カキシハ オレダ2012-03-29 23:43:10

 大正天皇が没したのは大正15年12月25日だったので、昭和元年はたったの一週間しかなかったのです。

 園氷蔵史が編纂した「昭和初年」という本に、その7日間のドキュメントが記されているそうです。
 元々枢密院臨時会議で新元号を「光文」と決定しながらも、東京日日新聞にスクープされたため、「昭和」に急遽変更したことや、天皇が変わって、それまで続いていた大奥お局制度が廃止されたことや、陸軍少佐池田政佑男爵が殉死したこと、などなど、知らないことだらけです。

 いや、「昭和初年」なる書物を、僕が手に取って読んだわけではありません。垣芝折多という人がその著作で取り上げられたのを目にしただけです。


 昭和38年の「<孫の手>史」も取り上げられています。
 木や竹で作られるあの<孫の手>を、著者の加湯いねは皮膚病専門の病院で看護婦として務めながら、研究したそうです。

 瞠目すべきは、幕末から明治にかけて幾度か流行した「孫の手品評会」でしょうか。形の良い品を、好事家たちが集めて、玩賞したそうです。
 使い方は、本式の作法も決められています。搔き方は「廻し搔き」、「桂馬搔き」といった基本から、「春の嵐」や「千鳥の渡り」などの難しい技まで、通り一遍ではなかったようです。


 ほかには、馬尾一の「私は馬が好きであります」(明治39年)とか。
 子供の頃のクロやアヲといった農馬、日清戦争時の鬼露毛、日露戦争の時の飛竜号など、著者が生活をともにした馬たちのことを綿々と綴っています。
 刊行したのは「馬鹿無茶会」です。
 「バカムチャかい」と読んではいけなくて、正しくは「うましかないさかい」だそうです。


 どうでしょうか。役に立たないが、楽しい話ばかりです。
 しかし、第一書の「掃除のすゝめ」から、第百書の「本を読まずに済ます法」まで、作者が取り上げられた百冊は、ひとつとして聞いたこともありません。

 それもそうです。
 この垣芝折多という作者は著者紹介欄では「経歴不明」という四文字のみなら、取り上げたおまけの第百一書がすなわち本書で、タイトルもずばり「偽書百撰」なのであります。

鳴らぬなら 鳴るまで待とう 鉄アレイ2012-02-09 23:04:04

 あの7キロの鉄アレイが、相変わらず我が家にあります。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178183
 故人の遺品は決して声を発せず、無言のままで、いつまでも鎮座しています。


 アレイは「亜鈴」とも書きますが、どうしてこの当て字を使ったか、多少気になっていました。
 英語では、ない、ですね。

 「明治がらくた博覧会」(林丈二、晶文社)を読んで、同じことを考えた人がいたのに気づき、笑ってしまいました。


 「一昨日の雷鳴は東京ばかりではなく、横浜はもっとも烈しき由にて、同港は午後五時頃より盆を傾ける大雨降り出し、其中より電光閃きわたるかと思えば久しく中絶せし雷公は、支度万端整いしと見え、舶来物を見倒して買った虎の皮の犢鼻褌(ふんどし)をシッカとしめ、学校用のダンベルは己が元祖だと云わぬばかりに両手を上下し、乱拍子にゴロッゴロごろごろと鳴り渡り、余りはしゃぎ過ぎたのか雲脚を踏み外してごろごろストンと落雷た......」
 まずこれは明治21年、朝刊紙に切り替えて間がない頃の「都新聞」に載っている記事だそうです。

 饒舌な記者の文章に目を奪われましたが、「学校用のダンベルは己が元祖だ」のくだりが、特に興味深い発見がありました。
 なるほど、本の挿絵に、明治19年の「東京絵入新聞」の「小学校生徒着」の広告と、明治21年の「あまと新聞」の「小児学校器」の広告が載っていますが、いずれも絵の子供は手にアレイを持っています。
 当時の学校教育で、アレイが使われていたようです。

 明治30年発行「美満津商店定価表」にも、ちゃんと「鐵製啞鈴 (IRON DUMB BELLS)」、「木製啞鈴 (WOOD DUMB BELLS)」が、絵入りで掲載されています。

