青は藍より出でて2011-08-09 18:18:13

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 昔の記事(http://tbbird.asablo.jp/blog/2009/02/18/4127218)に、アンケートの結果を元に作成された絵画の話を転載したことがありますが、実はそのアンケート(http://www.diacenter.org/km/surveyresults.html)に、ちょっと気になる箇所がありました。

 一番上の、最も好む色は?という設問に対し、各国ともほとんど「ブルー」が一位に選ばれましたが、ロシアだけは「ライトブルー」がトップで、「ダークブルー」が7%の票を得て、6位にランクインされています。

 調べたみたら、どうやらロシア語には「青」を表す単語が2つあるそうです。
 ひとつは「синий(シーニー)」と言って、英語に訳すときはblueもしくはdark blue、もうひとつは「голубой(ガルボイ)」と言って、英語に訳すときはlight blue、sky blue、もしくはやはりblueになります。
 好きな色アンケートで一位に選ばれたのが後者であるわけです。


 虹の七色を、日本語では通常、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫だと言いますが、英語だとRed、Orange、Yellow、Green、Blue、Indigo、Violetです。
 僕が台湾の小学校で学んだのは、紅、橙、黄、綠、藍、靛、紫でしたが、中国からの友人と話をしたら、紅、橙、黄、綠、青、藍、紫の七色だろう、と言われました。

 赤から黄色までは問題ないですが、青系の2色は何かに違いが出ているようです。
 日本で好きな色を聞かれて、藍色だと答える人はかなり少ないだろうし、英語のIndigoも、Blueなどに較べるとかなりマイナーな色です。中国語の靛色にいたっては、虹以外での用例はほとんど聞かないぐらいです。

 ロシアの場合は、なんの問題もなく、虹に含まれる青系の2色は、シーニーとガルボイの2つになっています。
 どちらも同じぐらいポピュラーで、よく使われる言葉です。
 日本語で「青」だと言われると、ロシア語通訳は一瞬のうち、どの青に訳すべきかを悩まなければならないらしいです。


 ここに1つ、とても興味深い実験結果があります(http://www.newscientist.com/article/dn11759)。
 転載してきた上の図のように、実験の参加者たちは、3つの正方形が映し出さるスクリーンを見せられ、下方にある2つの正方形のうちから、上にある正方形と同じ色のものを、できる限り素早く選ばなければならないです。

 結果は、英語圏の人たちは、全部で20ある色調のなかから、どの2色が選ばれても成績に差が出なかったのに対して、ロシア語を話す人たちは、ライトブルー系とダークブルー系が1つずつ現れたときのほうが、判別に要する時間が10%短い、という結果が出たそうです。
 つまり、推測はこうです。
 どっちもブルーだと、人は上下の色調を比較しながら選ぶしかないんですが、上の正方形はシーニーで、下の2つの正方形はシーニーとカルボイで別れたら、そのどれがシーニーであるかを選ぶだけでよく、反応時間は、より短くて済むのでした。

 人間は、自ら使う言語を通して世界を見ているという話がありますが、その実例のひとつだと思い、僕にはとてもおもしろいです。


 古い言語の多くは(なぜか特に赤道付近の言語がそうであるようですが)、青と緑の区別さえしないそうです。
 ガガーリン大佐の母国語はもしそのような言葉だったら、地球は緑だった、となっているかも知れません。

紀元2600年のタイムカプセル2011-08-12 09:58:12

 独身時代に住んでいた会社の寮の近くに、かつて紀元二千六百年記念全国馬耕大会が行われたそうです。

 馬耕というのは、馬を使って田畑をすき、耕すことであり、田をいかにきれいに、速くすくかを競うのが馬耕競技会です。競技会は、大正の終わりから戦時中まで盛んに行なわれていて、銃後の守り手として奨励されたためか、女性の参加者も多かったようです。

 紀元二千六百年だと言っても、もちろん西暦ではなく、いわゆる皇紀です。1940年(昭和15年)は、神武天皇即位から2600年目に当たるとされ、多種多様な記念事業が実施されました。
 全国馬耕大会もそのひとつです。僕がよく散歩で通る場所は、その頃は耕地であり、当日は楽隊の演奏のなか、酒井忠正伯爵、石黒忠篤農相などと一緒に、あの「ラストエンペラー」満州国皇帝溥儀も来場、臨席されていたそうです。


