原始、女は太陽だった ~ 平塚らいてう、伊藤野枝2014-09-03 01:09:44



 「原始、女は太陽だった」(↑)は、1995年6月に発売されたCDシングルであり、先日発売されたの明菜さんの「オールタイム・ベスト ORIGINAL」にも収録されています。

 「原始に生まれた女のように / ただありのままに / 愛をもとめてゆきたい」という歌詞があり、ポジティブに生きる女性を謳う歌だとされています。

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 1911年9月、雑誌「青鞜」を創刊し、巻頭で「元始、女性は太陽であった」を高らかに宣言したのが、女性解放運動家で、戦後の和平運動にも尽力した、平塚らいてうです。

 らいてうの父親は会計検査院に勤務し、ドイツ語の通訳・翻訳をし、伊藤博文を助けて憲法草案にも携わった官吏です。母親は御典医の娘で、文明開化の先端を行くような人のようで、自己再教育のために桜井女塾に通って英語の勉強をしたそうです。
 らいてうが通った当時の東京女子高等師範学校附属高等女学校(御茶の水女子学校)は、大名豪族や豪商三井の娘もいて、良妻賢母教育主義で知られています。らいてうはそうした校風に反発し、「海賊組」という仲間を作り、14歳のとき、修身の授業をボイコットしたこともあります。

 21歳のらいてうは、海禪寺住職代理の和尚と接吻事件を起こしました。
 らいてうはこの青年僧に「不意に、なんのためらいもなく」キスし、結果、和尚は煩悩のあまり修業もままならぬ状態となったそうです。らいてうは、この件は小説「若きウェルテルの悩み」などからの影響があったためで、恋ではないと弁明しています。

 そして翌年、らいてうは成美女子英語学校の教師だった森田草平と心中未遂事件を起こしてしまいました。
 森田は夏目漱石門下の秀才で、二人は塩原の尾頭峠に情死行を企み、追っ手に捕らえられて未遂に終わっています。この事件は実に奇々怪々で、新聞報道されて、世間を仰天させました。森田はその顛末を小説「煤煙」として朝日新聞に発表し、結局、一躍人気作家になってしまいました。

 スキャンダルはこれに留まらず、「青鞜」の編集部に入ってきた男装の大女、尾竹紅吉にも惚れられました。らいてうが、「青鞜」の表紙絵を描いた奥村博史と仲むつまじくなったのを知り、紅吉は手首を切り、自殺未遂するに至りました。
 「文人暴食」(嵐山光三郎、マガジンハウス) という本をいま読んでいますが、「青年僧に対しても、森田に対しても、らいてうは『お嬢様のいたずら心』がいっぱいの自己執着があり、結果として男心を もてあそんだ。」と、作者が評しています。


 らいてうは29歳のとき、心身の疲れから、「青鞜」の発行権を、社員で当時まだ21歳の伊藤野枝に譲りました。

 もとも、野枝の編集になると「青鞜」は堕胎論文で発禁処理を受け、一年で廃刊となりました。
 手元の「本郷菊富士ホテル」(近藤富枝、中公文庫) によると、大杉栄が恋人の伊藤野枝とともに菊富士ホテルに移って来たのは大正5年(1916年)10月5日でした。
 大杉は外国語学校仏語科に入学したころから、幸徳秋水の平民社に近づき、以降入獄を繰り返していた運動家です。
 伊藤野枝は辻潤の妻、辻まこと (http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/07/1563252) の母親ですが、そのとき、家も二人の子供も一切捨てて大杉の元に飛び込んできました。

 辻潤が特高に付きまとわされたことをちょっと書きました (http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/05/22/6452932) が、大杉栄のほうも菊富士ホテルへ移ってくると、早速本富士署から刑事がやってきて、「大杉たちの隣の部屋を貸して欲しい」と申し込んだぐらいです。
 と言っても、当時の大杉栄は主催する「平民新聞」が毎号発禁の連続で、一文なしだったから、ホテルの宿代は一度も支払わないままで数ヶ月滞在したらしく、出先の食堂では尾行の刑事に支払いまでさせました。
 そんな大杉栄の負担にならないように考え、伊藤野枝は次男の流二を里子に出したりしました。
 辻まことが、「多摩川探検隊」(小学館ライブラリー)で、「夏休みは毎年、外房州夷隅郡大原町字根方という漁村にある弟の家にいく。(中略) いつも夏休みにしか会わない弟などは変なものだ。」と書いていますが、以上の事情によるものです。

 実は、野枝が辻潤と同棲するようになった際も、彼女は学費を出して上野高女を卒業させてくれた許婚を嫌って故郷を出奔したそうです。「火の玉のような情熱家であった」だと近藤富枝が評しています。
 太陽ですから、火の玉の親玉みたいなものなのでしょう。

 但し、「文人暴食」によれば、伊藤野枝が大杉の元に走ったのは「辻さんが彼女の従姉の千代子さんに愛を移したから」だと、平塚らいてうが記しているそうです。
 また、大杉栄のほうも「フリーラブ」を唱え、堀保子、神近市子、伊藤野枝の三人の女性とそれぞれ等距離の恋愛関係を望んでいて、 結局、神近市子に刺されたという、いわゆる日陰茶屋事件を起こしたぐらいの人です。
 つまり、「ありのままで愛を求めて行っている」のは、必ずしも女性のほうばかりでないことを、付け加えておきます。

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