 やはり昔から英語ではダンベル(dumb bell)でした。

 いまでも中国語では「啞鈴」と書きますが、日本語も昔はそうでしたね。
 発話障害者に配慮して現代ではあまり使いませんが、もろん「唖(おうし)」とは口がきけないことです。

 「dumb」は「物の言えない、口のきけない」という意味なので、「啞鈴」はその意訳、音の出ない鈴です。
 カタカナばかり目にすると、つい外来語のように錯覚してしまいました。

 無言のままであるのは当然ですが、それでも「鈴」であるゆえ、いつか「雷公」が手に取って、ゴロッゴロごろごろと鳴らしてしまうことも、あるかも知れません。

鳴かぬなら 鳴かせてみせよう 鳩や亀2012-01-30 22:58:12

 「亀鳴くや 皆愚なる 村のもの」と詠んだのは、高浜虚子です。

 「亀鳴く」は、俳句では春の季語であり、歳時記にも載っています。しかし、果たして亀は本当に鳴くのでしょうか?

 タイトルもずばり「亀が鳴く国~日本の風土と詩歌」(中西進 著、角川学芸出版 発行)という書物が、いま手元にあります。作者によれば、これこそは俳句の「エアポケット」というものです。
 読者は亀が鳴くことなどありえないと決めかかっているから、作者は百も承知の上で、「亀が鳴きました。だから(あるいは、なのに)こうです」と言って、聞くほうは突然フェイントをかけられたような気がする、という理屈になります。

 「いったい、だれがいつ、亀が鳴くなど言い出したのか。さらに、それに悪乗りして季語とさえ認定したのはいつのだれだ。歳時記によると、亀は春鳴くことになっている。なぜ春か、それらはいっさい不明のままに、現代にいたるまで、俳句はむしろ喜んで、亀の鳴く句を作っているように見える。」
 「すばらしいではないか。この虚を遊ぶ文芸こそが俳句である。」

 「亀鳴くや ひとりとなれば 意地も抜け」 (鈴木真砂女)
 「亀鳴いて 椿山荘に 椿なし」       (菅裸馬)
 「亀鳴くや 小説どれも 同じ型」      (高崎梨郷)

 みんな意地が抜けた瞬間です。
 例えば、大いに期待して読め始めた小説が型通りのつまらないもので、なんだとがっかりさせられた気持ちが、亀を鳴かせたそうです。

 なるほど、と頷きながら読みました。


 いや、いや、亀は鳴くものだ、と言っているのは、英国大使やモロッコ大使を歴任していた平原毅氏です。

 蛙には共鳴袋、哺乳類には声帯、鳥類には鳴管があって、亀には何もないゆえ、亀は鳴かない、と「図説 俳句大歳時記」(角川書店)の解説・今泉吉典氏は根拠を挙げて力説していますが、それでもやはり実際に聞いたという人にはかなわないでしょう。
 平原毅氏の「英国大使の博物誌」によれば、ヘルマン亀、ガラパゴス島の象亀はキーッと叫ぶような声を出し「私は自分の耳で聞いている」そうです。それと、日本の天然記念物である西表島の「せまるはこ亀」が鳴くのも聞いたことがあるそうです。
 しかも、「いずれも愛の季節に、愛の行為の最中に、びっくりするほど大きなキーッという叫び声を出す」、とのことです。

 「私は日本の『いし亀』や『くさ亀』が鳴くのを聞いたことはない。みみずが鳴くのは『おけら』の鳴き声のことだといわれるが、この『亀鳴く』もあるいは『おけら』の鳴き声を間違っているかも知れない。」と、作者は一応続けました。しかし、もしかして古では亀ももっと大声で遠慮なく鳴いていたかもしれません。
 中国の古典で、僕が知るところでは、「唐書」に、「大和三年,魏博管內有虫,状如龜,其鳴晝夜不絕。」なる記述が見えます。

 こうなったら、文明の利器?、YouTubeを探しましょう。そうしたら、象亀でなくても、普通に亀が鳴く映像がありました。



 元大英博物館館長のサー・デイヴィド・ウイルソンが来日して、平原毅氏と酒を交わして歓談した折、確かに聖書にも亀の声が聞こえる、という表現がある、と言い出したそうです。

