凱旋門賞2014への挑戦 ― 2014-10-05 11:58:54
ブローニュの森のセーヌ河畔側、長らく放置されていた細長い(ロン)草地(シャン)と呼ばれていた土地に、聖ルイ王の妹イザベル・ド・フランスが修道院を創設したのは、13世紀中葉です。
やがてそのロンシャンに、1857年に競馬場ができました。
大革命時代に修道院が取り壊されましたが、唯一残った風車小屋をバックに、世界初の本格的な国際レースとなる3歳戦のパリ大賞が創設されたのが1863年、古馬を含めたチャンピオン戦として凱旋門賞が新設されたのは1920年です。
いまなお欧州競馬の最高峰に目されている凱旋門賞に、日本のホースマンたちは執念を燃やし、度重なる挑戦を続けています。オルフェーブルの2年連続2着を筆頭に、ヨーロッパ以外からとしては最高の実績を誇りますが、残念ながら頂点まではいま一歩届いていません。
今年も日本競馬界から、なんと3頭ものチャンピオンホースが挑みます。
キングジョージを勝って来た英国調教馬タグルーダが一番人気になっているようですが、経験的には、地元のフランス勢、それも伸び盛りの3歳馬が強いです。
日本から来たチャレンジャーたち、中距離の世界チャンピオン・ジャスタウェイ、札幌記念を戦ってきた3歳牝馬のハープスター、古豪のゴールドシップ、はたして歴史的な快挙はなるのでしょうか?
今夜の中継には、日本の競馬関係者、競馬ファンも釘付けになるのでしょう。
やがてそのロンシャンに、1857年に競馬場ができました。
大革命時代に修道院が取り壊されましたが、唯一残った風車小屋をバックに、世界初の本格的な国際レースとなる3歳戦のパリ大賞が創設されたのが1863年、古馬を含めたチャンピオン戦として凱旋門賞が新設されたのは1920年です。
いまなお欧州競馬の最高峰に目されている凱旋門賞に、日本のホースマンたちは執念を燃やし、度重なる挑戦を続けています。オルフェーブルの2年連続2着を筆頭に、ヨーロッパ以外からとしては最高の実績を誇りますが、残念ながら頂点まではいま一歩届いていません。
今年も日本競馬界から、なんと3頭ものチャンピオンホースが挑みます。
キングジョージを勝って来た英国調教馬タグルーダが一番人気になっているようですが、経験的には、地元のフランス勢、それも伸び盛りの3歳馬が強いです。
日本から来たチャレンジャーたち、中距離の世界チャンピオン・ジャスタウェイ、札幌記念を戦ってきた3歳牝馬のハープスター、古豪のゴールドシップ、はたして歴史的な快挙はなるのでしょうか?
今夜の中継には、日本の競馬関係者、競馬ファンも釘付けになるのでしょう。
往年の名優 ― 2014-09-23 11:21:07
![](http://tbbird.asablo.jp/blog/img/2014/09/23/345a38.jpg)
こちら(↓)、たまたま YouTubeで見かけた、去年に撮影されたムービースター号の映像です。
どうやら、29歳という高齢になったいまも、岩手県の湯澤ファームで、功労馬として繋養されているようで、結構なことです。
冒頭の写真のほうは、私が中山競馬場で撮影した、レース前のムービースターです。目元も涼しく、名優の雰囲気を漂わせていました。
そのレースとは1983年の中山記念、ムービースターは見事に快勝し、4つ目の重賞タイトルを手にしました。
考えてみれば、あれから二十年以上も経ちました。
ムービースター号の共同オーナーのひとり、本物のムービースターである南田洋子さんも、すでにだいぶ前に他界していますね。
【競馬史四方山話】ミノル、ミノル、トキノミノルほか ― 2014-09-13 12:00:30
1968年の第20回朝日杯3歳ステークスを勝ったのが、名種牡馬ヒンドスタンの仔ミノルです。
ミノルは、3歳時(現在の表記では2歳)の成績は7勝3敗と負けも多いが、朝日杯を勝ったことが決め手となり、最優秀3歳牡馬(啓衆社賞)に選ばれました。
4歳になり、東京4歳ステークスを6馬身差で圧勝してクラシックの主軸とも一時目されましたが、皐月賞はワイルドモアの4着、ダービーはダイシンボルガードの2着、秋の菊花賞は17着に惨敗して、クラシックイヤーは無冠に終わりました。
日本のミノルはクラシックを勝てなかったが、英国のミノル(Minoru)は1909年のエプソム・ダービーを勝っています。
ミノルのダービー制覇は、本命のサーマーティン(Sir Martin)のアクシデントに助けられたものだとも言われています。後のセントレジャー優勝馬バヤルド(Bayardo)に騎乗していたダニー・ムーア旗手は、サーマーティンの後ろに付け、事故を避けようと馬を抑えて、十数馬身ものロスがあったと証言しています。
各馬は倒れたサーマーティンとその騎手にぶつからないことに懸命になっているのを横目に、ミノルはほとんどロスがなく内ラチとの間を突いてようです。
ミノルの馬名の由来は、日本人の名前です。
1902年に100メートル走で10秒24という記録を出した東京帝国大学の学生・藤井實に因んだものだと言われてもいますが、「Biographical Encyciopaedia of Britsh Falt Racing」など手元の英文書は、いずれも、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐が、牧場敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダこと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来する、という説を採っています。
ダービー馬・ミノルのオーナーは、当時のイギリス国王エドワード7世となっています。
王室の馬がダービーを勝つことが、王室ならびに王政に対する大衆の人気を高める方法だと主張し、ミノルを含む6頭の競走馬をイギリス国王エドワード7世に貸したのが、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐です。
1916年になると、ウォーカー大佐は、所有しているサラブレッドをすべてイギリス政府に寄贈し、カラーにある牧場、調教厩舎等も査定して政府が買い上げました。国への高価な寄贈が認められ、彼にはウェーヴァトリー卿の爵号が与えられました。
ホール・ウォーカーが運営していた間にタリー牧場から生まれた最良馬は、おそらくプリンスパラタインです。
プリンスパラタインの父パーシモンは名種牡馬で、母はアイシングラス(Isinglass)産駒で、高い評価を受けている牝系であり、プリンスパラタインは成功できる下地を持っていました。
