ジョルジュ・サルマナザールのニセ台湾語2011-10-04 05:55:11

 随筆に書かれた話はすべて実際にあったことなのかと聞かれて、事実のほうがあまりに不思議すぎて、そのまま書くと読者に信じてもらえないので、時々潤色を施していると、直木賞作家の出久根達郎がどこかでそのような話を言っています。

 フィクションの文学作品なら読む人にもその心構えができているだろうし、作者との間には暗黙な了解が成り立ちます。しかし歴史書やドキュメンタリーを名乗ったら、話は違ってきます。偽書だと判明される途端、作者はペテン師に成り下がり、人々から軽蔑、唾棄されたり、学術界から追放されたりします。
 それでも、宗教的な理由から、経済的な理由から、ただの冗談からと、成り立ちはいろいろありましょうが、人類の歴史上には捏造された事実によって構成されている書物が、夥しいほどたくさん存在します。

 いつかここで取り上げた「リノグラデンティア(鼻行類)」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/11/07/1896673)も、その力作のひとつですが、手元の「世界の奇書 総解説」(自由国民社)によれば、偽書のうち、最も奇怪なのは、ジョルジュ・サルマナザール(George Psalmanazar)の「台湾誌」だそうです。


 1704年、ロンドンで出版された「台湾誌」、正式なタイトルは「台湾の歴史地理的記述」と称する書物ですが、出版とともにヨーロッパの読書界で大いに歓迎され、広く読まれたそうです。

 いま読み終えたばかりの「江戸の真実」(宝島社)でもちょっとだけ取り上げていますが、作者のサルマナザールは自称台湾人だそうです。白人の台湾人がいても不思議に思われないぐらい、台湾のことを知らない当時のヨーロッパ人のために、彼は卓抜な想像力をもって、デタラメな台湾誌を書いたわけです。

 「台湾人の服装がたいへん奇異な感じを抱かせるものであることは確かだが、西欧人のように流行の影響を受けることはない。(中略) 日本人と台湾人の大きな差異は、日本人が二ないし三枚の上着を着て帯で結ぶのに対し、台湾人は上着を一枚のみで帯を用いない点である。彼らは胸をはだけて歩くが、陰部は金か銀かでできた皿状のもので隠し、それを腰の回りに結んでいるのである。」(17章 階級に基づく台湾の衣装について)

 「台湾で用いられる言語は、日本のそれとは同じだが、いくつかの文字で、台湾は喉音を使うのに、日本人は使わない例がある。また日本人は台湾人と異なり、補助動詞を、抑揚をつけずに発音する。したがって台湾人の現在形はまったく抑揚をつけず、過去形は声を上げて、未来形は声を下げて発音することになる。(中略) 彼らはその言語において二十文字しか使用しない。また文字は右から左へと読まれていく。その文字と形は表のとおりである。」(27章 台湾語について)

 そうなんです。すごいことに、ジョルジュ・サルマナザール氏は独自のアルファベットを使った台湾文字と、緻密?な台湾語文法体系を創作し、聖書をその「台湾語」に翻訳してみせたのであります。

深海イカの「同志」2011-10-13 07:51:41

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 深海に生息するイカの仲間は、奇妙な形をしているだけではなく、われわれの知らない生態を持っているようです。

 この「Octopoteuthis deletron」もそうです。
 (http://io9.com/5842180/scientists-discover-bisexual-squid-of-the-deep

 「A shot in the dark: same-sex sexual behavior in a deep-sea squid」というタイトルを目にしましたが、子孫を残すことが目的である生殖に、同性愛の文化が芽生えることがありえますか?

 そうではないです。
 彼らは通常、単独で行動し、海のなかでは互いが出会うことはまれです。まして深い海のなか、光は届きません。ある種の匂いで同種の接近を認知できますが、性別まで判別はつかない、と言われています。
 メスかどうかを区別する暇もなく、とにかく出会ったその一瞬に精子を放出して運にかけるようです。

間違いではないかも知れませんが2011-10-21 23:56:53

 記録的な円高という逆境を「サカ手」に取って、攻めの経営に転じよう、とテレビから聞こえましたが、この「逆手」は、「サカ手」よりも「ギャク手」と読んだほうがしっくりくる感じがします。
 「サカ手」は、刃物の柄を小指が刃の方になるように握ることで、「ギャク手」は、相手の腕の関節を逆に曲げる柔道などの技です。相手の攻撃を利用して逆にやり返すイメージが湧くのは、後者のほうかと思います。

 「辟易とする」、「辟易な話題」、という使い方を時々聞きますが、これもどうもいまひとつ耳に馴染みません。「辟易する」なら別に違和感はないですが。
 いずれにしても古風で意味が晦渋なくせに、意外によく使われる言い方になっています。

どくとるマンボウの台湾昆虫記2011-10-27 17:25:07

 朝のニュースを見て、北杜夫さんが24日に亡くなったのを、遅ればせながら知りました。

 たまたま今日は読売新聞を手にしましたが、「編集手記」にもこの訃報が取り上げられました。
 「恋人よ
  この世に物理学とかいふものがあることは
  海のやうにも空のやうにも悲しいことだ......」
 物理の答案用紙に詩を書いたのは斎藤宗吉、旧制松本高校に在学していた頃の北杜夫さんです。

 大正から昭和初期を代表する歌人・斎藤茂吉を父に持つ北杜夫さんは、精神科医であり、著名な小説家、エッセイ作家であるだけでなく、卓球でインターハイに出場したり、カラコルム・ディラン峰遠征隊に医師として参加する登山家でもあります。
 しかし、NHKの今朝のニュースでとりわけ取り上げたのは、氏の昆虫趣味です。絶滅危惧種に指定されている珍しい蝶類の標本や、高齢になっても執着心を持ち続けているコガネムシ類の標本などが、テレビの映像で流れました。


 実際、北杜夫さんの作品のなか、昆虫をテーマにしたものがいくつもあります。奥本大三郎によれば、最初のものは松本高校の校友会雑誌「山脈」に掲載された「六脚虫の世界」、その次は同人誌「文芸首都」の「百蛾譜」です。

 「谿間にて」という中篇があります。
 「私」が出会った蝶の採取人は、台湾中部の嘉義から集集線を終点まで乗り、そこからは苦力(クーリー)が押すトロッコで埔里に行き、さらに合わせて八里もの畦道、山道を歩き、目的地の卓杜大山まで行くことになっています。
 「凄まじいまでの暑熱。頭上から焼きつくすばかりの光がそそぎ、赤土の地面からひっきりなし陽炎がたちのぼる。」という旅です。

 この話を理解するためには、戦前もしくは戦中の昆虫採集熱と、虫屋たちが持つ、台湾に対する憧れを知らなければなりません。中部の埔里あたりは蝶類の一大産地であるのは、前にも書きました。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/04/08/5003769
 蝶の宝庫だけではなく、ほかの昆虫も、日本の内地にはない大型で珍奇な種類が生息していました。


 北杜夫少年も、憧れに胸を焦がしたひとりだったようです。
 少年時代に台湾へ行くことができなかったそうです。「谿間にて」を書いたのは戦後間がない頃、台湾に行くことなど、やはり普通は思いもよらなかった時代です。

 したがって、氏は様々な資料を参考に、空想をまぜながら筆を取ったのではないかと思われます。
 昆虫図譜を眺め、亜熱帯の渓谷や密林に思いを馳せた少年時代のことや、せっかく集めたたくさんの標本が空襲によって燃やされてしまったことを、頭に思い浮かべながら書いていた、かも知れません。