7月13日2016-07-13 06:56:19





スタンダードナンバーに酔いしれる夜2016-02-06 21:01:49

 YouTubeでジャズを聴いています。

 名人Wynton Marsalisに、ちょっと珍しい楽器編の成が入っている「My Favorite Things」です。


 「Maiden Voyage」をソロ・ピアノで聞くのもわるくないです。


 そして、この小林香織の「Nothing gonna change my love for you」は、何度聞いても素晴らしいです。


断ち切られた歌2015-05-08 23:46:16

 カール・アマデウス・ハルトマンは、第二次世界大戦後に名誉回復を受けると、すぐさまに現代音楽のシリーズ演奏会「ムジカ・ヴィーヴァ」の構想をまとめ、バイエルン放送と共同でミュンヘンで開始しました(http://de.wikipedia.org/wiki/Musica_Viva_(M%C3%BCnchen))。
 このイベントは、楽壇の大物たちを呼ぶことに成功しただけでなく、若い世代の作曲家たちにもチャンスを与えました。

 例えばルイジ・ノーノも、まずこの「ムジカ・ヴィーヴァ」で知られるようになった人だといわれています。


 ハルトマンの交響曲一番を聞いた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2015/04/28/7622371)後、いろいろ関連作品を辿って、ノーノの「Il canto sospeso(断ち切られた歌)」に到達しました。
 この作品は、戦時下の欧州で捕らえられ、死刑を宣告された、抵抗運動の闘士たちの遺書にインスパイアされたものです。

 クラウディオ・アバド期のベルリン・フィルの演奏がYouTubeに残っています。
 オーケストラのための第一楽章は、ヴァイオリンやトランペットの超高音と、コントラバスやトロンボーンの超低音が共存し、極限状態を表現しているそうです。


 続く合唱やソプラノはよくわかりませんが、第五楽章のテノールのアリアでは、ポーランドの14歳で亡くなった少年カイムが残した文章によるものです。
 「この空が紙で、世界中の海がインクでない限り、この苦しみや、僕のまわりで起こっていることを、すべて書き尽くすことができません。」


 複雑な第六楽章を経て、第七楽章は再びソプラノと女声合唱が、ソ連の少女リューバ・シュヴェツォワの残した言葉を歌い上げます。
 「さよなら、お母さん、あなたの娘は、濡れた大地の中へ消えてゆきます。」


 セリエル技法などは私には難しくて、まったく理解していませんが、このカンタータに引き付けられている現実から、現代音楽を難解だと思って一概に敬遠する必要もない、かも知れません。

 1990年5月8日、ヨーロッパで第二次世界大戦が終わった日からちょうど45年後のその日に、ルイジ・ノーノが死去しました。
 2015年5月8日、ノーノの死から今日で、さらにちょうど25年が経ちました。

残酷な春を、ただ座り、眺め、聞く2015-04-28 22:49:12

 世界の屋根だと謳われた国で、ひどい天災が発生しました。
 また、別の国では戦争やテロが人の尊い命を奪っています。
 死に直面しざるを得ない多くの人たち、そしてその親族や友人のことを想像し出せば、言葉はほとんどを用をなさないような気がしてきました。

 カール・アマデウス・ハルトマンの交響曲一番を聞いてみます。



 この交響曲は、ウォルト・ホイットマンの詩にインスパイアされ、1936年頃から構想し、長年かけて作り上げたものです。
 導入部は「Elend(苦しみ)」というタイトルが付けられ、怒り狂う金管とティンバニの爆発に挟まれて、アルトの独唱が語りかけます。

 私はただ座り、眺めている、この世のあらゆる災いを
 すべての苦しみと恥辱を
 私は戦争、疫病、暴政が続くのを眺め
 犠牲者や囚人をただ眺めている
 ......