ホール・ウォーカーについて、はるかに興味深いのは、その他の、競走成績や血統であまり見るべきものがない牝馬を近親交配して「ブリード・アップ」する手法です。そうした牝馬たちの孫の世代が、実に目覚しい大成功を収めました。
ブランドフォード(Blandford) チャレンジャー(Challenger II)、シックル(Sickle)、ハイペリオン(Hyperion)、ビッグゲーム(Big Game)、プリンスキロ(Princequillo)。これだけの名種牡馬の2代母を生産した功績は、競馬史上に残る燦然たる偉業だと言わねばなりません。
1916年にホール・ウォーカーが馬の生産から手を引いたあと、代わりに管理したサー・ヘンリー・グリアー、ノーブル・ジョンソンが、彼が残した近親配合を持った牝馬にスウインフォードのようなクラシック級の種牡馬と配合して生んだ、幸運な偶然であるのか、それとも計算された必然であるのかは、神様しかわからないでしょう。
ブランドフォードは、生真面目なリチャード・セシル・ドウスン調教師にして、「もしダービーに出走できたら勝てただろう」と言わしめただけ素質はあったようです。しかし実際のブランドフォードは強い調教をすると必ず腱が腫れ上がる問題を抱え、思うようにレースに出せず、二年間の競走馬生涯でわずか4戦(3勝)しただけで引退しました。
しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。
そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。
ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。
セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。
トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。
永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。
しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。
のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。
ミノルは、3歳時(現在の表記では2歳)の成績は7勝3敗と負けも多いが、朝日杯を勝ったことが決め手となり、最優秀3歳牡馬(啓衆社賞)に選ばれました。
4歳になり、東京4歳ステークスを6馬身差で圧勝してクラシックの主軸とも一時目されましたが、皐月賞はワイルドモアの4着、ダービーはダイシンボルガードの2着、秋の菊花賞は17着に惨敗して、クラシックイヤーは無冠に終わりました。
日本のミノルはクラシックを勝てなかったが、英国のミノル(Minoru)は1909年のエプソム・ダービーを勝っています。
ミノルのダービー制覇は、本命のサーマーティン(Sir Martin)のアクシデントに助けられたものだとも言われています。後のセントレジャー優勝馬バヤルド(Bayardo)に騎乗していたダニー・ムーア旗手は、サーマーティンの後ろに付け、事故を避けようと馬を抑えて、十数馬身ものロスがあったと証言しています。
各馬は倒れたサーマーティンとその騎手にぶつからないことに懸命になっているのを横目に、ミノルはほとんどロスがなく内ラチとの間を突いてようです。
ミノルの馬名の由来は、日本人の名前です。
1902年に100メートル走で10秒24という記録を出した東京帝国大学の学生・藤井實に因んだものだと言われてもいますが、「Biographical Encyciopaedia of Britsh Falt Racing」など手元の英文書は、いずれも、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐が、牧場敷地内に日本庭園を造園するために招いた日本人タッサ・イイダこと飯田三郎の子息であるミノル(実)に由来する、という説を採っています。
ダービー馬・ミノルのオーナーは、当時のイギリス国王エドワード7世となっています。
王室の馬がダービーを勝つことが、王室ならびに王政に対する大衆の人気を高める方法だと主張し、ミノルを含む6頭の競走馬をイギリス国王エドワード7世に貸したのが、ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐です。
1916年になると、ウォーカー大佐は、所有しているサラブレッドをすべてイギリス政府に寄贈し、カラーにある牧場、調教厩舎等も査定して政府が買い上げました。国への高価な寄贈が認められ、彼にはウェーヴァトリー卿の爵号が与えられました。
ホール・ウォーカーが運営していた間にタリー牧場から生まれた最良馬は、おそらくプリンスパラタインです。
プリンスパラタインの父パーシモンは名種牡馬で、母はアイシングラス(Isinglass)産駒で、高い評価を受けている牝系であり、プリンスパラタインは成功できる下地を持っていました。
ホール・ウォーカーについて、はるかに興味深いのは、その他の、競走成績や血統であまり見るべきものがない牝馬を近親交配して「ブリード・アップ」する手法です。そうした牝馬たちの孫の世代が、実に目覚しい大成功を収めました。
ブランドフォード(Blandford) チャレンジャー(Challenger II)、シックル(Sickle)、ハイペリオン(Hyperion)、ビッグゲーム(Big Game)、プリンスキロ(Princequillo)。これだけの名種牡馬の2代母を生産した功績は、競馬史上に残る燦然たる偉業だと言わねばなりません。
1916年にホール・ウォーカーが馬の生産から手を引いたあと、代わりに管理したサー・ヘンリー・グリアー、ノーブル・ジョンソンが、彼が残した近親配合を持った牝馬にスウインフォードのようなクラシック級の種牡馬と配合して生んだ、幸運な偶然であるのか、それとも計算された必然であるのかは、神様しかわからないでしょう。
ブランドフォードは、生真面目なリチャード・セシル・ドウスン調教師にして、「もしダービーに出走できたら勝てただろう」と言わしめただけ素質はあったようです。しかし実際のブランドフォードは強い調教をすると必ず腱が腫れ上がる問題を抱え、思うようにレースに出せず、二年間の競走馬生涯でわずか4戦(3勝)しただけで引退しました。
