新しいPCを使いながら2011-09-06 09:19:27

 7月に家人が新しいノートパソコンを購入したのに続き、僕のデスクトップも9年8ヶ月ぶりに買い換えました。
 パソコンってのは10年間も使えるものかと、職場の若い者がびっくりしましたが、いやここに来てモニタのほうがたまに調子が悪いけれど、それ以外ではHDDも含めて、故障らしい故障はありませんでした。
 前の富士通FMVも、もうひとつ前の東芝DynaBookも約3年で取り替えていたことを考えれば、すごいといえばすごいことです。


 林望の随筆を読んでいたら、「情報化」という日本語は、そのお父さんの林雄二郎が使い始めた言葉ではないか、と書かれています。
 アポロの宇宙船が月面に着陸して、日本では大阪万博が華々しく開催された頃です。
 コンピュータという「道具」がようやく世間の耳目を峙たせたと言っても、実際に手にして操るのはまだ一握りの専門技術者です。ところがそこから十年ほども経てば、これは我々一般人の生活にも無関係でなくなるかも知れないと、徐々に大衆が気づき始めました。

 僕も、台湾製のApple IIもどきを、最初に親に買ってもらったのが1983年の夏でした。
 何しろVRAM込みでメモリは64KBのみ、もちろんハードディスクは付いていなく、フロッピーディスクというものすら1986年のMSX2に増設したのが最初で、それまではカセットテープを使っていました。それでも稚拙なBASICとか、9652やZ80のマシン語を使って、それはそれで一応楽しく遊んでいました。

 大学のUNIXマシンでニュースを読んだり、電子メールというものを使い始めたのは1990年代の初めでした。1995年頃からNIFTYでいわゆるパソコン通信をやっていたら、いつの間にかインターネットが普及しました。慌ててHTMLやJava Scriptを勉強し、ホームページとやらを作ってみたら、世の中はさらに進み、いまではチャット、ブログ、mixi、Face Book、Twitter、Flickrなど、オンライン・コミュニケーションも日新月歩に様変わりしています。


 精密なCGで描かれたゲーム画面を前に子供が遊んだり、テレビでデジタル放送の番組を見ながらデータ放送のクイズに挑戦したり、車にはナビシステムが付き、新しいPCには当たり前のようにDRAMが8GB、HDDが1TBも載っています。
 「愰如隔世」とはこういうことを言うのでしょうね。

お米の好ましい食感2011-09-07 01:48:59

 秋立つや稲穂が頭を垂らし、うれしいというより美味しい、実りの季節がすぐそこです。
 お米は日本人の主食だけあって、ブランドもいろいろあるし、拘る人は実にかなりの拘りようです。


 あれは1993年でしたか。記録的な冷夏、日照不足により日本国内で栽培されるお米の生育が著しく悪く、タイ、中国、アメリカからお米の緊急輸入が行われました。
 なかでも、日本政府からの緊急要請に対して、いち早く応えたのがタイ政府でした。しかし大量に輸入・流通させたタイ米は、結局かなりの不人気で、後に不法投棄されるなどの社会問題まで発展しました。

 テレビのニュース番組で、レポータがタイの米産地まで取材しに行ったのは別に問題ないですが、汗を流して収穫している最中の農家の方を捕まえて、あなたたちのお米はまずい、と日本では言われていますが、いかが思われますか、というストレートなインタビューまではしなくてもいいじゃないかと思いました。
 呆然となってしまったおじさんの悲しい顔を、僕はいまも忘れられません。

 タイ米が不評なのは、質の違う日本米と同じ炊き方にしたせいだと言われます。
 流通量が少なかったのもありますが、カリフォルニア米や中国米にはそのような風評被害があまり聞かれず、タイ米の独特の香味と、なによりあのパサパサ感が、日本人の多くは馴染めなかったのだと思います。
 テレビでは、寒天や餅を入れて一緒に炊く等によって粘り気を増す工夫なども紹介された。しかし、そもそもねんばりとしたご飯が旨いのは、昔からなのでしょうか?


 青木正児の「用匙喫飯考」を読むと、宋の計有功の「唐詩記事」に収録されている薛令之の詩が引用されています。
 貧乏暮らしを愚痴っているその詩に「飯渋匙難滑、羹稀箸易寛」という句がありますが、ここの「滑」は、青木先生の解説によれば、ぬるぬるするのではなく、さらさらするのであります。匙が滑りにくいのは、なんのことはなく、貧しくて、粘った飯しか食べられなかったためです。
 北朝後魏の「斉民要術」巻九に飯の炊き方を記したうち、粟飯二種に対しても「滑美」と賞賛していますが、匙から流れ落ちるぐらい、さらっとした感触が好ましかったのです。