 酒の席なので期待しなかったが、十日程して航空便で知らせが来て、それは旧約聖書の「ソロモン雅歌」第2章10~12だそうです。
 「Rise up, my love, my fair one, and come away.
  For, lo, the winter is past, the rain is over and gone;
  The flowers appear on the earth; The time of the singing of birds is come, and the voice of turtle is heard in our land.」

 なるほど、確かに「the voice of turtle」とあります。

 いや、しかし、日本語訳ではどうなっているかと言いますと、
 「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、
  立って、出てきなさい。
  見よ、冬は過ぎ、
  雨もやんで、すでに去り、
  もろもろの花は地にあらわれ、
  鳥のさえずる時がきた。
  山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」

 あれ?亀が登場しないです。

 ちなみに僕は中国語訳も探してみましたが、やはり亀は出てきません。
「我的佳偶 、我的美人 、起來、與我同去。
  因為冬天已往、雨水止住過去了
  地上百花開放、百鳥鳴叫的時候已經來到、斑鳩的聲音在我們 境內也聽見了。 」

 なんのことはなく、平原毅氏の調べによれば、単にサー・デイヴィド・ウイルソンの勘違いです。
 もちろん英語で「亀」のことを「turtle」と書きますが、これは通俗ラテン語の「tartuga」に由来するフランス語の「tortue」から英語に入ってきた単語です。別にラテン語の「turtur」から古代英語の「turtla」になり、さらに「turtle」になった鳥もいます。綴りも発音も「亀」と同じですが、正確には「turtledove」と呼び、和名では「こきじばと」というものだそうです。
 大英博物館の館長を務めたほどの知識人でも、イギリスにはまったく棲息していない亀は、あまり知らないようです。

 皆愚かなる、とは、巨匠は厳しいです。

幻の本2012-01-20 00:38:47

 曾つて誤つて法を破り
   政治の罪人として捕はれたり、
 余と生死を誓ひし壮士等の
   数多あるうちに余は其首領なり、
      中に、余が最愛の
      まだ蕾の花なる少女も、
      国の為とて諸共に
      この花婿も花嫁も。
     :
     :


 と始まるのが、北村門太郎の「楚囚之詩」です。

 いや、北村門太郎と言ってもあまりピンと来ないかも知れませんが、明治の文豪のひとり、北村透谷の本名です。
 思潮社から出版されている「現代詩文庫1001 北村透谷詩集」を図書館から借りていますが、冒頭に全編収録されているのが処女作の「楚囚之詩」です。
 実は、この原書は近代文学書の稀覯本の親玉と言われるぐらい、噂だけが有名で、実物を見たことのある人はごく稀という珍本です。


 古書店のあるじでもあった作家・出久根達郎が「古本綺譚」で書いた話によれば、22歳の透谷がこのB6判横綴わずかな叙事詩を自費出版したのは、明治22年の4月だそうです。
 自序では、「余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是れを書肆の手に渡して知己及び文学に志ある江湖の諸兄に頒たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇しました。」で始まり、「余は此『楚囚之詩』が江湖に容れられる事を要しませぬ」と続いたりと、はなはだ頼りない言葉を綴りました。
 はたしてこの小冊子が印刷されるや、やはり自信がなく、後悔したのか、まもなく著者により回収され、手元に残す一冊を除いてすべて廃棄した、と透谷が日記に書きました。
 透谷は満25歳のときに自殺しましたが、透谷の名声が上ってからは、もし見つかったら幻の本だろうと言われていました。

 42年後の昭和5年、本郷の古本即売展で、ある大学生が雑本の山からその「幻の本」を見つけ出し、稀覯本につきものの数奇な伝説はここから始まりました。
 その学生は35銭で購入しましたが、すると隣から突如、その学生をつかまえて、ぜひ5円でゆずれと血相を変えて談判する紳士が現れました。何事かとほかの客がとり囲い、くだんの学生は本を抱きしめて逃げるように会場から消えてしまい、話題騒然となったそうです。
 その本が透谷日記にいう、残った唯一の一冊だと思われましたが、実はそうではないかも知れません。十数年経って、二冊目が出て、そのときは80円で売れたそうです。
 最近では平成14年の京都組合大市に出品されたそうですが、当初店頭に並んでいたわずかの時間で何冊か売れたものがあって、現在完全本は4、5部存在していると言われています。

