元号のせいではあるまい2012-08-01 23:04:08

 七月某日 雨もそこそこ降ったような気がしますが、暑さと湿度がきつく、猛暑。
 七月某日 相変わらず猛暑。
 七月某日 言わずもかなの猛暑。
 七月某日 上に同じ。
 七月某日 上に同じ。
 八月一日 月が変わった。あとは同じ。

 世の中、思い通りにならないことが多いです。
 以下、丸谷才一の文章に基づく。


 平信範の日記「人車記」の保元四年四月二十日に、
 「平治。平の字の上に在る年号無きの由、之を申さる。また兵革ありと云々......」
 この日に改元の会議があり、「平治」が提案されました。
 「平」の字を上に置いた年号は先例がなく、日本が範とする中国の歴史上にもなかったようです。また、兵革ありと言われたのは、「承平」に平将門の乱、藤原純友の乱があり、「康平」に前九年の役があり、「平」という字は物騒なことに繋がる、という反対意見があったようです。

 結局、新年号は「平治」と決まりましたが、平治元年12月に「平治の乱」が発生し、ほら、見たことか、とまたすぐ改元されてしまいました。

 大地震に長引く不景気、これは昔の人なら、元号の悪さのせいにして、改元をと騒ぎ出すかも知れません。

【メモ】味噌汁よりも牛肉ソップ?2012-08-07 23:19:45

 日本で最初の洋食店が開業されたのは、明治2年頃だと言われています。
 但し、「当時外国人ノ供養ヲ目的トシ本邦人ハ之ヲ嗜ムモノニアラズ」(横浜市史稿)とあるように、日本人が通うわけではなく、また、何軒かできた洋食店はいずれも長続きしなかったようです。

 明治5年の「新聞雑誌」によれば、明治天皇が肉食奨励のため、「自ら膳宰に命じて」一月二十四日に牛肉を試食した、そうです。
 「近代日本食文化年表」(小菅桂子、雄山閣)を読むと、殺生禁断令が名目上まだ残っていた時代にあって、日本が近代国家として世界に仲間入りするため、政策として、明治天皇の牛肉試食をニュースで大々的にで報じたそうです。

 天皇の率先垂範が効いたのか、明治6年、「開祖西洋料理」と号し、函館で「開成軒」が開業し、東京築地にも西洋料理店「日新亭」が開業しました。少しずつ洋食が食べられるようになりました。
 また、同年に、東京小石川の橋爪貫一氏が、東京健全社の名でスープ(ソップ)の販売を開始しました。

 「にっぽん洋食物語大全」(小菅桂子、講談社)に、この東京健全社が出した意見広告が載っていますが、なかなか大胆な内容です。
 「牛羹汁(ソップ)、一合定価三銭。都下の風習として毎日味噌汁を喫すること各家概ね然り。然るに彼の味噌は元と腐敗物より造れるものにして、大に人身に害あり......」
 だから腐敗物からできる味噌汁をやめて、健康に良い西洋のソープにしなさい、という理屈です。離乳食として、このソープでお粥を作るのも最高ですよ、とも。

 但し、明治14年、浅草の平野亭が毎朝牛肉ソップの配達を始めた記述を見ても、一般家庭よりもむしろ病院に毎日配達されたそうです。つまり、主に病人のための栄養食であって、一般家庭に浸透できなかったようです。

悪魔の如く黒く、地獄の如く熱く、恋の如く...甘い?2012-08-14 10:13:06

 肉食もスープも最初は健康食として食べられたように、日本ではコーヒーも最初は薬用でした。

 万延元年(1860年)の箱館(函館)運上所の輸入品にコーヒー豆が記録されていました。飲んでいたのは幕臣たち、当時流行っていた脚気の予防で、コーヒー豆が配られました。
 「黒くなるまでよく炒り、細かくたらりと成迄つきくだき、弐さじ程麻の袋に入、熱い湯にて番茶の如き色にふり出し砂糖を入用ふべし......」と、飲用方法まで細かく指示がありました。

