悪魔の如く黒く、地獄の如く熱く、恋の如く...甘い?2012-08-14 10:13:06

 肉食もスープも最初は健康食として食べられたように、日本ではコーヒーも最初は薬用でした。

 万延元年(1860年)の箱館(函館)運上所の輸入品にコーヒー豆が記録されていました。飲んでいたのは幕臣たち、当時流行っていた脚気の予防で、コーヒー豆が配られました。
 「黒くなるまでよく炒り、細かくたらりと成迄つきくだき、弐さじ程麻の袋に入、熱い湯にて番茶の如き色にふり出し砂糖を入用ふべし......」と、飲用方法まで細かく指示がありました。

 これはあくまでも例外で、明治時代まで、コーヒーは「加非」であったり、「珈琲」であったり、あるいは「豆茶」で和訳されたりしますが、ほとんどは活字上でのみ知られ、実際のコーヒーを見て飲んだ人はほとんどいなかったようです。

 前にもメモ書きしましたが、明治21年4月に上野の西黒門町にできた「可否茶館」が、コーヒー店の第一号だといわれています。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2009/11/17/4701112
 「にっぽん洋食物語大全」によれば、「店は二階建て青ペンキ塗りの西洋館で、入るとすぐに玉突き場があり、二階へ上ると喫茶室、そこにはコーヒーばかりか洋酒やビールもあり、トランプや碁や将棋ができ、内外の雑誌や便箋まで揃っていた。」とか、「さらに化粧室と申す小意気な別室もあるので、そこでたくさんおめかしを......」とか、当時としてはなかなか豪華で洒落ていたようです。
 しかし、明治19年11月、日本橋に「洗愁亭」という店が先に開業していたという記録もあり、本当の第一号かどうかはわかりません。

 「可否茶館」も、それに続く「ダイヤモンド珈琲店」も、かなり話題を集め、しばらく大入りが続いたそうですが、両店とも数年のうちに店をたたんだように、人気は必ずしも長続きしなかったようです。
 カフェーという名で喫茶店がふたたび発展したのは、およそ明治四十年代以降になります。

 明治39年、横浜で開店した「不二家」が、モカとコロンビアを半々にブレンドしたコーヒーを看板に繁盛しました。
 明治41年、大阪川口(旧居留地)に「カフェー・キサラギ」が開店し、大阪におけるカフェーの先駆になったそうです。
 明治43年、東京の日本橋小網町に欧風カフェー「メーゾン・鴻の巣」が開店し、明治44年は京橋日吉町に「カフェー・プランタン」が開店しました。
 「カフェー・プランタン」は洋画家の松山省三の経営で、「仲間が気楽に集まれて、女性が酒を注いでくれる」サロンを夢見て開いたもので、必ずしもコーヒーを飲ませる店ではありませんでした。それでも、横浜のイタリア人の店までコーヒー豆を仕入れに行き、一杯15銭で売っていたそうです。チキンカツサンド、ハヤシライス、ハンバーグステーキなど名物料理もハイカラ。オーナーの交友関係にもよるかも知れませんが、朝からコーヒーも酒も飲める店ということで、岸田劉生、森鴎外、小山内薫、喜多村緑郎、永井荷風などの多くの文化人が喜んで集まっていたそうです。

 現在も残っている「カフェー・パウリスタ」がその最初の店を開いたのは、大正2年です。
 「近代日本食文化年表」によれば、ブラジル移民事業に功績のあった水野竜にブラジル政府が毎年1500俵の無償提供を約束し、合わせて日本におけるブラジルコーヒーの宣伝と普及を委託し、それを受けての開店だそうです。
 「パウリスタはおしゃれな白亜三階建てで、コーヒーは五銭。コーヒーをPRするため、慎重一メートル八十余の大男がシルクハットに燕尾服姿で美少年の給仕を従え、銀座通りを行く人に試飲券を配る。その券には『悪魔の如く黒く 地獄の如く熱く 恋の如く甘い』というキャッチフレーズが書いてあったという。」

 「たべものの歴史」によれば、「カフェー・パウリスタ」はそれまでの一連のカフェーと比べると色も匂いもない生野暮な、見るから堅気堅気した店だった。料理は一切こしらえず、できるものは珈琲と菓子だけだった。」
 恋も甘いのは最初だけです。
 「カフェー・プランタン」のようなサロンよりも、堅気な「カフェー・パウリスタ」が、のちの喫茶店の原型になったのではないでしょうか?