 紀元二千六百年の記念行事は日本全国でいろいろ行われました。美術展覧会、武道の天覧試合、観兵式、観艦式など、物資が厳しい情勢のなかでは精一杯、祝賀ムードを盛り上げたそうです。

 なかでも個人的に興味深いのは、日本一の乾燥地とされる長野県蓼科高原で作った「紀元二千六百年文化柱」です。
 1993年4月1日の「新聞之新聞」によれば、新聞之新聞社の創始者で当時の社長である式正次が、ハーバード大学百年祭での「文書百年保存後開封と封緘」の模様からヒントを得て、当時の文化物を百年後の子孫に送ろうと建設を思い立ったものです。
 よく学校では卒業のときなどにやる「タイムカプセル」の、いくらか規模の大きいものだと思ってよいかも知れません。白いドーム状の建物のなかは8畳ばかりの一室、当時の新聞、代表的な書籍、著名人の写真、絵画、ポスター、日用品などが収納されているようです。

 エイプリルフール・デーの新聞ですが、ウソではないようです。文化柱はいまも存在しています。
 戦時中は白い外観が目立つからと泥を塗られ、戦後は皇国史観の遺物だとGHQに告発され、そして蓼科が観光客で賑わうようになると、今度は心ないイタズラに悩まされたようです。
 それでも激動の時代を経て、なんとか無事に残っています。2040年の開扉は、楽しみです。

もうひとりの自分を贈る2011-08-15 21:13:58

 以下のホームページの写真を見てください。
 <http://www.anomalies-unlimited.com/Death/Masakichi.html>

 「Which is the real Masakichi?」というタイトルですが、日本のテレビにも登場したことがあるので、記憶している方もいるかと思います。正解を明かせば、右側がこの政吉という人の写真で、左側にあるのは本人と瓜二つに製作された活人形マサキチの写真だそうです。


 この人形は、「Believe It or Not!」で知られるロバート・ルロイ・リプレー(Robert LeRoy Ripley)の、膨大なコレクションのなかのひとつです。
 旅が大好きで、現地で見つけた珍奇なものを大量に集めていたリプレー氏は、世界を18周ぐらいまわり、198カ国を踏破したそうですが、関東大震災が発生した直後の1925年に日本を訪れ、そのときアメリカに持ち帰った土産の1つが、このマサキチでした。

 前記のページを見ると、この活人形は1885年(明治18年)に作られたもののようです。
 経緯ですが、荒俣弘の著作(「荒俣弘の20世紀世界ミステリー遺産」)の記述によれば、モデルの花沼政吉はある日、医者から不治の病だと診断されました。余命がいくばくもないと引導を渡されて悲しむ政吉は、自分を忘れないために、自身にそっくりな人形を作らせ、恋人に渡そうと考えました。
 それも普通の人形ではなく、松本喜三郎や安本亀八が作っているような精密な活人形です。しかも髪も、歯も、なんと全部自分のものを抜いて植え込んで拵えたとか、まさに奇怪な分身でした。

 死者の思い出として保存するため、あるいは肖像画を描くための資料として用いるため、死の直前か直後、石膏や蝋で死者の顔の型を取ったものをデスマスクだと言いますが、マサキチは、言ってみれば、その全身バージョンです。
 あまりのリアルさが不気味で、ドッペルゲンガーやオートスコピーとか、ドストエフスキーの「分身」あたりも思い出してしまいました。

 残念ながら、1996年のカリフォルニア大地震の際に大きな損傷を受けてしまいましたが、それまでこの人形は、例の「Believe It or Not!博物館」で長年展示されたそうです。


 実は、不治の病を宣告された政吉さんは、人形ができた後も病状が悪化するなく、快癒してしまいました。
 恐らくは、医師の誤診だったのでしょう。
 ということで、分身の人形と合わせて、ふたりのマサキチが世に存在することになりました。なにしろ本物の歯を持っているのは人形のほうで、生きているほうの花沼政吉よりも本物ぽいかも知れません。

 「分身」(ドストエフスキー)のなかのゴリャートキンは、瓜二つの分身から逃れようと、上司の令嬢と駆け落ちをするために彼女の家の中庭に潜んだが、すぐに見つかり、精神病院送りになってしまいました。
 「捜神後記」のなか、宋の時代に、自分の分身を見てしまった男が出てきますが、やはり後に病気になり、頭が狂ってしまったそうです。
 こういう特異な経験をしてしまった者は、無事に一生を終えるのはなかなか難しいようです。

 まあ、本人は無事でも、このかなり奇怪で若干気味の悪いプレゼントを貰って、恋人のほうは喜ぶのでしょうか?

