ジャガイモとサツマイモ2014-08-11 00:52:45

 サラブレッドの血統マップを眺めると、ハイペリオン(Hyperion)系も、ノーザンダンサー(Northern Dancer)系も、ナスルーラ系(Nasrullah)系も、ブランドフォード系(Blandford)系も、ネイティヴダンサー(Native Dancer)系も、父系の血を辿れば、いずれも1773年生まれの Pot-8-Os に到達することに気づきます。

 手元の"Biographical Encyclopedia of British Flat Racing"を引くと、Pot-8-Osの父は名馬エクリップス(Eclips)、母はSportsmistress(その父Sportsman)、Abingdon卿が生産した馬だそうです。デビューした3歳時は5戦1勝のみでしたが、晩成でタフな馬だったようで、10歳まで走って、計28勝もしました。
 種牡馬として大成功し、1794年のイギリス・リーディングサイヤーになったほか、2位と3位の年が2回ずつあったそうです。

 Pot-8-Os とは変わった馬名ですが、手元の英文書では Pot OOOOOOOO と表記しているのもあります。
 'O'が8つあるからエイトオー、Pot-8-Os はポットエイトオー、なんのことはない、つまり「ポテト」のことです。

 ポテト、つまりジャガイモは、南米アンデス山脈の高地の原産で、欧州に伝わったのは15世紀から16世紀頃だとされています。日本では江戸時代までに伝来しており、18世紀末には北海道・東北地方に移入され、飢饉対策として栽培されていました。
 ジャガイモの学名は"Solanum tuberosum"と言い、ナス目ナス科ナス属の植物です。


 一方、同じ中南米原産のイモ類に、サツマイモがありますが、こちらは学名を"Ipomoea batatas"と言い、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属となっています。
 全世界における生産量はジャガイモの三分の一程度で、九州の薩摩で栽培されるようになったのは17世紀初頭だと言われています。全国メジャーとなったのは、それから百年後、享保の大飢饉がきっかけでした。
 八代将軍・徳川吉宗の時代、日本橋の魚屋の息子、儒学者として知られていた青木昆陽が「甘藷考」を著し、救荒食としてのサツマイモ栽培を広めました。彼の碑には「甘藷先生」と刻され、昆陽の墓がある目黒不動尊では、いまでも毎年秋に「甘藷祭り」が開催されています。

 焼き芋が、手軽のおやつとして江戸に定着したのは、幕末に近い天保年間の頃、秋ともなれば、辻々に「○焼き」「八里半」「十三里」ののぼりがはためいたそうです。
 「○焼き」は皮ごと丸々焼いているためで、「八里半」は栗(九里)に迫る旨さから、です。それをさらに威張るようにしたのが「クリよりうまい十三里」、九里に四里(より)を足して十三里、というわけです。
 江戸後期の随筆家、寺門静軒の「江戸繁盛記」によれば、当時の焼き芋屋は早朝から深夜まで、香ばしい煙で老若男女を魅了し、「四文の芋は幼児を泣きやめさせ、十文あれば書生の飢えを癒すに足る」
だそうです。


 作家有島武郎の親友、足助素一が、一時期、東京渋谷道玄坂で露店の焼き芋屋を開業していました。
 屋号は、有島武郎の命名による「イポメ屋」です。前述の学名の"Ipomoea"から洒落て取ったものです。

 足助素一が札幌で貸本屋「独立社」を開いたのは明治41年、31歳のときです。大学生や先生方に愛されていたが、あるじ自身が気難しい男で、商売に気乗りしない日は店を閉め、近所の草原に寝転び、考えにふけっていました。そういうとき、店の表には「本日散歩につき休業」という札が掲げてあったそうです。
 独立社はのちに古本屋を兼業したが、足助は思うところあり、急に店を畳んで、蔵書をいっさいかつて教師を務めたことがある遠友夜学校に寄付しました。
 郷里の岡山県でシイタケやワサビの栽培をするつもりだったらしいが、なぜか考えを改め、突如上京し、焼き芋屋を始めました。

 ときは大正4年、足助38歳のときです。
 第一夜の売り上げは四十銭、炭代の二十銭が赤字でした。「でも俺は愉快だった。久し振りで熟睡した」(イポメ屋の七十日)。
 イポメ屋は、二ヶ月余りで店じまいと相成り、最高が一日八十銭の売り上げで、純益は十六銭であり、七十日を通計しての利益は五、六円、平均一日八銭でした。
 素人の露店焼き芋屋体験を、足助は「イポメ屋の七十日」なる文章にまとめ、「国粋」という雑誌に掲載されました。原稿料は五十円、イポメ屋の七十日間の利益の十倍近くもらったそうです。