 これはあくまでも例外で、明治時代まで、コーヒーは「加非」であったり、「珈琲」であったり、あるいは「豆茶」で和訳されたりしますが、ほとんどは活字上でのみ知られ、実際のコーヒーを見て飲んだ人はほとんどいなかったようです。

 前にもメモ書きしましたが、明治21年4月に上野の西黒門町にできた「可否茶館」が、コーヒー店の第一号だといわれています。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2009/11/17/4701112
 「にっぽん洋食物語大全」によれば、「店は二階建て青ペンキ塗りの西洋館で、入るとすぐに玉突き場があり、二階へ上ると喫茶室、そこにはコーヒーばかりか洋酒やビールもあり、トランプや碁や将棋ができ、内外の雑誌や便箋まで揃っていた。」とか、「さらに化粧室と申す小意気な別室もあるので、そこでたくさんおめかしを......」とか、当時としてはなかなか豪華で洒落ていたようです。
 しかし、明治19年11月、日本橋に「洗愁亭」という店が先に開業していたという記録もあり、本当の第一号かどうかはわかりません。

 「可否茶館」も、それに続く「ダイヤモンド珈琲店」も、かなり話題を集め、しばらく大入りが続いたそうですが、両店とも数年のうちに店をたたんだように、人気は必ずしも長続きしなかったようです。
 カフェーという名で喫茶店がふたたび発展したのは、およそ明治四十年代以降になります。

 明治39年、横浜で開店した「不二家」が、モカとコロンビアを半々にブレンドしたコーヒーを看板に繁盛しました。
 明治41年、大阪川口(旧居留地)に「カフェー・キサラギ」が開店し、大阪におけるカフェーの先駆になったそうです。
 明治43年、東京の日本橋小網町に欧風カフェー「メーゾン・鴻の巣」が開店し、明治44年は京橋日吉町に「カフェー・プランタン」が開店しました。
 「カフェー・プランタン」は洋画家の松山省三の経営で、「仲間が気楽に集まれて、女性が酒を注いでくれる」サロンを夢見て開いたもので、必ずしもコーヒーを飲ませる店ではありませんでした。それでも、横浜のイタリア人の店までコーヒー豆を仕入れに行き、一杯15銭で売っていたそうです。チキンカツサンド、ハヤシライス、ハンバーグステーキなど名物料理もハイカラ。オーナーの交友関係にもよるかも知れませんが、朝からコーヒーも酒も飲める店ということで、岸田劉生、森鴎外、小山内薫、喜多村緑郎、永井荷風などの多くの文化人が喜んで集まっていたそうです。

 現在も残っている「カフェー・パウリスタ」がその最初の店を開いたのは、大正2年です。
 「近代日本食文化年表」によれば、ブラジル移民事業に功績のあった水野竜にブラジル政府が毎年1500俵の無償提供を約束し、合わせて日本におけるブラジルコーヒーの宣伝と普及を委託し、それを受けての開店だそうです。
 「パウリスタはおしゃれな白亜三階建てで、コーヒーは五銭。コーヒーをPRするため、慎重一メートル八十余の大男がシルクハットに燕尾服姿で美少年の給仕を従え、銀座通りを行く人に試飲券を配る。その券には『悪魔の如く黒く 地獄の如く熱く 恋の如く甘い』というキャッチフレーズが書いてあったという。」

 「たべものの歴史」によれば、「カフェー・パウリスタ」はそれまでの一連のカフェーと比べると色も匂いもない生野暮な、見るから堅気堅気した店だった。料理は一切こしらえず、できるものは珈琲と菓子だけだった。」
 恋も甘いのは最初だけです。
 「カフェー・プランタン」のようなサロンよりも、堅気な「カフェー・パウリスタ」が、のちの喫茶店の原型になったのではないでしょうか?