しかし、ブランドフォードは種牡馬になってから、子供たちが大活躍して、歴史的名種牡馬と呼ばれるようになりました。
そのうちの一頭が、1935年の英国クラシック三冠馬になったバーラム(Bahram)です。
バーラムは、生涯9戦9勝の歴史的名馬ですが、デビュー前は病弱であって調教も怠けていたので、同じオーナー(アガ・カーン殿下)で同じ厩舎にいた僚馬セフト(Theft)のほうが、むしろ当初の評価がだいぶ高かったようです。
しかし、バーラムはレースになるとまじめに走り、2歳時のナショナル・ブリダーズ・プロデュースSも、クラシック第一弾の2000ギニーも、セフトはバーラムの2着に負けました。
ダービーで、セフトは、前に馬がいたから一旦後ろに下げてから外に持ち出したため、騎乗したハリー・ラグ騎手は同じ馬主のバーラムに勝ちを譲ったのではないかと疑われ、審判から警告処分されたそうです。確かにセフトの後ろにいたバーラムは、そのままの位置でタテナムコーナーを回り、馬群を割り込んで快勝したから、少なくとも結果的にバーラムに乗っていたフレッド・フォックス騎手のほうが、優れた騎乗をしたと言えます。
セフトは競走馬引退後、日本に輸入され、官営の日高種畜場に繋養され、1947年から1951年まで、5年連続でリーディングサイアーとなったほどの大成功を収めました。
しかし、自身の競走成績同様、どちらかというと短距離レースのほうに活躍馬が多く、ダービーを勝つ馬はなかなか出てきませんでした。
ようやく、ミノルの英国ダービー制覇から42年後、1951年の日本ダービーを勝ったのが、セフト産駒による初のダービー馬、トキノミノルです。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」とあるのは、吉屋信子さんが、トキノミノル急死後、毎日新聞に寄せた文章の一部です。
トキノミノルは当初パーフエクトという馬名で出走していました。デビュー戦の800メートルのレースに2着馬に8馬身差でレコード勝ちした後、永田雅一オーナーがトキノミノルに改名しました。
「トキノ」は、永田氏が特に走る持ち馬に付ける冠名であり、デビュー前のトキノミノルはさほど期待されていなかったかも知れません。
永田雅一は当時大映の社長であり、プロ野球のオーナーでもあり、トキノミノルがダービーを勝った3ヶ月後、「羅生門」ががヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞したこともあり、まさに人生の絶頂期でした。
ダービーのレース後、馬場に出て記念写真を撮ろうとした永田氏とトキノミノル目がけて、観客が殺到し、埒が破損しました。オーナー、馬、騎手は人波のなかに巻き込まれ、口取り撮影は馬場内になだれ込んだ観客に囲まれた中で行われた史上初のことです。秋にはセントライト以来史上2頭目のクラシック三冠が確実視され、永田氏は記者たちに対し、三冠を達成できた場合、史上初のアメリカ遠征を行うことを発表しました。
しかし、レース終わって五日目ぐらいから、どうもドキノミノルは元気がなくなり、16日午後になって目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎が疑われて治療が行われたそうです。
6月17日、松葉博士がやって来て精密検査したところ、破傷風であることが確定されました。
そしてついに6月20日に敗血症を起こし、永田オーナーなど関係者に看取られながら短い生涯を閉じました。
名馬の急死は、社会的にも大ニュースとして扱われ、読売新聞の21日の朝刊で社会面のトップで扱い、競馬が一般紙に登場することの少ない時代で珍しい扱いでした。
のち、トキノミノルは銅像が作られ、幾度のを改修工事を経ている東京競馬場にいまも設置されています。
競馬ファンの間では待ち合わせ場所としてすっかり定着されています。
馬娘婚姻譚ほか ― 2014-07-27 10:44:02
![](http://tbbird.asablo.jp/blog/img/2014/07/27/33288e.jpg)
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「昔あるところに貧しき百姓あり。妻は無くて娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行き寝ね、終に夫婦に成れり。」
「遠野物語」(柳田國男)でに出てくるこの怪談を、現代風にアレンジしたのが、最近読んだ、井上やすし著「新釈遠野物語」(新潮文庫)の中の一篇「冷やし馬」です。
馬がシロで、娘が青江、語り手である犬伏先生が、青江との縁談を村長に断った場面が面白くて、笑えます。
「青江とはなら結婚してもよいといまでも思っています。だけど青江には別に好きな男がいますよ。とうていまとりますまい。」
「青江に好きな男......?」
「正確に言えば、好きな牡です。」
「......」
「シロと青江は相思相愛なのですよ。」
村長は怒ったような顔になって、「犬伏先生もずいぶん手の込んだ断り方をなさる。」
と言い捨て、畳を蹴って出て行った。
「遠野物語」は、「ある夜、父はこのことを知り、て、そのつぎの日に娘には知らせず、馬を連れだし桑の木につり下げて殺したり。......(娘が)死したる馬の首にすがり泣きいたりしを、父はこれをにくみ斧を以て後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。」と続いていくので、とても笑い話では済みませんが。
これがオシラ様の成り立ちだそうです。
冒頭の写真は、ずいぶん昔に入手した書物ですが、「馬娘婚姻譚」(今野圓輔著、岩崎美術社)は、「オシラ祭文」を中心に整理した論文です。
この話もオシラ遊びの祭文も、もとは中国から伝わってきたものだと思われます。
上記の本も、「捜神記」、「太古蠶馬記」、「神女伝」の記述を併記していますが、馬皮蠶女、馬頭娘、どれも同工異曲です。(http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E5%A5%B3)
なるほど、話の後半の、馬が死んで、馬皮が娘をさらって昇天し、やがて蚕となるくだりは、まさにオシラ祭文の筋と一致しています。ところが、中国の話の「父を連れ帰った者に嫁がせる」という話は日本側の伝承にないです。
代わりに、「遠野物語」もそうですが、オシラ祭文のどれも、娘が飼馬のあまり立派なのにほれ、お前が馬でなく人間だったら夫婦になろう、と言ったのをきっかけに、馬が娘に想いかけるようになったと語られています。