 さらに、「物類相感志」飲食篇には、飯を作るのに朴硝を入れて炊くと、一粒ずつ離れて粘りつかない、という秘訣まで書かれて、昔の中国人の嗜好は推して知るべしです。

 上の寒天や餅を入れて粘り気を増す云々とは、実に好対照でした。

引き続き、美味しさについて2011-09-08 01:19:15

 日本人と違って、フランス人の多くも、ぼろぼろして一粒一粒がくっつかないご飯をおいしく感じるそうです。


 人間の五官のうち、味覚と嗅覚は、科学物質を受容することによって生じる感覚です。伝達するのに、古い脳である扁桃体や島皮質が使われます。
 残る視覚、聴覚、触覚の3つは、それぞれ光、音、圧力や温度と言った物理量を受け取って生じる感覚です。これらの感覚は大脳新皮質で知覚されますが、大脳新皮質は論理的な判断を可能とする部位です。
 食することは、主に味覚と嗅覚を使うと思われますが、決してそれだけではなく、見た目や歯触り、舌触りと言った食感も重要なのです。

 米を粥状にして機械で測定した結果では、オーストラリア米ほどではないものの、アメリカ産米よりは、タイ米のほうが日本国内産の米に近いそうです。
 しかし白飯の場合、味への貢献度で、味や香りは合わせても40%以下だと研究者は言います。見た目とテクチャ(歯触り、舌触り)が重要になっているようです。人はまさに五官を総動員して食を楽しみます。


 粘菌変形体などの単細胞生物も、毒となる物質から逃れ、栄養となる物質に進んで摂取します。しかも研究によれば、遺伝子で決まる好みもあれば、後天的な好き嫌いもあるようです。
 人間の感じる美味しさは、当然ながら、単細胞生物よりはるかに複雑です。

 「甘み」は糖分から生じ、人間に必要なエネルギー源を意味するので、生理的な欲求に合致した美味しさだと言えましょう。
 しかし本来「酸っぱさ」は食物の腐敗に気づくために、「苦み」は危険(毒)を避けるために、知覚できるように人類が身に着けた能力だそうです。なぜ人は本来避けるべき食べ物の酸味や苦さをも楽しめるようになったのでしょうか?

 例えばコーヒーはどうでしょうか。飲んだ後のすっきり感が脳に記憶されたため、その苦さも心地よく受け入れられるようになったかも知れません。味覚と嗅覚だけでないのは当然、経験や知識など、ここには五官以外の判断も含まれる可能性があります。( もちろんコーヒーには酸味や旨みと言った、苦味以外の味覚も備えていますが )


 「感性の起源」(都甲潔、中公新書)を読むと、京都大学の伏木亨教授は、美味しさの要因を以下の4種類に分けてまとめているそうです。
 (1)生理的な欲求に合致した美味しさ。
 (2)文化に合致した美味しさ。
 (3)情報がリードする美味しさ。
 (4)偶然に発見した食材による薬理的な美味しさ。

 「文化に合致した美味しさ」というのは、伝統や習慣に合致した食の安心、同一文化を共有する仲間たちと共有する幸福感だそうです。
 「情報がリードする美味しさ。」というのは、口コミやテレビ、新聞、雑誌の宣伝に、美味しいかの判断が左右されうる、という意味なのでしょう。

 お米に対する好みの違いもそうですが、単純な生理的な要求だけで、美味しいか不味いかを、断じて決められません。

風だけが揺れ動く2011-09-13 10:00:04

絕對不要害怕剎那
時間靜止不動
微微的風卻仍饒舌
傾訴著蕩漾的詩意


ニューヨーク在住の写真家Jamie Beckさんのブログ「From Me To You」に、切り取られた時間のなかで風だけが揺れ動くような、素敵な作品がたくさんあります。

NYC Photographer Jamie Beck

NYC Photographer Jamie Beck

NYC Photographer Jamie Beck

NYC Photographer Jamie Beck

NYC Photographer Jamie Beck

戦車のスクラップ2011-09-15 05:54:10

 半藤一利の随筆で読みましたが、東京タワーの特別展望台より上の部分は、戦車のスクラップで建造されたそうです。

 いや、そのままというわけではないでしょうが、朝鮮戦争の終結で米軍の戦車がいっぱい余り、払い下げというので、日本の業者が三百輌も買い取り、スクラップが製鉄会社に引渡したそうです。そのスクラップを溶かして作った鉄骨が、東京タワーの建設に使われたそうです。

 * * * * *

 豊葦原瑞穂の国に生まれきて
  米がないとは不思議なはなし

 大正七年の米騒動の際に詠まれた歌ですが、太平洋戦争の頃、耐え難い飢餓を我慢しながら、改めて歌われたそうです。

 「奢侈品等製造販売制限規則」の断固実施が内閣で決定されたのは、昭和15年の7月、世に言う「7・7禁令」です。あれもダメ、これもダメ、欲しがりません、勝つまでは、なのであります。