【メモ】ロンシャン競馬場の落成2011-08-17 22:03:03

 「19世紀フランス 光と闇の空間 ~挿絵入り新聞『イリュストラシオン』にたどる」(小倉孝誠、人文書院)を、いま読んでいます。

 ブローニュの森に、1900メートルと2800メートルの2つのコース、パドック、五千人を収容できる観覧席、ビュッフェ等が整備されたロンシャン競馬場が落成したのは1857年4月26日です。パリの都市改造などに尽力したことによりその名を歴史に残したジョルジュ・オスマンは、その日のことを、「私の知事在職中もっとも幸せだった一日」だと、その「回想録」に記しました。

 1857年5月の「イリュストラシオン」も、2ページにわたる大きな図版を掲載し、競馬場の完成を報告しました:
 「城壁内で古い界隈が取り壊され、大規模な公共事業と美化作業が行われ、パリは世界でも無比の首都になったが、この現代のバビロンには何かが欠けていた。競馬場が欠けていたのだ。......」
 「今やパリは、この点でもっとも恵まれているイギリスの町と比べても何ら遜色ない。魔法のように広大で幻想的な公園に変貌したあの森の向こう側、城壁跡からほど遠くないところに、大きな競馬場ができたのである。それは有名ニューマーケットやエプソムにも匹敵しうるほどだ。」
 ニューマーケットやエプソムの名前を挙げるほど、競馬の先進国イギリスをライバル視しているようです。


 パリ郊外にはすでに1833年にシャンティー競馬場が作られていましたが、市街から60キロも離れているため、フランスの馬種改良促進協会はずっと市中心部に近い土地を物色していました。
 ジョルジュ・オスマン知事の大工事により、広い空き地となったロンシャン修道院の跡地が、まさにそのぴったりの空間となったわけです。

 ちなみに、障害レース用のオートイユ競馬場が森の東側にできたのは、さらに15年後です。
 (http://tbbird.asablo.jp/blog/2008/02/18/2637841

平安京の雨、江戸の風呂2011-08-22 16:12:09

 8月の前半は、雨もほとんど降らず、灼けるような暑さでした。それが一転してここ数日、扇風機も要らないほどに涼しくなり、実に過ごしやすいです。なかなか止まない雨だけは不便ですが、そこまでの贅沢は言えないでしょう。

 これは本で読んだ話ですが、白河法皇が「国是一切経」を金泥で写させたものが完成したとき、法勝寺で供養することになりました。ところが雨が続き、法皇臨幸されるはずの式典が再三延期になり、今度こそはの四度目もまた雨に降られると、法皇が大いに怒り、雨水を器に収め、牢屋に入れたそうです。
 禁固刑よりも、ムチ打ちの刑に処したらどうかと思いましたが、いや、これは荻野由之という明治の史学者が、平安貴族がいかに雨を畏れていたかを論じた随筆です。鎌倉の武家が雨のなかでも平気なのを見て、公卿日記のなかでいかにも不思議そうに書き留めたそうです。


 さて、涼しさのおかげで供電事情は当分余裕があるそうですが、省電力のための輪番休日は、だからと言って急に変えられません。
 雨が降りそうでなかなか降らない鉛色の空を見ながら、なんだかバッティングセンターへ行くのも面倒くさくなり、だらだらとしながら、「近代デスタルライブラリー」で式亭三馬の「浮世風呂」を適当に読んでいます。
 <http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877812>

 「そうさ、花を活けるとか、琴を弾くとかは、世帯持ちにはできないよ。炊事洗濯の家事や、近所付き合いをして、無駄な出費がないように節約したり、主婦はやることがたくさん。それで文句を言われたら、とてもやってられませんね。」