「蚤虱 馬の尿する 枕も」
松尾芭蕉の歌です。
昔、中部地方から東北地方にかけて、農家の馬屋は母屋の中の土間続きにあり、枕元に馬が小便する音で目が覚めるのであります。
馬屋のにおいも家に染み付いているでしょうし、人と馬の距離が近く、人馬同居は普通の田舎風景だったと思われます。
「それが朝夕の世話は、若い娘や嫁たちがあたるのである。やさしく愛ぐむ人たちの情は、物言わぬ馬にも通ずるのが自然であろう。」という奥州五戸で育った能田さんの文章が、ひとつのヒントになるかも知れません。
ちなみに、「人・他界・馬」(小島瓔礼編著、小嶋東京美術)に収録されている「魔の馬の足跡~中央アジアの宗教表象からユーラシアへ」に、古代インドの「リグ・ヴェーダ」の時代から行われていた牡馬の犠牲祭アシュヴァ・メーダ」の話が書かれています。犠牲の馬を殺したとき、祭主である王の第一妃が馬によりそい、祭官がその馬と妃を布で覆う儀式があるそうです。
この儀礼は、一歩移行すれば、女を馬の剥ぎ皮でくるむという形になり、また、それは天の岩屋の神話の、斑馬の皮を投げつけられた機織り女の姿でもある、と、この著者は説いています。
「昔あるところに貧しき百姓あり。妻は無くて娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行き寝ね、終に夫婦に成れり。」
「遠野物語」(柳田國男)でに出てくるこの怪談を、現代風にアレンジしたのが、最近読んだ、井上やすし著「新釈遠野物語」(新潮文庫)の中の一篇「冷やし馬」です。
馬がシロで、娘が青江、語り手である犬伏先生が、青江との縁談を村長に断った場面が面白くて、笑えます。
「青江とはなら結婚してもよいといまでも思っています。だけど青江には別に好きな男がいますよ。とうていまとりますまい。」
「青江に好きな男......?」
「正確に言えば、好きな牡です。」
「......」
「シロと青江は相思相愛なのですよ。」
村長は怒ったような顔になって、「犬伏先生もずいぶん手の込んだ断り方をなさる。」
と言い捨て、畳を蹴って出て行った。
「遠野物語」は、「ある夜、父はこのことを知り、て、そのつぎの日に娘には知らせず、馬を連れだし桑の木につり下げて殺したり。......(娘が)死したる馬の首にすがり泣きいたりしを、父はこれをにくみ斧を以て後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。」と続いていくので、とても笑い話では済みませんが。
これがオシラ様の成り立ちだそうです。
冒頭の写真は、ずいぶん昔に入手した書物ですが、「馬娘婚姻譚」(今野圓輔著、岩崎美術社)は、「オシラ祭文」を中心に整理した論文です。
この話もオシラ遊びの祭文も、もとは中国から伝わってきたものだと思われます。
上記の本も、「捜神記」、「太古蠶馬記」、「神女伝」の記述を併記していますが、馬皮蠶女、馬頭娘、どれも同工異曲です。(http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E5%A5%B3)
なるほど、話の後半の、馬が死んで、馬皮が娘をさらって昇天し、やがて蚕となるくだりは、まさにオシラ祭文の筋と一致しています。ところが、中国の話の「父を連れ帰った者に嫁がせる」という話は日本側の伝承にないです。
代わりに、「遠野物語」もそうですが、オシラ祭文のどれも、娘が飼馬のあまり立派なのにほれ、お前が馬でなく人間だったら夫婦になろう、と言ったのをきっかけに、馬が娘に想いかけるようになったと語られています。
「蚤虱 馬の尿する 枕も」
松尾芭蕉の歌です。
昔、中部地方から東北地方にかけて、農家の馬屋は母屋の中の土間続きにあり、枕元に馬が小便する音で目が覚めるのであります。
馬屋のにおいも家に染み付いているでしょうし、人と馬の距離が近く、人馬同居は普通の田舎風景だったと思われます。
「それが朝夕の世話は、若い娘や嫁たちがあたるのである。やさしく愛ぐむ人たちの情は、物言わぬ馬にも通ずるのが自然であろう。」という奥州五戸で育った能田さんの文章が、ひとつのヒントになるかも知れません。
ちなみに、「人・他界・馬」(小島瓔礼編著、小嶋東京美術)に収録されている「魔の馬の足跡~中央アジアの宗教表象からユーラシアへ」に、古代インドの「リグ・ヴェーダ」の時代から行われていた牡馬の犠牲祭アシュヴァ・メーダ」の話が書かれています。犠牲の馬を殺したとき、祭主である王の第一妃が馬によりそい、祭官がその馬と妃を布で覆う儀式があるそうです。
この儀礼は、一歩移行すれば、女を馬の剥ぎ皮でくるむという形になり、また、それは天の岩屋の神話の、斑馬の皮を投げつけられた機織り女の姿でもある、と、この著者は説いています。
【競馬史四方山話】オーストラリア、オーストラリアン、ウエストオーストラリアンほか ― 2014-07-19 23:49:44
6月28日のアイリッシュダービーは、わずか5頭の出走馬のなかから、一番人気のオーストラリア(Australia)が直線で楽々と抜け出し、快勝しました。
オーストラリアはエプソムダービーも勝っていたので、これで英愛ダービー連覇を達成したことになり、凱旋門賞の前売りオッズでも一番人気に躍り出ています。
オーストラリアはアイルランドの名伯楽エイダン・オブライエン厩舎の調教馬です。その父はいまをときめく名種牡馬ガリレオ(Galileo)ですが、ガリレオも確かに現役時はオブライエン厩舎に所属していて、2001年にやはり英愛ダービー連覇を成し遂げていました。
オーストラリアの母は、2004年、2006年欧州年度代表馬(カルティエ賞)に選ばれた名牝ウイジャボード(Ouija Board)です。ウイジャボードも、2004年の英国オークス、アイリッシュオークスを連勝していました。
ウイジャボードの馬主は第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリーです。馬名の由来は祖母Ouijaと母Selection Boardからの連想だと思われます。
ウィジャボードは2005年のジャパンカップ(5着)後、香港国際競走に転戦し、その年の香港ヴァーズを勝っています。香港のレースで出走する際は漢字の馬名も付けられますが、ウィジャボードの香港名表記は「占卜」です。
ウィジャボードとは、降霊術もしくは心霊術を崩した娯楽のために用いる文字版のことですが、日本における「コックリさん」の西洋版みたいなもののようです。