 「遠きをおもんぱかり芋嫁食べず」と江戸川柳にあります。
 これは里芋だったかサツマイモだったかはわかりませんが、いずれ澱粉質で繊維質豊富な食べ物ゆえ、食後いずれ腹が膨れて、出るものが出てしまいます。それを恐れて新妻は、好物であっても箸を伸ばすのを躊躇ってしまいます。むろん、年功重ねた古女房ともなれば、そんな奥ゆかしさは忘れて、亭主もなにもおかまいなしなのでしょう。

 物の本によれば、ご飯やパンに比べてオナラがよく出るのは、サツマイモの澱粉粒が大きく、消化が遅いためです。
 皮ごと食べれば、皮の内側のヤラーピンという澱粉消化酵素が消化を助け、オナラが出にくくなるそうですが、真偽は確認しておりません。

勉強しまっせ2014-08-15 10:01:19

 「勉強しまっせ、引っ越しのサカイ~」というコマーシャルが、かつてテレビで流れていました。

 手元の字引(学研現代新国語辞典)によれば、「勉強」という単語には以下の意味があすようです:
(1) 知識、技能などを身につけようと努め励むこと。
(2) (将来役に立つであろう)貴重な体験
(3) (商人)安い値段で品物を売ること。

 「引越しの堺」が謳っている「勉強」は、無論(3)の意味ですが、主に関西地区で多く使われている表現で、他の地域では用例が少なく、そもそも意味がわかっていない人もいるかも知れません。


 出久根達郎のエッセイにに出てきたものですが、読売新聞の明治11年7月6日号に、以下の三行広告が掲載されているそうです。
 「府下の諸君子御不要之書籍御払下相成候はヾ多少に不限格別勉強高価に申請候間 郵便御報知を希ふ直に主張可仕候但し凡金一円以下の品は御持込可被下候 表神保町三番地書肆 自然堂敬白」

 古書店の新聞広告です。
 この「勉強」が明治11年にはすでに使われていることと、安く売ることだけでなく、勉強して高く買う場合にも使われることが、わかります。
 根は同じだと思いますが、辞書の書き方では不十分です。


 では、中国語の「勉強」は、というと、手元に台湾の「東方國語辞典」がありますが、それを引くと、以下の意味が出てきます:
(1) 不自然。
(2) 能力不夠、理由不足而強做。
(3) 人家不願意做而強迫他。

 古い用例は、ネットで見つけたものですが、漢・劉向編「列女伝」(http://ctext.org/lie-nv-zhuan/zhou-nan-zhi-qi/zh)に、「國家多難,惟勉強之」のくだりがあります。

 いずれにしても、「無理をして頑張る」の意味が含まれています。
 してみれば、商売人の勉強しまっせは、無理して安くしますよ(もしくは高く買い取らせてもらいますよ)の感じが濃く残り、学生たちのお勉強よりも、中国語の原意に近いと言えましょう。


 さて、若者の読書離れにはいくつもの原因が絡んでいるでしょうが、まず、苦労なく耳目に入り込んでくる映像や音声とは違って、読書には多少の根気を強いるから、楽したい年頃には嫌われるものです。
 学校の「勉強」は、無理やりやらされているから反発もするものだと言えますが、一方で、基本的な教養、知識は、子供の頃にこそ多少無理しても詰め込み、身につけるべきものなのかも知れません。

道の地図と区画の地図2014-08-23 21:21:24

 名探偵シャーロック・ホームズが住んでいた下宿の住所は、ロンドンのベーカー街221B番(221B Baker Street)となっています。

 ホワイトハウスの住所はワシントンのペンシルベニア通り1600番地で、台湾の故宮博物院の住所は台北市士林区至善路二段221番です。イギリスもアメリカも中国も、家のありかは道によって印されます。道それぞれに名前が付けられ、その道の何番目の家であるかがわかれば、場所が特定可能となります。
 英米の町の市街図を見ると、「Street Atlas」の副題に付けられることが多く、つまり「道」が中心の地図です。人々が空間の把握するのに用いられるのは、常に道路が中心であることが伺えます。

 しかし、日本では住所の表記が異なります。
 どこからどこまでがなんと言う町で、どの家が何丁目の何番地にあるかは、すべては「面」の地図が存在しているうえに成り立っています。
 この違いがなぜ起きたかを、僕はよくわかりません。

 土地の、主たる利用方法が違うためかも知れません。
 日本では土地が田んぼなどの区画で区切られ、家もそれぞれの区域のなかに建ち、重要なのは平面のきり方の方です。道というものは畑の畦道のように、各区切りの境界に過ぎない、という考え方だったからかも知れません。