代に書かれたこの「媽祖祭」の詩は台湾語(閩南語)のフレーズを多用し、絢爛たるエキゾチシズムを醸し出し、僕は好きです。








大筍五本2011-05-07 11:31:00

 いつの間にか立夏となりましたが、冬の小雨と春の低温が原因で、今年はタケノコがちょっと遅め、今になってたくさん出ていると人から聞きました。
 「雨後春筍」と熟語にありますが、そもそもタケノコは歳時記のうえでは夏の食べ物、俳句だと夏の季語になります。


 「筍が竹とならんず梅雨晴れの山いつぱいにひそめる力」

 これは大正期の歌人・岩谷莫哀の歌で、国会図書館近代デジタルライブラリーで見付けました(<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018239>)。シンプルですが、山いっぱいに力を貯めている出ようとするタケノコが見えてきそうで、僕にはおもしろいです。
 これも梅雨晴れのときに詠んだものですね。

 京都の早掘りなど、春先どころか寒中からタケノコは食べられます。
 「その味は出盛りの季節の美味ではないが、これはこれで一種捨てがたい風味があって、十分珍重に価する。」と、食通で知られる北大路魯山人は言っていました。


 中国浙西省の溪口鎮は竹林とタケノコの生産で知られています。規模では較べようもないかと思いますが、台湾嘉義縣の溪口郷にも竹林があって、やはりタケノコが名産のひとつになっています。
 幼いとき、親に連れられて一泊の旅に行ったことがありますが、早朝の霧のなかの竹林の幽玄なこと、昼に食べた筍つくし料理の美味なこと、どっちも忘れられません。
 そのとき食べたのは、ほとんどは真竹だったと思います。

 日本でいま食されるタケノコは、例の二十四孝の孟宗に因む孟宗竹がほとんどですが、そこまで肉厚でない真竹の筍も、野趣があって美味しいと思います。
 そもそも孟宗竹は、文久元年琉球を経由して中国より伝来したそうで、その前の時代だと、例えば其角が読んだ「老僧の筍をかむなみだ哉」なども、孟宗竹ではなく、たぶん真竹だと思われます。
 真竹は孟宗竹より季節が遅く、昔の歳時記で夏に分類するのも合点がいきます。


 江戸初期はというと、こちらも孟宗竹ではなかったと思いますが、木下長嘯子が石川丈山に筍を送り、しゃれた和歌を付けた話は、なかなかおもしろいと思います。

 「谷のかけ 軒のなてしこ 今さきつ
  常より君を くやと待ける」

 「たけのこいつゝをくるといふを句の上下をきて 石川丈山翁のもとへつかはしける」ともあるので、これは五七五七七のそれぞれの句の上下一字ずつ取って、「た・け・の・こ・い・つ・つ・を・く・る」と読ませる遊びです。

 漢詩の名人で知られる石川丈山は、即座に詩を賦して返したそうです。

 「二人相連欠其一
  旬日竹友消日彩
  欲語無口亦無言
  全躰忘身何有待」

 こちらは全体が字謎、各句にひと文字ずつを当てているようです。
 例えば起句の「二人相連欠其一」は、「二」と「人」をつなげた「夫」から「一」が欠けるので、「大」という字になる、といった具合です。