カードゲームの「遊戯王」にも「ウィジャ盤」という罠カードがありますが、実は英語版だと「Ouija Board」ではなく、「Destiny Board」になっています。もしかして版権の関係かも知れません。
Selection Boardの母はSamanda、希代の名ステイヤーであるアリシドン(Alycidon)の娘ですが、アリシドンの生産者および最初のオーナーは第17代ダービー伯爵となっています。
ウィジャボードが2008年に出産した初仔は、父がキングマンボ(Kingmambo)で、Our Voodoo Princeと名付けられました。ブードゥー教の王子という馬名も、母馬の名前からインスパイアされたのでしょう。
Our Voodoo Princeはヨーロッパでは芽が出なかったが、後にオーストラリアに移籍して、今年になってオーストラリアでG3の重賞を勝ちました。
3歳年下の弟はオーストラリアと名づけられ、2歳時から評判が高く、大変な良血馬だし、これからも活躍が期待されます。
ダービー馬でオーストラリアと言えば、やはりウエストオーストラリアン(West Australian)が思い出されます。
ウエストオーストラリアンは1850年、英国のストリートラム・キャッスル牧場で生まれた牡馬です。デビュー戦の2着を除けば、2走目以降は10戦全勝という素晴らしい成績をあげ、最初のクラシック三冠馬にもなった名馬です。
この馬名は、父のメルボルン(Melbourne)に因んだものだと思われ、現役時は競馬ファンから「ザ・ウエスト」の愛称で呼ばれていたそうです。
ウエストオーストラリアンは19世紀を代表する名馬で、最初の三冠馬がこのような名馬であることは、むしろ三冠レースそのものが大きな評判を得るのに幸運であったと言うべきかも知れません。
競走成績に比較すると、ウエストオーストラリアンの種牡馬としての成績は不振だと言っても良いかも知れません。それでも、その子供のオーストラリアン(Australian)がアメリカに渡って、種牡馬として成功し、その血統を残しています。
オーストラリアンの娘Maggie B.B.(http://www.tbheritage.com/Portraits/MaggieBB.html)から、最初の北米産の英国ダービー馬イロコイ(Iroquois)が生まれています。
また、オーストラリアンはスペンドスリフト(Spendthrift)も輩出し、スペンドスリフトの孫にフェアプレイ(Fair Play)がいて、フェアプレイの仔には、あのマンノウォー(Man O' War)がいます。
マンノウォーはいまさら言うまでもないほどの歴史的名馬であり、生涯成績は21戦20勝です。
1999年にブラッド・ホース誌編集部が「20世紀米国の100名馬」を順位付きで選出したが、第1位がマンノウォーでした。また、サラブレッド・レコード誌が1973年に行われた「歴代名馬ベスト10アンケート」でも、サイテーション、セクレタリアト、ケルソを抑えて、マンノウォーが堂々の第1位に選ばれています。
ウエストオーストラリアンは最初の英国三冠馬であるなら、マンノウォーは最初の米国三冠馬だと言われています
と言ってもこの時代では、ウイザーズS、ベルモンドS、ローレンスレアリゼーションSというイギリス型の旧三冠レースがまだ残っていました。 戦争不況によって旧三冠レースに入っていたウイザーズSなどは、1着賞金が五千ドルにも満たない状態になった一方、カントリーサイドのケンタッキー・ダービー、プリクネスSは、1着賞金が二万ドルを超えることになっていました。
こうして米国の三冠レースが入れ替わることになりますが、最初の新三冠馬マンノウォーは、実は旧三冠レース(ベルモンドSが重複)もすべて勝っているので、最後の旧三冠馬だと言っても良いかも知れません。
オーストラリアはエプソムダービーも勝っていたので、これで英愛ダービー連覇を達成したことになり、凱旋門賞の前売りオッズでも一番人気に躍り出ています。
オーストラリアはアイルランドの名伯楽エイダン・オブライエン厩舎の調教馬です。その父はいまをときめく名種牡馬ガリレオ(Galileo)ですが、ガリレオも確かに現役時はオブライエン厩舎に所属していて、2001年にやはり英愛ダービー連覇を成し遂げていました。
オーストラリアの母は、2004年、2006年欧州年度代表馬(カルティエ賞)に選ばれた名牝ウイジャボード(Ouija Board)です。ウイジャボードも、2004年の英国オークス、アイリッシュオークスを連勝していました。
ウイジャボードの馬主は第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリーです。馬名の由来は祖母Ouijaと母Selection Boardからの連想だと思われます。
ウィジャボードは2005年のジャパンカップ(5着)後、香港国際競走に転戦し、その年の香港ヴァーズを勝っています。香港のレースで出走する際は漢字の馬名も付けられますが、ウィジャボードの香港名表記は「占卜」です。
ウィジャボードとは、降霊術もしくは心霊術を崩した娯楽のために用いる文字版のことですが、日本における「コックリさん」の西洋版みたいなもののようです。
カードゲームの「遊戯王」にも「ウィジャ盤」という罠カードがありますが、実は英語版だと「Ouija Board」ではなく、「Destiny Board」になっています。もしかして版権の関係かも知れません。
Selection Boardの母はSamanda、希代の名ステイヤーであるアリシドン(Alycidon)の娘ですが、アリシドンの生産者および最初のオーナーは第17代ダービー伯爵となっています。
ウィジャボードが2008年に出産した初仔は、父がキングマンボ(Kingmambo)で、Our Voodoo Princeと名付けられました。ブードゥー教の王子という馬名も、母馬の名前からインスパイアされたのでしょう。
Our Voodoo Princeはヨーロッパでは芽が出なかったが、後にオーストラリアに移籍して、今年になってオーストラリアでG3の重賞を勝ちました。
3歳年下の弟はオーストラリアと名づけられ、2歳時から評判が高く、大変な良血馬だし、これからも活躍が期待されます。
ダービー馬でオーストラリアと言えば、やはりウエストオーストラリアン(West Australian)が思い出されます。
ウエストオーストラリアンは1850年、英国のストリートラム・キャッスル牧場で生まれた牡馬です。デビュー戦の2着を除けば、2走目以降は10戦全勝という素晴らしい成績をあげ、最初のクラシック三冠馬にもなった名馬です。