 「ぜいたくは敵だ!」の看板1500本が、東京中心部の街頭に立てられたのがその年の8月1日、官庁・会社・百貨店などの食堂から米食は全面的に廃止されました。
 永井荷風の日記「断腸亭日乗」のその日の記載が、おもしろいです。「今日の東京に果たして奢侈贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり」

 贅沢は敵だ!と言いながら、東京を歩き見回したところ、敵らしい敵はどこにも見当たらなかった、という笑えるような、笑えないような話です。

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 戦車は、いまのお金にすれば1台で数億円はするそうですが、それでも奢侈品には入らなかったのでしょうかね。

雨降って今日一日を生きのびる2011-09-20 09:10:13

 「すでに不合理を知る少年の手記に日本の宿命があり」 (福岡千代吉)

 「巣鴨」という歌集(第二書房、昭和28年刊)に収録された歌です。

 巣鴨は、お年寄りたちの原宿と称される前にある巣鴨戦犯刑務所を指し、戦争犯罪人とされる人たちの歌です。首記の歌、「やまびこ学校」という中学生の文集を読んだ感想です。
 不合理だと知りながら、「咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょう 国のため」とやらを、声揃えてなぞったかも知れません。

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 「川柳マガジン」2004年8月号に「特攻隊員が遺した川柳」なる記事が掲載されました。
 昭和20年3月30日第一国分基地に進出した神風特別攻撃隊、及川、遠山、福知、伊熊の若き隊員4名が、百句にのぼる川柳を残したそうです。

 「能書は、遺書に代筆よくはやり」
 「生きるのは良いものと気づく三日前」
 「雨降って今日一日を生きのびる」
 「未だ生きているかと友が訪ねる」
 「痛かろう、いや痛くないとの議論なり」

 特攻出撃は三日前に通達され、雨なら延期になるように読めます。
 4月6日、菊水第一号作戦が行われ、神風特攻215機が出撃しました。以下、出撃指令から漏れ、ひとまず生き残った福知、伊熊二氏の合作です。

 「特攻隊員神よ神よとおだてられ」
 「神様の大飯くひにただあきれ」
 「慌て者小便したいままで征き」
 「万歳がこの世の声の出しおさめ」
 「父母恋し彼女恋しと雲に告げ」
 「あの野郎、いきやがったと目に涙」
 「従兵は夜ごと寝床の数を聞き」

 この日、わが艦隊に沈むものはなし、と米海軍省の発表があった4月11日、特攻隊は39機出撃されました。こうして、残るふたりも沖縄海域に散りました。
 不合理だと知りながら、です。

金々先生のニセ中国語2011-09-30 00:17:17

 恋川春町に、「金々先生栄花夢」という黄表紙が残っています。(http://www.geocities.jp/ezoushijp/kinkinsenseieiganoyume.html

 「邯鄲一夢」の話の翻案だそうですが、下の巻に、茶屋の女が「唐言(からこと)」を使う場面が出てきます。

  茶屋の女 「ゲコンカシコロウサヨンケガ、キコナカサカイコト」
  おまづ 「イキマカニイケクコカクラ、マコチケナコトイキツケテクコンケナ」


 上のページの注釈には、「明和・安永の頃、江戸深川遊里で流行した言語の遊戯。」とあります。その前の宝暦年間から流行っていたとする記述も目にしますが、要するに、日本語の間にカキクケコの音を挟んで中国語風に聞こえる、と言う遊びです。

 上の対話も、はさみ言葉を抜けば、以下のようになります。
 「源四郎さんが、来なさいと」
 「いまに行くから、待ちなと言ってくんな」

 江戸の人には、南方系の中国語の k音が特に耳に残り、このように聞こえたのでしょうか?


 元禄期の歌謡集「松の葉」には、「唐人歌」と題する次のような歌が収録されています。
 「かんふらんはるたいてんよ、長崎さくらんじや、ばちりこていみんよ
  でんれきえきいきい、はんはうろうふすをれえんらんす」

 中国語の音を書き取ったものだそうですが、元は何かを僕は推測すらできません。いずれにしても、日本人は単純に音の面白さで遊んでいたのでしょう。
 そのうち、本当の中国語を離れ、フェイクな中国語としての「唐言」が遊郭の洒落として遊ばれ、時には他人に知られたくないことを話す暗号としても使われたらしいです。

 「金々先生栄花夢」だけではありません。
 朋誠堂喜三二の黄表紙「見徳一炊夢」にも、主人公の清太郎の書を見て、書道の師匠である唐人が「ブクキキヨコオコナカテケダカ」と評しました。
 通訳は、「御器用な御手跡じゃと、先生がおほめなされます」と、清太郎に伝えました。
 とんでもないです。「唐言」をマスターした粋な読者なら、これは「不器用な手だ」、と正しく翻訳できるはずです。