 第二楽章は「春(Frühling)」というタイトルです。独唱と木管がかわるがわる歌い、毎年繰り返し咲くライラックの花を称えます。
 と、同時に、この残酷極まる4月の花からいやおうなく湧き上がる死への思いも、そこに歌われます。

 咲き残りのライラックが戸口の庭に匂い
 夜空の西に大きな星が沈み果てた時
 私は嘆き悲しんだ~そして返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだろう。


 カール・アマデウス・ハルトマンは、インゴ・メッツマッハーの言葉(「新しい音を恐れるな」(春秋社)」を借りれば、第三帝国時代の重要なドイツ人作曲家の中で、体制に迎合しない勇気があった唯一の人物です。
 この交響曲は、孤独と絶望に満ちた時代のもっとも鮮烈な証言、だとも書いています。

童謡?2014-11-03 14:02:52

 懐かしいです。
 小さいとき、一番最初に覚えた歌(?) がこれかもれ知れません。


 台湾語で「點仔膠」と言うと、アスファルトのことです。
 道路の破損を防ぐために舗装に使われるのは、いまと同じですが、昔はその品質があまりよくなかったのか、それとも乾ききっていないのを踏んでしまったのか、子供の足に付いてしまったのを歌っています。
 まあ、韻を踏んでいるだけで、歌詞はどうでも良いかも知れません。

原始、女は太陽だった ~ 平塚らいてう、伊藤野枝2014-09-03 01:09:44



 「原始、女は太陽だった」(↑)は、1995年6月に発売されたCDシングルであり、先日発売されたの明菜さんの「オールタイム・ベスト ORIGINAL」にも収録されています。

 「原始に生まれた女のように / ただありのままに / 愛をもとめてゆきたい」という歌詞があり、ポジティブに生きる女性を謳う歌だとされています。

 *  *  *  *  *

 1911年9月、雑誌「青鞜」を創刊し、巻頭で「元始、女性は太陽であった」を高らかに宣言したのが、女性解放運動家で、戦後の和平運動にも尽力した、平塚らいてうです。

 らいてうの父親は会計検査院に勤務し、ドイツ語の通訳・翻訳をし、伊藤博文を助けて憲法草案にも携わった官吏です。母親は御典医の娘で、文明開化の先端を行くような人のようで、自己再教育のために桜井女塾に通って英語の勉強をしたそうです。
 らいてうが通った当時の東京女子高等師範学校附属高等女学校(御茶の水女子学校)は、大名豪族や豪商三井の娘もいて、良妻賢母教育主義で知られています。らいてうはそうした校風に反発し、「海賊組」という仲間を作り、14歳のとき、修身の授業をボイコットしたこともあります。

 21歳のらいてうは、海禪寺住職代理の和尚と接吻事件を起こしました。
 らいてうはこの青年僧に「不意に、なんのためらいもなく」キスし、結果、和尚は煩悩のあまり修業もままならぬ状態となったそうです。らいてうは、この件は小説「若きウェルテルの悩み」などからの影響があったためで、恋ではないと弁明しています。

 そして翌年、らいてうは成美女子英語学校の教師だった森田草平と心中未遂事件を起こしてしまいました。
 森田は夏目漱石門下の秀才で、二人は塩原の尾頭峠に情死行を企み、追っ手に捕らえられて未遂に終わっています。この事件は実に奇々怪々で、新聞報道されて、世間を仰天させました。森田はその顛末を小説「煤煙」として朝日新聞に発表し、結局、一躍人気作家になってしまいました。

 スキャンダルはこれに留まらず、「青鞜」の編集部に入ってきた男装の大女、尾竹紅吉にも惚れられました。らいてうが、「青鞜」の表紙絵を描いた奥村博史と仲むつまじくなったのを知り、紅吉は手首を切り、自殺未遂するに至りました。
 「文人暴食」(嵐山光三郎、マガジンハウス) という本をいま読んでいますが、「青年僧に対しても、森田に対しても、らいてうは『お嬢様のいたずら心』がいっぱいの自己執着があり、結果として男心を もてあそんだ。」と、作者が評しています。


 らいてうは29歳のとき、心身の疲れから、「青鞜」の発行権を、社員で当時まだ21歳の伊藤野枝に譲りました。

 もとも、野枝の編集になると「青鞜」は堕胎論文で発禁処理を受け、一年で廃刊となりました。
 手元の「本郷菊富士ホテル」(近藤富枝、中公文庫) によると、大杉栄が恋人の伊藤野枝とともに菊富士ホテルに移って来たのは大正5年(1916年)10月5日でした。
 大杉は外国語学校仏語科に入学したころから、幸徳秋水の平民社に近づき、以降入獄を繰り返していた運動家です。
 伊藤野枝は辻潤の妻、辻まこと (http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/07/1563252) の母親ですが、そのとき、家も二人の子供も一切捨てて大杉の元に飛び込んできました。