この馬名は、父のメルボルン(Melbourne)に因んだものだと思われ、現役時は競馬ファンから「ザ・ウエスト」の愛称で呼ばれていたそうです。
ウエストオーストラリアンは19世紀を代表する名馬で、最初の三冠馬がこのような名馬であることは、むしろ三冠レースそのものが大きな評判を得るのに幸運であったと言うべきかも知れません。
競走成績に比較すると、ウエストオーストラリアンの種牡馬としての成績は不振だと言っても良いかも知れません。それでも、その子供のオーストラリアン(Australian)がアメリカに渡って、種牡馬として成功し、その血統を残しています。
オーストラリアンの娘Maggie B.B.(http://www.tbheritage.com/Portraits/MaggieBB.html)から、最初の北米産の英国ダービー馬イロコイ(Iroquois)が生まれています。
また、オーストラリアンはスペンドスリフト(Spendthrift)も輩出し、スペンドスリフトの孫にフェアプレイ(Fair Play)がいて、フェアプレイの仔には、あのマンノウォー(Man O' War)がいます。
マンノウォーはいまさら言うまでもないほどの歴史的名馬であり、生涯成績は21戦20勝です。
1999年にブラッド・ホース誌編集部が「20世紀米国の100名馬」を順位付きで選出したが、第1位がマンノウォーでした。また、サラブレッド・レコード誌が1973年に行われた「歴代名馬ベスト10アンケート」でも、サイテーション、セクレタリアト、ケルソを抑えて、マンノウォーが堂々の第1位に選ばれています。
ウエストオーストラリアンは最初の英国三冠馬であるなら、マンノウォーは最初の米国三冠馬だと言われています
と言ってもこの時代では、ウイザーズS、ベルモンドS、ローレンスレアリゼーションSというイギリス型の旧三冠レースがまだ残っていました。 戦争不況によって旧三冠レースに入っていたウイザーズSなどは、1着賞金が五千ドルにも満たない状態になった一方、カントリーサイドのケンタッキー・ダービー、プリクネスSは、1着賞金が二万ドルを超えることになっていました。
こうして米国の三冠レースが入れ替わることになりますが、最初の新三冠馬マンノウォーは、実は旧三冠レース(ベルモンドSが重複)もすべて勝っているので、最後の旧三冠馬だと言っても良いかも知れません。
残酷極まる四月の花 ― 2014-04-14 23:33:58
四月は残酷極まる月です。
そう書いたのは英国のノーベル賞詩人T.S.エリオットです。
1922年刊の長詩「The Waste Land」の一章は、次のように始まっています:
APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
意味がよくわかりませんが、追憶(memory)と欲情(desire)をかき混ぜたり、ライラック(Lilac)を死の土から生み出すそうです。
ライラックは英語読みで、フランス語読みだとリラになります。花は白と淡紫とあり、紫のほうは植民地時代にアメリカに持って行かれ、東部および中部の庭園に植えられ、ニューハンプシャー州の州花だとされています。
Who thought of the lilac?
“I,” dew said,
I made up the lilac out of my head.”
こちらは Humbert Wolfeの詩です。
( http://m.thenorthfieldnews.com/news/2010-06-10/House_(and)_Home/Home_Again.html )
続きがあります。あえて日本語訳のほうで:
「露がライラックを作ったって!
ふーん」とベニヒワが高い声で言った。
そして、ひとつひとつの露の音符に
ライラックが宿っていた。
それより古く、1865年4月、観劇中に撃たれて死んだアメリカ第十六代大統領リンカーンへの、ワルト・ホイットマンの追頌歌にも出てきます。
咲き残りのライラックが戸口の庭に匂ひ、
夜空の西にたくましい星が沈み果てた時
私は嘆き悲しんだ~而して返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだらう。
(有島武郎 訳)
ライラックスマイルという馬が中央競馬で走ったのは、1990年代の初めです。
菊花賞に春の天皇賞と、長距離のGIレースで無類の強さを誇るライスシャワーの妹で、一時期結構注目されました。3歳時、確かにライスシャワーが出走するオールカマーの前日に3勝目をあげ、これでこの馬もエリザベス女王杯が楽しみ、翌日に走る兄貴にも弾みがついたんだな、と思ったりしました。
ライスシャワーのオールカマーは、しかし一番人気を裏切って3着に破れ、そこから長きに渡って不振の日々が続きました。ライラックスマイルのほうも、次のクイーンカップで二桁着順の惨敗を喫し、エリザベス女王杯には出走も諦めました。
ようやくライラックスマイルが1994年の秋に久々の勝利を収めれば、呼応するように、ライスシャワーのほうも1995年の春の天皇賞で大復活を果たし、3つ目のG1を手に入れました。
が、残念ながら、次走の宝塚記念のレース中にライスシャワーは故障してしまい、そのまま予後不良となりました。
ライスシャワーが亡くなった後、妹は一勝もできず、繁殖にあがった後に生んだ子供たちも、中央競馬ではつい勝ち鞍をあげることができませんでした。
ライラックの花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。
一方、一本でも切られるとまわりのライラックは翌年は咲かない、不吉な花だと言われ、病人の見舞いには厳禁、だそうです。
エリオットが残酷極まる四月の象徴に挙げたのも、根が深い話です。
そう書いたのは英国のノーベル賞詩人T.S.エリオットです。
1922年刊の長詩「The Waste Land」の一章は、次のように始まっています:
APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
意味がよくわかりませんが、追憶(memory)と欲情(desire)をかき混ぜたり、ライラック(Lilac)を死の土から生み出すそうです。
ライラックは英語読みで、フランス語読みだとリラになります。花は白と淡紫とあり、紫のほうは植民地時代にアメリカに持って行かれ、東部および中部の庭園に植えられ、ニューハンプシャー州の州花だとされています。
Who thought of the lilac?