 「千代紙だの色紙だの切り刻んでは散らかし、おもちゃ絵を買い込んでは、箱いっぱいにためこんで、私はびっくりしましたよ。三番目の子は、絵入り小説が好きで新刊が出るたびに買い込み、これがツヅラいっぱい。ヤレ誰の絵がすてきだの、ヤレ誰の方がうまいのと、画工の名まで覚えて、それはそれは今の子供たちは達者でございますよ」
 「そうですねぇ。私どもの幼少な時分は、ネズミの嫁入りや昔話の絵本が楽しみでしたが。」

 意訳ですが、江戸の時代の主婦の愚痴や会話は、こうして見ても、意外に古くさく感じません。
 「いまの子供たちは」とか、「私どもの幼少な時は」とか、世間のお母さん方もよく口にするセリフではありませんか?

ヒトは戦争をなくせますか?2011-08-23 00:12:34

 コンラード・ロレンツは近代動物行動学を確立した偉大な動物学者ですが、動物には攻撃本能がある、という「攻撃本能説」も発表しています。
 デスモンド・モリスなど、戦争を含めた人間同士の紛争を、動物の攻撃本能説に原因があると説明し、生物学的宿命のせいだとする学者がかなりいます。
 しかし、動物に攻撃本能があるとしても決して同種を襲わない、ゆえに人間も本能で人を殺すような戦争をやるのではない、オランダの類人猿研究者のコートランド博士などは反論しました。

 前にも書きましたが、スカンジナビア半島の峡谷に生息するレミングというネズミは、その地域の食べ物である草が少なくなると、研究者たちの予想に反し、残り少ない食糧を争うのではなく、群になって集団自殺した(海に飛び込んだ)そうです。
 レミングたちは、テリトリーのなかで個体数が多すぎると、DNAの働きで集団自殺しますが、ならば人間に、村落という狭い共同体における掟として、姥捨てのような棄老伝説が発生したとしても、不思議ではありません。


 「ヒトはなぜ戦争をするのか」、こちらはwhyさんによる、示唆に富んだブログ文です。
 (http://blogs.yahoo.co.jp/bao_bao_cj/60724568.html

 動物たちは、食糧を確保するために、餌場の縄張りを守るために、また、繁殖のためにも闘わなければなりません。しかし、その競争相手を直接殺して、死に至らせることは極めてまれだと思います。
 特に同じ集団に属する他のメンバーとは、概ね共存共栄を模索する行動を取っています。
 動物は同種を襲わない、というよりは、自身が帰属している集団、グループの仲間を襲わない、だと解釈したほうが正確かも知れません。


 同種のなかで、戦争のような大規模な戦いをやるのは人間だけです。
 数多い動物のなか、人間だけは大きく異なる存在だと考えるべきかも知れませんが、そうではないと考えることもできそうです。
 なにしろ、自然界の動物では、アフリカに生息している群れとアメリカに生息している群れとが相まみえることはないです。しかし人間はより大きな集団を作り、より広い活動範囲を拓き、より遠い場所にいるほかの人たちと出会っています。

 違う生活スタイルをして、違う文化を築き、違う集団への帰属意識を持っている人たちの間には、当然ながら考え方の相違があり、そこに主義主張の衝突が発生します。
 活動範囲が狭かった古代では、小さな部落間で紛争が生じました。戦いながらも相手の価値感をなんとか理解し、ゆっくりながら認め合い、人たちはより大きな集団である民族や国家を作りました。
 一方で、人類は活動範囲を広げたため、この大集団である国、民族同士が相まみえ、様々な原因で衝突し、時には大規模な戦争が生じたりしました。

 今日では、行こうと思えば、地球上のほとんどのところに人間は行けるようになりました。
 もうはや、我々にとって地球は広すぎる存在ではなくなっています。もうはや、我々にとって遠い他人は存在しなくなりました。
 相互理解を深め、全人類はひとつの集団でいられることに、そろそろ気付いても良い時代が来たような気がします。

 全人類が、お互いが仲間だとわかれば、あの忌まわしい戦争というものも、いつかは無くせる、今日はそう信じてみたいです。