 辻潤が特高に付きまとわされたことをちょっと書きました (http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/05/22/6452932) が、大杉栄のほうも菊富士ホテルへ移ってくると、早速本富士署から刑事がやってきて、「大杉たちの隣の部屋を貸して欲しい」と申し込んだぐらいです。
 と言っても、当時の大杉栄は主催する「平民新聞」が毎号発禁の連続で、一文なしだったから、ホテルの宿代は一度も支払わないままで数ヶ月滞在したらしく、出先の食堂では尾行の刑事に支払いまでさせました。
 そんな大杉栄の負担にならないように考え、伊藤野枝は次男の流二を里子に出したりしました。
 辻まことが、「多摩川探検隊」(小学館ライブラリー)で、「夏休みは毎年、外房州夷隅郡大原町字根方という漁村にある弟の家にいく。(中略) いつも夏休みにしか会わない弟などは変なものだ。」と書いていますが、以上の事情によるものです。

 実は、野枝が辻潤と同棲するようになった際も、彼女は学費を出して上野高女を卒業させてくれた許婚を嫌って故郷を出奔したそうです。「火の玉のような情熱家であった」だと近藤富枝が評しています。
 太陽ですから、火の玉の親玉みたいなものなのでしょう。

 但し、「文人暴食」によれば、伊藤野枝が大杉の元に走ったのは「辻さんが彼女の従姉の千代子さんに愛を移したから」だと、平塚らいてうが記しているそうです。
 また、大杉栄のほうも「フリーラブ」を唱え、堀保子、神近市子、伊藤野枝の三人の女性とそれぞれ等距離の恋愛関係を望んでいて、 結局、神近市子に刺されたという、いわゆる日陰茶屋事件を起こしたぐらいの人です。
 つまり、「ありのままで愛を求めて行っている」のは、必ずしも女性のほうばかりでないことを、付け加えておきます。

今聞きたい!名曲HEY!HEY!HEY!の特集2014-07-13 23:20:55

 7月13日。
 と言えば、中森明菜さんの誕生日ですね。
 こちらは、何年か前のテレビ番組の特集です。


 いまから見て、寝ます。

アナログレコード・コレクション(その2)2014-06-30 23:14:53

 一番多く残っているのは、中森明菜さんのレコードです。
 まずこれは、1982年のデビューアルバム「プロローグ<序幕>」です。
 
プロローグ

 これは、セカンドアルバムの「バリエーション<変奏曲>」です。美少女でした。
バリエーション

 これは、1983年のサードアルバム「ファンタジー<幻想曲>」です。タイトルからして、ここまでが三部作のような感じです。
ファンタジー

 同じ1983年にリリースされた4枚目のアルバム「NEW AKINA エトランゼ」です。前作もそうですが、ポートレートが入っています。
NEW AKINA エトランゼ

 たくさんあります。
 1984年の「ANNIVERSARY」(左上)、「POSSIBILITY」(右上) と、1985年の「BITTER AND SWEET」(左下)、「BEST」(右下、シングル曲を収めたベスト・アルバム) をまとめて。
4枚まとめて

 
 漏れてしまいました。
 「BEST」よりも前に、1983年12月に発売された初のベスト・アルバム「BEST AKINA メモワール」も持っています。これは好きです。
メモワール

 続きます。
 「クリムゾン」(左)は1986年のスタジオ・アルバム、「赤い鳥逃げた」(中)は1985年5月にリリースされた12インチシングル、「MY BEST THANKS」は1985年12月にリリースされたミニ・アルバムです。
3枚まとめて

 1984年12月の「SILENT LOVE」は、完全限定でリリースされたミニ・アルバムです。ハードカバーは消印付きの国際郵便風の包装で、2枚のポートレートに4ページのカラー・イラスト入り歌詞カードが封入されて、なかなか洒落た作りのコンセプト・アルバムとなっています。
SILENT LOVE

 生産限定盤のミニ・アルバムと言えば、デビューした1982年12月24日に発売された「Seventeen」もそうです。盤面がピクチャーディスク仕様となっていて、両面とも明菜さんの写真が使われています。
Seventeen

 と、いろいろ残っていますが、これらのLPなどを、私は一度もプレーヤーに掛けたことがありません。というのも実は、これらのレコードを入手したのは、すでに我が家には稼動できるプレーヤーがなくなった後です。
 CDになる前、実は当時、テープで聞いてました。台湾で売られているテープが、これもそのうちのいくつかは残っています。
テープ

 私は意外と物持ちが良いかも知れません。