菊池寛と競馬、山口瞳と競馬2014-12-23 17:22:56

 1946年(昭和21年)の10月17日、太平洋戦争の終戦から1年余り、日本競馬会の主催で、東京と京都で競馬が再開されました。
 その記念すべき、東京競馬の戦後初の勝ち馬はトキノコノミ号であり、文豪・菊池寛氏の持ち馬でした。

 実は8月に戦争が終わると、9月にはもう野球の東西対抗戦が神宮球場でやっていたそうです。
 同じ年の暮れには、有楽座で新劇の「桜の園」も上演されました。
 どうも、娯楽に対する欲求は、戦後のごたごたも貧困さとも、あまり関係ないようです。

 その中央競馬再開の日、東京には26,359人、京都には25,402人もの競馬ファンが集まりました。
 東京競馬は1日7レースで出走頭数が35頭、京都競馬は6レースで出走馬が28頭、3頭立てや4頭立てのレースもありました。
 競馬ファンは出走頭数の少なさに不満だったが、サラブレッドが127頭でアラブ馬が105頭、当時の競走馬の登録数は全部でこれしかなく、馬資源が枯渇していたのです。
 競走馬に付けるゼッケンも、戦時中に日本競馬会が保管したものが再利用されたそうです。


 さて、菊池寛は文士馬主の草分け的な存在で、戦前から馬主としても有名で、昭和15年春の帝室御賞典(現在の天皇賞の前身)をトキノチカラで勝っています。

 菊池寛の「わが馬券哲学」が、手元の「競馬読本」(福武文庫)にも収録されて、書斎派競馬ファンの間では昔から名文と知られているものです。

 「一、馬券は尚お禅機の如し、容易に悟りがたし、ただ大損をせざるを以て、念とすべし。」で始まり、
 「一、堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし。」や、
 「一、二十四,五円以下の配当の馬を買うほどならば、見ているにしかず。何となれば、世に絶対の本命なるものなければなり。」や、
 「一、しかれども、実力なき馬の穴となりしことかつてなし。」
 などと、大真面目に馬券哲学と教訓を綴りながら、最後は、
 「馬券買いは道楽なり。散財なり。真に金を儲けんとせば正道の家業に励むに如かず。」
 と結んでしまうところ、ある意味、笑うしかないです。

 1948年(昭和23年)、菊池寛は59歳で亡くなりました。
 後輩作家で、菊池と同じく馬主であった舟橋聖一は「競馬場で菊池寛先生をお見かけしなくなって残念」と、「優駿」誌上で偲んでいました。


 前記の「競馬読本」は、日本ペンクラブ編、作家の山口瞳が選んだものです。
 菊池寛は競馬文士の草分けなら、後輩作家の岩川隆によれば、山口瞳は「最後の競馬文士」だそうです。

 「日本競馬論序説」(新潮文庫、1991年)のなか、山口は次のように書いています。
 「僕は競馬歴は、ずいぶん長い。小学生のときに、父に御殿場の競馬場に連れて行かれたときから数えれば五十年近く、戦後再開された戸塚の競馬場へ自分が出向くというのを最初にしても四十年に近くなる。」

 御殿場競馬も戸塚競馬もよく知らなかったのですが、「戦時の不自由さを知ってるから、晴れて競馬ができるようになって、そりゃ嬉しいものでした。」と「優駿」誌上のインタビューで答えたのを読んで、なるほどだと思いました。


 僕は学生時代、コンビニのような小さなスーパーでアルバイトをしていたことがあります。
 夜に入り、客足が途絶えると、時間つぶしに売り物の雑誌を手に取って斜め読みしたりしますが、その頃、「週間新潮」で連載されていた、山口瞳の「男性自身」が好きで、そのコーナーだけほぼ毎週読みました。ダービーなど大レースの時期になると、ほぼ例外なく競馬の話が登場します。

 佐藤正人の「蹄の音に誘われて ~「わたしの競馬研究ノート」より」(毎日新聞社)に転載されている「男性自身」の一部を、以下に再録します:
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 ちかごろのスリッパは、柔でいけない。すぐにやぶれてしまう。そうかといって歯医者に置いてあるような頑丈一点張りの皮製品なんかも味がない。
 私はデパートの特選売り場で上等の皮製品尾やわらかいスリッパを売っていることを知っている。これだと一足が約一万円になる。これが買えない。なにか、おおそれ多いという感じになってしまう。無理をして、親子三人分をかそろえたとしても、それではお客様に失礼になる。
 しかし、私は断乎としてこれを買いそろえるつもりでいる。まともに買えないから競馬で当てて買う。
 そうして、そのときの勝馬の名前を書く。片方にヒカル、片方にイマイといった具合に。片方に目黒、片方に記念でもいい。
 そうでなければ、いまのスリッパは、人間の足に対し、あまりにも失礼だと思う。
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 ヒカルイマイは、後方一気の追い込みで、1971年の皐月賞と日本ダービーの2冠を勝った馬です。ヒカルとイマイとに分けられると、なんとなく滑稽に思えてしまいます。
 このとぼけた感じの文章は、しかし、なぜかたまらなく心地よいです。

 岩川隆によれば、山口さんの元気な姿を見たい、ことばを交わしたい、と思ったとき、競馬場五階のゴンドラ席に上がっていけば良く、どうも山口瞳は毎週土曜日、日曜日休みなくご精勤だった、そうです。
 「いまはその姿もなく、まことにさびしい。」と、「優駿」誌上で偲んでいました。

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