 また、昭和37年に神戸の古書市場に出品された「万象図譜」という、四六判40頁袋綴の袋から、バラバラになった「楚囚之詩」の本文が出てきて、やはり大騒ぎになりました。「万象図譜」は明治24年に出版されたもので、特に稀覯本ではないですが、同じ製本所で破棄処分になった「楚囚之詩」のページをシン紙に用いたと推定されたので、愛書家やコレクターたちはたちまち「万象図譜」探しに血眼となりました。ところがせっかく入手して開いてみると、シン紙には古新聞やほかの本の断裁が詰め込まれ、残骸でもなかなか現れてこないから、「楚囚之詩」は幻の本なのであります。


 北村透谷はここ小田原の生まれです。

 父母とともに上京したのは十三、四歳の頃だと思います。また、短い人生としての最晩年も、小田原市国府津の長泉寺で過ごしました。
 「小田原と北村透谷」(小澤勝美 著)という本が僕の手元にありますが、透谷の文章の美しさと力強さは、壮大な箱根の山々を背景に美しい相模の海に面した自然環境にも関係するだろう、と記されています。

 彼が生まれ育った小田原唐人町の海岸や、祖母とお参りした早川の観音、「景色よろし」と日記に書いた江の浦、いずれも僕ににとっても身近の景色で、珍しくもなく、むろん幻でもないです。

木馬は運べない箱根八里2012-01-11 23:41:29

 箱根八里の道が歩きにくいのは、昔から定評があるものです。

 安政2年(1855年)、幕末きっての名官吏・川路聖謨が下田からの帰り道で箱根を越えるとき、石畳で転んでしまいました。
 実は、彼は前の年も箱根の坂で二度転んだらしく、氏は「下田日記」に「箱根みち、殊のほかわるし。例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候。」と書き、箱根の雲助が地獄に落ちても、エンマ様は剣の山のお仕置きはしないだろう、とまで言い捨てました。

 安政の大地震からわずか五ヵ月後のことで、その影響もあったかも知れません。
 但し、そもそも箱根の石畳は平らに作ろうとしていなかったせいかも知れません。


 「はこね昔がたり」(かなしんブック)によれば、寛政5年(1793年)、相模、伊豆の沿岸を踏査した老中筆頭松平定信が帰路に箱根を越えた際、たまたま道普請が行われ、石畳の道を平らに修理していました。それを見た定信は江戸城に帰るや、直ちに道中奉行を呼んだそうです。
 「箱根山の儀は、御要害の場所につき、石高く難所これ有るべく候処、道造りの儀、入念候ては御趣旨に当たらず......」

 つまり、箱根は江戸を守る大事な関所、石が凹凸して歩きにくいであるべきなのに、道造りを入念に行っては、要害の地である趣旨に反する、ということを言っていました。
 当然のこと、小田原藩と江川代官所にはその旨の通達がすぐに出されました......


 それが幕末になり、公武合体を進めるために徳川十四代将軍家茂が上洛することになり、その前年の文久2年(1862年)の10月から、箱根の石畳の全面改修が行われました。
 石畳の道の改修を裏書きする資料が残っていますが、さすがに天下の大将軍を転ばせるにはいかないので、今度は念を入れて丈夫に作ったようです。平らな石を選んで並べただけでなく、昭和55年の調査結果によると、赤土を板築状に固めて土台を造り、敷石の裏には城の石垣を思わせる裏込の小石が詰められたそうです。

 もちろん、歩きやすくなった箱根の道は、もうはや江戸を守る要害の地ではなくなり、わずか6年後の慶応4年(1868年)、有栖川宮を大総督とする東征軍は、楽々とこの石畳の道を通って江戸に向けて進軍したことでしょう。


 本を閉じて思い出したのは、中国の古典「韓非子」にある話です。
 春秋時代の晋の六卿のひとりである知伯は、仇由という国を攻めようとしたが、難路に阻まれ、兵隊を遣ることができません。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、仇由の君主に贈ろうと申し出ました。仇由の君主は忠臣の諌めを聞かず、道路を整備して鐘を国内に入れましたが、僅かに七ヶ月後に、仇由は知伯によって亡ぼされました。