“I,” dew said,
I made up the lilac out of my head.”
こちらは Humbert Wolfeの詩です。
( http://m.thenorthfieldnews.com/news/2010-06-10/House_(and)_Home/Home_Again.html )
続きがあります。あえて日本語訳のほうで:
「露がライラックを作ったって!
ふーん」とベニヒワが高い声で言った。
そして、ひとつひとつの露の音符に
ライラックが宿っていた。
それより古く、1865年4月、観劇中に撃たれて死んだアメリカ第十六代大統領リンカーンへの、ワルト・ホイットマンの追頌歌にも出てきます。
咲き残りのライラックが戸口の庭に匂ひ、
夜空の西にたくましい星が沈み果てた時
私は嘆き悲しんだ~而して返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだらう。
(有島武郎 訳)
ライラックスマイルという馬が中央競馬で走ったのは、1990年代の初めです。
菊花賞に春の天皇賞と、長距離のGIレースで無類の強さを誇るライスシャワーの妹で、一時期結構注目されました。3歳時、確かにライスシャワーが出走するオールカマーの前日に3勝目をあげ、これでこの馬もエリザベス女王杯が楽しみ、翌日に走る兄貴にも弾みがついたんだな、と思ったりしました。
ライスシャワーのオールカマーは、しかし一番人気を裏切って3着に破れ、そこから長きに渡って不振の日々が続きました。ライラックスマイルのほうも、次のクイーンカップで二桁着順の惨敗を喫し、エリザベス女王杯には出走も諦めました。
ようやくライラックスマイルが1994年の秋に久々の勝利を収めれば、呼応するように、ライスシャワーのほうも1995年の春の天皇賞で大復活を果たし、3つ目のG1を手に入れました。
が、残念ながら、次走の宝塚記念のレース中にライスシャワーは故障してしまい、そのまま予後不良となりました。
ライスシャワーが亡くなった後、妹は一勝もできず、繁殖にあがった後に生んだ子供たちも、中央競馬ではつい勝ち鞍をあげることができませんでした。
ライラックの花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。
一方、一本でも切られるとまわりのライラックは翌年は咲かない、不吉な花だと言われ、病人の見舞いには厳禁、だそうです。
エリオットが残酷極まる四月の象徴に挙げたのも、根が深い話です。
凱旋門賞の前哨戦(Sporting Lifeを見て) ― 2013-09-16 15:25:03
凱旋門賞まであと3週間、重要なトライアルレースがこの週末に行われました。
まず、日英のダービー馬が鼻を並べてゴールしたのがニエル賞(3歳、GII・芝2400m)です。パリ大賞典を楽勝してきた人気のフリントシャー(Flintshire)を交わし、エプソンダービー馬のルーラーオブザワールド(Ruler Of The World)の内から猛追をも凌いだのが、まさに今年の日本ダービー馬、キズナです。
"Sporting Life"がブックメーカーの話を引用した形で、このレースの上位2頭は凱旋門賞でも有力だと評しました。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923446/kizuna-edges-thrilling-niel>
しかし、3歳馬なにするものぞとその翌日、今度はオルフェーヴルがそれ以上のパフォーマスを見せ、もうひとつトライアルレース、フォワ賞(4歳以上、GII・芝2400m)を3馬身差で楽勝しました。
オルフェーヴルは昨年の凱旋門賞で2着に入り、日本調教馬および日本生産馬による初の凱旋門賞制覇を目指し、今年もロンシャン競馬場のターフに戻ってきました。
去年起きてしまったことは変えられないが、自信を持って凱旋門に戻ってくることはできる、とシミヨン騎手が語ったそうです。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923618/orfevre-oozes-class-in-prix-foy>
日本からやってきた2頭のチャレンジャーはこれ以上ない良い形で前哨戦をクリアしましたが、もうひとつのトライアルとも言える同日のGⅠレース・ヴェルメイユ賞(3歳以上牝馬限定、芝2400m)も、1番人気のトレーヴ(Treve)が快勝し、本番では強敵となりそうです。
この無敗の牝馬に騎乗したのは、写真からもわかる通り、例のデットーリ騎手です。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923562/cool-dettori-triumphs-on-treve>
キングジョージを5馬身差のレコードタイムで圧勝したドイツ馬のノヴェリストも、すでに2週間前にバーデン大賞(3歳以上、芝2400m)に勝利し、順調な調整を見せています。
さあ、役者がそろいました。
まず、日英のダービー馬が鼻を並べてゴールしたのがニエル賞(3歳、GII・芝2400m)です。パリ大賞典を楽勝してきた人気のフリントシャー(Flintshire)を交わし、エプソンダービー馬のルーラーオブザワールド(Ruler Of The World)の内から猛追をも凌いだのが、まさに今年の日本ダービー馬、キズナです。
"Sporting Life"がブックメーカーの話を引用した形で、このレースの上位2頭は凱旋門賞でも有力だと評しました。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923446/kizuna-edges-thrilling-niel>
しかし、3歳馬なにするものぞとその翌日、今度はオルフェーヴルがそれ以上のパフォーマスを見せ、もうひとつトライアルレース、フォワ賞(4歳以上、GII・芝2400m)を3馬身差で楽勝しました。
オルフェーヴルは昨年の凱旋門賞で2着に入り、日本調教馬および日本生産馬による初の凱旋門賞制覇を目指し、今年もロンシャン競馬場のターフに戻ってきました。
