どくとるマンボウの台湾昆虫記2011-10-27 17:25:07

 朝のニュースを見て、北杜夫さんが24日に亡くなったのを、遅ればせながら知りました。

 たまたま今日は読売新聞を手にしましたが、「編集手記」にもこの訃報が取り上げられました。
 「恋人よ
  この世に物理学とかいふものがあることは
  海のやうにも空のやうにも悲しいことだ......」
 物理の答案用紙に詩を書いたのは斎藤宗吉、旧制松本高校に在学していた頃の北杜夫さんです。

 大正から昭和初期を代表する歌人・斎藤茂吉を父に持つ北杜夫さんは、精神科医であり、著名な小説家、エッセイ作家であるだけでなく、卓球でインターハイに出場したり、カラコルム・ディラン峰遠征隊に医師として参加する登山家でもあります。
 しかし、NHKの今朝のニュースでとりわけ取り上げたのは、氏の昆虫趣味です。絶滅危惧種に指定されている珍しい蝶類の標本や、高齢になっても執着心を持ち続けているコガネムシ類の標本などが、テレビの映像で流れました。


 実際、北杜夫さんの作品のなか、昆虫をテーマにしたものがいくつもあります。奥本大三郎によれば、最初のものは松本高校の校友会雑誌「山脈」に掲載された「六脚虫の世界」、その次は同人誌「文芸首都」の「百蛾譜」です。

 「谿間にて」という中篇があります。
 「私」が出会った蝶の採取人は、台湾中部の嘉義から集集線を終点まで乗り、そこからは苦力(クーリー)が押すトロッコで埔里に行き、さらに合わせて八里もの畦道、山道を歩き、目的地の卓杜大山まで行くことになっています。
 「凄まじいまでの暑熱。頭上から焼きつくすばかりの光がそそぎ、赤土の地面からひっきりなし陽炎がたちのぼる。」という旅です。

 この話を理解するためには、戦前もしくは戦中の昆虫採集熱と、虫屋たちが持つ、台湾に対する憧れを知らなければなりません。中部の埔里あたりは蝶類の一大産地であるのは、前にも書きました。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2010/04/08/5003769
 蝶の宝庫だけではなく、ほかの昆虫も、日本の内地にはない大型で珍奇な種類が生息していました。


 北杜夫少年も、憧れに胸を焦がしたひとりだったようです。
 少年時代に台湾へ行くことができなかったそうです。「谿間にて」を書いたのは戦後間がない頃、台湾に行くことなど、やはり普通は思いもよらなかった時代です。

 したがって、氏は様々な資料を参考に、空想をまぜながら筆を取ったのではないかと思われます。
 昆虫図譜を眺め、亜熱帯の渓谷や密林に思いを馳せた少年時代のことや、せっかく集めたたくさんの標本が空襲によって燃やされてしまったことを、頭に思い浮かべながら書いていた、かも知れません。