ネット上で見かけたおもしろい写真2012-08-18 00:17:24

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懐かしい名前2012-08-21 23:31:52

 ネットニュースをいろいろ見ていて、台湾でいわゆる韓流が流行っていることに対して、台湾の文化部長が異論を唱えた記事に、たまたま辿りつきました。( http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20120608/Recordchina_20120608002.html
 記事そのものはどうというほどの内容ではないですが、台湾の行政院に「文化部」という省庁ができたのは知らなかったし、なにより大臣に龍應台女史がなっていることに、びっくりしました。

 龍應台は、作家です。
 僕が台湾で高校生をやっていた頃に突如現れて、「中國時報」という新聞(家で購読していました)にコラムを持ち、80年代の台湾社会を批判する文章をいくつも書き、センセーショナルな反響を呼び起こしました。

 龍應台は、女性です。
 名前を見て、最初は男性だと僕も思いました。名前を付けた父親は「龍應台」と「龍三條」の両案しかなく、龍應台に最終的に落ち着いたことに、思えば感謝すべきだと本人が書いたのを、僕は読んだ記憶があります。

 単行本の「野火集」は売れまくり、大変なベストセラーになりました。台湾の民主化にも影響を及ぼしたような気がします。単行本を僕は買っていませんが、新聞で連載された文章はわりと気に入って、嫌いではなかったのです。但しなんとなく一発屋で、すぐに人気がなくなるだろうと思っていました。
 高校を卒業して日本に戻ってからは、台湾の情報に疎くなり、この名前もとうに忘れました。いつの間にか、政界に進出したようですね。

 いや、懐かしい名前に出会って、当時のことを若干思い出しただけです。

良く死ねる日までは、良く生きておきたいもの2012-08-24 23:13:12

 ある占星学者が、生命の謎に係る大秘密、すなわち自らの死期の計算に腐心しました。
 夜な夜な明け方まで星を眺め、何年も何年も無数の記号や数字を積み重ねました。
 彼の計算は着々と進み、目標まであとちょっとのところまで来ました。
 しかしある朝、彼の手から筆が落ちました。
 もうあと一つだけ寄算をすれば答えが出るのに、なんたる無念でしょうか。
 長い歳月が流れ、人知れずに彼は年を取り、孤独と疲労のなかで死を迎えました。


 スマイルさんのブログ文(http://todaywesonghands.asablo.jp/blog/2012/08/23/6552608)を読みながら、ジャン・フェリーの物語集「Le Mécanicien et autres contes」(http://www.poin-poin.com/littture-mainmenu-89/822-mecanicien-contes-jean-ferry)のなかから、渋澤龍彦が引用しているもの(「マルジナリア」、福武文庫)を思い出し、ちょっと書き換えてみました。

 一度限りの人生は、こういう生き方、この死に方で、はたして良かったのでしょうか?


 「死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。」(徒然草)、本当にいつトントンと肩を叩かれるか、なかなか予想できるものではありません。
 近頃、身内の人が急に重い病気を告知され、一層思いが身に沁みましたが、まことに「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」としか言いようがありません。
 残念ですが、しかしやむを得なければならないもののようです。

 いま読んでいる林望の「臨終力」(KKベストセラーズ)は、こういう老少不定の人生の本質を達観に直視し、本当に自分がやりたいことをやり、最期まで心を健康に生き、世間への恩返しを考えることを、諄々と説いている良書です。
 「自分の生をみつめ、だんだん限られていく自分の生、ひいては人生の終わりをよりよくしたいという思い」と、スマイルさんが書かれたのも、考え方の根本は同じかと、とりあえず捉えてみました。

 良い意味の諦念を覚え、人事を尽くす、人のできることは、これぐらいでしょうか。
 北冥の鯤鵬や上古の大椿に比べれるとちっぽけですが、朝菌や恵蛄に比べれば、遥かにいろいろできる長い命です。足るを知れば、不足はないかも知れません。

長野県下條村の場合2012-08-26 23:42:32

 いまの日本は、国もそうですが、大半の自治体が多額の借金を抱えています。そして、特に農村はそうですが、人口が減って、高齢化、過疎化が進んでいます。

 しかし、山間部にあり、これと言った産業がないのに、財務状況がしっかりしていて、若い人もちょっとずつ増えてきている村も存在します。
 奇跡でもなんでもなく、トップの舵取り、実行力次第でなんとかなるらしいです。

 JapanBusinessPressの「経営力がまぶしい日本の市町村」第一弾です:
 <http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35810>
 <http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35811>