 この説話をもうちょっと変形すれば、例のトロイの木馬の話になる、と指摘したのは、人類学者にして博物学者の金関丈夫です。

象も歩いた箱根八里2012-01-10 23:32:36

 いまの箱根駅伝でも、5区の山登りと6区の山下りは足に負担がかかり、相当なスタミナが要求される難関ですが、江戸時代の人々は整備が不完全な道を歩かなければならないので、なおさら大変だったと思われます。
 人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。

 その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
 享保14年(1729年)5月のことです。


 「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
 本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。

 象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。


 そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。

 象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
 象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
 それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。

 ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
 「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。

 なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
 ・十六日、まんじゅう急用、百文。
 ・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
 ・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
 ・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
 ・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
 ・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
   :
   :
 ・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
 ・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
 ・象相煩い候につき、護摩代、一分。
 ・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。


 好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。


 この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。

日本最初の特許2011-12-12 23:48:23

 職業柄、特許文書を読んだりすることがありますが、馴染みのない英文に白旗をあげざるをえないは仕方ないとして、日本語の文章も同様です。どうしてこうもわかりにくく書けるかを、いつも不思議に思ってしまいます。
 果たして、特許文書というものは、最初からそういうものだったのでしょうか?

 「ぐうたらテクノロジー」(近藤雅樹、河出書房) という本があって、明治時代に特許登録された、どこかユーモラスな様々な発明が紹介されています。
 日本では、明治維新後の1871年に最初の特許法である専売略規則が公布されましたが、この制度は利用されず、翌年には施行が中止されました。その後、ウィキペディアによれば「1885年4月18日に本格的な特許法である専売特許条例が公布・施行された」とありますが、どうやら4月には公布されただけで、施行は7月1日から、だそうです。
 初日に早く5件の発明が申請され、輝く第1号は「錆び止め塗料」だそうです。

 初年度の1885年は、さまざまな発明が集中的に出願されましたが、前出の本の作者が「日本的発明の白眉」として取り上げたのは、「改良蝙蝠傘」です。
 折り畳み傘の第一号です。

 折りたたみ傘が世に普及し始めたのは1950年代半ばになってからですが、特許はそのだいぶ前に出されたようです。

「サハラ物語」の日本語訳2011-11-05 22:40:05

 いつも通っている図書館に「サハラ物語」(三毛 著、妹尾加代 訳、筑摩書房、1991年3月初版)が置いてあるのを、いまさら気づきました。原作は三十年前に台湾で読みましたが、懐かしくなって、この日本語訳版も借りてみました。

 本作品は、三毛とそのスペイン人の夫ホセが北アフリカの砂漠で過ごしていた頃の生活記録ですが、中国語圏で長く人気を博したのは、その体験の珍しさだけではなく、作者の軽妙洒脱な文筆にもよるところも大きいと思います。
 しかし日本語訳版からは、残念ながら、あまりその面影は伺えません。

 普通の日本語の文章としても、冗長だと思える表現や意味が不明確な箇所が散見されます。
 比較のために、ネットで見つけた中国版(http://www.millionbook.net/gt/s/sanmao/shldgs/index.html)を引用していますが、正規版ではなさそうで、タイプミスなどもあるかも知れません。


-(日本語訳)-
翌日また見に行くと、それはくるみ程の大きさに腫れあがり、彼女は痛がって破れたむしろの上にころがってうなっていた。「だめだわ、病院に行かなくちゃ」私は母親に言った。


 「破れたむしろ」をわざわざ強調するところが気になりました。

-(原文)-
第二天再去看她,她腿上的癤子已經腫得如桃核一般大了,這個女孩子痛得躺在地上的破席上呻吟,“不行,得看醫生啦!”我對她母親說。“


 なるほど、「破席」とはありますが、これは慣用語のようなもので、省略してもよさそうです。

-(日本語訳)-
半年あまりたつと、私はハンティの家族はもう大変仲良くなっていて、ほとんど毎日いっしょにお茶を沸かして飲んでいた。ある日、お茶を飲んでいる時のこと、ハンティと彼の妻のグーバイだけが部屋の中にいたが、ハンティが思いがけないことを言った。
「うちの娘はもうすぐ結婚する。あんた都合の良い時にあれに言ってやってほしいんだ」


-(原文)-
半年多過去了,我跟罕地全家已成了很好的朋友,几乎每天都在一起煮茶喝。有一天喝茶時,只有罕地和他的太太葛柏在房內。罕地突然說:“我女儿快要結婚了,請你有便時告訴她。”


