【競馬史四方山話】ミノル、ミノル、トキノミノルほか2014-09-13 12:00:30

 1968年の第20回朝日杯3歳ステークスを勝ったのが、名種牡馬ヒンドスタンの仔ミノルです。

 ミノルは、3歳時(現在の表記では2歳)の成績は7勝3敗と負けも多いが、朝日杯を勝ったことが決め手となり、最優秀3歳牡馬(啓衆社賞)に選ばれました。
 4歳になり、東京4歳ステークスを6馬身差で圧勝してクラシックの主軸とも一時目されましたが、皐月賞はワイルドモアの4着、ダービーはダイシンボルガードの2着、秋の菊花賞は17着に惨敗して、クラシックイヤーは無冠に終わりました。


 日本のミノルはクラシックを勝てなかったが、英国のミノル(Minoru)は1909年のエプソム・ダービーを勝っています。

 ミノルのダービー制覇は、本命のサーマーティン(Sir Martin)のアクシデントに助けられたものだとも言われています。後のセントレジャー優勝馬バヤルド(Bayardo)に騎乗していたダニー・ムーア旗手は、サーマーティンの後ろに付け、事故を避けようと馬を抑えて、十数馬身ものロスがあったと証言しています。
 各馬は倒れたサーマーティンとその騎手にぶつからないことに懸命になっているのを横目に、ミノルはほとんどロスがなく内ラチとの間を突いてようです。

 ミノルの馬名の由来は、日本人の名前です。
 1902年に100メートル走で10秒24という記録を出した東京帝国大学の学生・藤井實に因んだものだと言われてもいますが、「Biographical Encyciopaedia of Britsh Falt Racing」など手元の英文書は、いずれも、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐が、牧場敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダこと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来する、という説を採っています。

 ダービー馬・ミノルのオーナーは、当時のイギリス国王エドワード7世となっています。
 王室の馬がダービーを勝つことが、王室ならびに王政に対する大衆の人気を高める方法だと主張し、ミノルを含む6頭の競走馬をイギリス国王エドワード7世に貸したのが、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐です。
 1916年になると、ウォーカー大佐は、所有しているサラブレッドをすべてイギリス政府に寄贈し、カラーにある牧場、調教厩舎等も査定して政府が買い上げました。国への高価な寄贈が認められ、彼にはウェーヴァトリー卿の爵号が与えられました。


 ホール・ウォーカーが運営していた間にタリー牧場から生まれた最良馬は、おそらくプリンスパラタインです。
 プリンスパラタインの父パーシモンは名種牡馬で、母はアイシングラス(Isinglass)産駒で、高い評価を受けている牝系であり、プリンスパラタインは成功できる下地を持っていました。
 ホール・ウォーカーについて、はるかに興味深いのは、その他の、競走成績や血統であまり見るべきものがない牝馬を近親交配して「ブリード・アップ」する手法です。そうした牝馬たちの孫の世代が、実に目覚しい大成功を収めました。

 ブランドフォード(Blandford) チャレンジャー(Challenger II)、シックル(Sickle)、ハイペリオン(Hyperion)、ビッグゲーム(Big Game)、プリンスキロ(Princequillo)。これだけの名種牡馬の2代母を生産した功績は、競馬史上に残る燦然たる偉業だと言わねばなりません。
 1916年にホール・ウォーカーが馬の生産から手を引いたあと、代わりに管理したサー・ヘンリー・グリアー、ノーブル・ジョンソンが、彼が残した近親配合を持った牝馬にスウインフォードのようなクラシック級の種牡馬と配合して生んだ、幸運な偶然であるのか、それとも計算された必然であるのかは、神様しかわからないでしょう。


 ブランドフォードは、生真面目なリチャード・セシル・ドウスン調教師にして、「もしダービーに出走できたら勝てただろう」と言わしめただけ素質はあったようです。しかし実際のブランドフォードは強い調教をすると必ず腱が腫れ上がる問題を抱え、思うようにレースに出せず、二年間の競走馬生涯でわずか4戦(3勝)しただけで引退しました。
 しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。

 そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
 バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
 しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。

 ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。


 セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
 しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
 ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。

 「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。

 トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
 「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。

 永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
 ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。

 しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
 6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
 そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
 名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。

 のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
 競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。

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