去年起きてしまったことは変えられないが、自信を持って凱旋門に戻ってくることはできる、とシミヨン騎手が語ったそうです。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923618/orfevre-oozes-class-in-prix-foy>
日本からやってきた2頭のチャレンジャーはこれ以上ない良い形で前哨戦をクリアしましたが、もうひとつのトライアルとも言える同日のGⅠレース・ヴェルメイユ賞(3歳以上牝馬限定、芝2400m)も、1番人気のトレーヴ(Treve)が快勝し、本番では強敵となりそうです。
この無敗の牝馬に騎乗したのは、写真からもわかる通り、例のデットーリ騎手です。
<http://www.sportinglife.com/racing/news/article/465/8923562/cool-dettori-triumphs-on-treve>
キングジョージを5馬身差のレコードタイムで圧勝したドイツ馬のノヴェリストも、すでに2週間前にバーデン大賞(3歳以上、芝2400m)に勝利し、順調な調整を見せています。
さあ、役者がそろいました。
全馬最強! ― 2013-05-30 00:37:17
皐月賞をあえて回避した佐々木晶厩舎のキズナが、武豊騎手を背に、外から豪快に追い込んできたシーンが、今年の日本ダービーのハイライトだったのでしょう。レース中に故障した馬もなさそうで、競馬の祭典は、ひとまず円満に終わりました。
終わった後に気づくのも遅いですが、第80回日本ダービーを記念して、「全馬最強 LEGENDS of 日本ダービー」というページが開設されています。(http://derbylegends.jp/)
ゲームと言うほどのものでもないです。
「遊び方」に「日本ダービーの優勝馬がここに集結。自分の好きな優勝馬を選択し、歴代最強の馬を予想しよう!」と書いてありますが、要は、歴代のダービー馬のなかから1頭を選べば、対戦馬1頭をコンピュータがランダムに選択してくれて、両馬に関する情報も表示されます。情報を参考にして、勝つと思う方を選ぶと、ほかのみんなの予想結果など、簡単な集計結果が表示される、というだけのものです。
単純ですが、各対戦組み合わせごとに多くの票を集めた馬が「勝ち」とされ、勝ち数の合計でランキングも出力されます。どうやら歴代の名馬にはそれぞれ熱心なファンがついていて、予想というより、加熱な応援合戦になっているようです。ディープインパクト対ナリタブライアンなどの人気の対戦、双方約2千票ずつ集まるほどです。
ダービーが終わっても、このページはまだ生きているようです。
一応いま現在のランキング上位を写してきました。すぐ変わってしまうかも知れません。
1. ナリタブライアン 76勝2敗
2. トウカイテイオー 75勝2敗1分
3. ディープインパクト 75勝3敗
4. オルフェーブル 75勝3敗
5. ウォッカ 74勝3敗1分
6. カツラノハイセイコ 74勝4敗
7. シンボリルドルフ 72勝6敗
8. ミスターシービー 71勝7敗
9. ミホノブルボン 68勝9敗1分
10. キングカメハメハ 68勝10敗
11. スペシャルウィーク 67勝11敗
12. フサイチコンコルト 65勝10敗3分
13. ディープブリランテ 64勝14敗
14. トキノミノル 64勝14敗
15. シンザン 63勝15敗
16. クリフジ 61勝16敗1分
17. アイネスフウジン 60勝17敗1分
18. ジャグルポケット 60勝17敗1分
19. サニーブライアン 59勝18敗1分
20 カブラヤオー 57勝18敗3分
見た感じ、さすがに上位を占めるのは近年の馬が多いですが、10戦10勝で1951年の二冠を制した後に急死したトキノミノルなど、かなり古い馬もそこそこの支持を集めているのが、興味深いところです。
終わった後に気づくのも遅いですが、第80回日本ダービーを記念して、「全馬最強 LEGENDS of 日本ダービー」というページが開設されています。(http://derbylegends.jp/)
ゲームと言うほどのものでもないです。
「遊び方」に「日本ダービーの優勝馬がここに集結。自分の好きな優勝馬を選択し、歴代最強の馬を予想しよう!」と書いてありますが、要は、歴代のダービー馬のなかから1頭を選べば、対戦馬1頭をコンピュータがランダムに選択してくれて、両馬に関する情報も表示されます。情報を参考にして、勝つと思う方を選ぶと、ほかのみんなの予想結果など、簡単な集計結果が表示される、というだけのものです。
単純ですが、各対戦組み合わせごとに多くの票を集めた馬が「勝ち」とされ、勝ち数の合計でランキングも出力されます。どうやら歴代の名馬にはそれぞれ熱心なファンがついていて、予想というより、加熱な応援合戦になっているようです。ディープインパクト対ナリタブライアンなどの人気の対戦、双方約2千票ずつ集まるほどです。
ダービーが終わっても、このページはまだ生きているようです。
一応いま現在のランキング上位を写してきました。すぐ変わってしまうかも知れません。
1. ナリタブライアン 76勝2敗
2. トウカイテイオー 75勝2敗1分
3. ディープインパクト 75勝3敗
4. オルフェーブル 75勝3敗
5. ウォッカ 74勝3敗1分
6. カツラノハイセイコ 74勝4敗
7. シンボリルドルフ 72勝6敗
8. ミスターシービー 71勝7敗
9. ミホノブルボン 68勝9敗1分
10. キングカメハメハ 68勝10敗
11. スペシャルウィーク 67勝11敗
12. フサイチコンコルト 65勝10敗3分
13. ディープブリランテ 64勝14敗
14. トキノミノル 64勝14敗
15. シンザン 63勝15敗
16. クリフジ 61勝16敗1分
17. アイネスフウジン 60勝17敗1分
18. ジャグルポケット 60勝17敗1分
19. サニーブライアン 59勝18敗1分
20 カブラヤオー 57勝18敗3分
見た感じ、さすがに上位を占めるのは近年の馬が多いですが、10戦10勝で1951年の二冠を制した後に急死したトキノミノルなど、かなり古い馬もそこそこの支持を集めているのが、興味深いところです。
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