 この「お茶を沸かして飲んでいた。」も、好みの問題かも知れませんが、沸かさず飲むお茶がないし、冗長だと感じました。
 まあ、ここまでは目くじらを立てるほどの内容ではありません。

-(日本語訳)-
「それは承知したよ。だがとにかく裁判所へ行って、どういうふうに手続きのしかたを聞かなきゃ。きみの国籍の問題もあるし」二人で結婚後の私の二つの国籍について、よく話しあった。


 日本語自体、さほど違和感はありませんが。

-(原文)-
“這個我答應你,但總得去法院問問手續,你又加上要入籍的問題。”我們講好婚后我兩個國籍。


 「講好」を「よく話しあった」と訳すのは、正確だと思えません。
 ここでは、二重国籍を残すことにふたりで決めた、という程度の意味ではないでしょうか。

-(日本語訳)-
この時は迷宮山に迷わなかった。三十分行ったが、そこではなかったので引き返した。


 「迷宮山」と三毛たちが呼んでいるのは、砂漠に聳え立ついくつかの大きな砂丘です。しかし「そこではなかったので」のところ、意味が不明です。

-(原文)-
迷宮山這次沒有迷住我們,開了半小時不到就跑出來了。


 なるほど、「不到」を誤訳されたかも知れません。

(試訳)
 「このときは迷宮山で道を迷うことなく、三十分足らずで出てこれました。」

-(日本語訳)-
それはもう四隅がすりきれてしまった写真で、西洋の服装を身につけたアラビヤの女が写っていた。均整のとれたスタイルに大きな目をしていたが、決して若くはない顔にゴテゴテと厚化粧が塗られていた。


-(原文)-
這是一張已經四周都磨破角的照片,里面是一個阿拉伯女子穿著歐洲服裝。五官很端正,眼睛很大,但是并不年輕的臉上涂了很多化妝品,一片花紅柳綠。


 「五官很端正」をわざわざ「均整のとれたスタイル」に置き換えなければならない理由がわかりません。実際、その後に「胖腿下面踏了一雙很高的黃色高跟鞋」と続いているだけに、スタイルは均整が取れているか、かなり微妙です。

-(日本語訳)-
私は「待ってね」と言うと、家にとんで帰り、最高単位の総合ビタミン剤を十五粒持ってくると、ハティエットに渡した。「ハティ、あなた羊を殺すことができる」と聞くと、うんうんとうなずく。「まず彼女にこのビタミン剤を飲ませてやるの、一日二、三回ね。それからマトンのスープを作って飲ませてやってちょうだい」
このようにして十日もたたないうちに、そのハティエットの形容によると死にかかっていたいとこは、自分で歩いて私のところにやって来て、しばらく座って帰っていくほど元気になった。


 ここまでくると、突っ込みどころが満載で、ほとんど小学生の作文になってしまいました。「あなた羊を殺すことができる」など、まさか能力を確認しているわけではないでしょうね。

-(原文)-
“等一下。”我說著跑回家去,倒了十五粒最高單位的多种維他命給她。“哈蒂,殺只羊你舍得么?”她赶緊點點頭。“先給你表妹吃這維他命,一天兩三次,另外你煮羊湯給她喝。”這樣沒過十天,那個被哈蒂形容成正在死去的表妹,居然自己走來我處,坐了半天才回去,精神也好了。


-(日本語訳)-
ホセが車を買うと、私はたちまちその「夢の白馬」が大好きになった。それでしょっちゅうこの白馬を連れて町へ出て用事を片付けたり、時には職場までの私の「夢の王子さま」を迎えに行くこともあった。


-(原文)-
等到荷西買了車子,我就愛上了這匹“假想白馬”,常常帶了它出去在小鎮上辦事。有時候也用白馬去接我的“假想王子”下班。


 アフリカで運転免許を取得する話の枕ですが、「夢の王子さま」、「夢の白馬」と訳してしまうと、ニュアンスが大きく変わってしまいます。  若干難しいかも知れませんが、「假想」はあくまでも仮想であって、仮にそうだと置き換えているだけで、白馬に乗る王子さまと現実の車に乗る夫とは、やはり隔たりはあるかと思います。