昭和最後の名勝負(1) ― 2007-08-14 23:52:24
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今夜は久々に古いビデオを見ました。
携帯で撮った写真から読みとれるかどうかですが、「タマモクロス・オグリキャップ・サッカーボーイ 昭和最後の名勝負」というタイトルです。
僕が購入した最初の競馬関係のビデオであり、内容もまさに僕が競馬を見るようになった最初の年、昭和63年(1988年)の競馬を彩る3頭の名馬にスポットライトをあてたものです。
3頭のうち、まず頭角を現したのはサッカーボーイです。
3歳時(いまの数え方でいえば2歳時)に4戦3勝し、しかもGI阪神3歳ステークスのレコード勝ちを含めて、勝った3戦は、2着馬に9馬身、10馬身、8馬身をつけての圧勝ばかりで、ビデオ中に実況の杉本アナが思わず口走ったように、あのテンポイントを連想させ、テンポイントの再来だと期待されていました。
競馬界の勢力地図は平成になってから概ね西高東低の状態が続きますが、昭和の後期はと言えば、関西馬はずっと関東馬に押されていた時代で、いまと比べれば東西対抗の意識もまだ強く、あのテンポイントのように美浦所属馬に一矢を報う、という期待が大きかったと思います。
社台牧場がダイナの冠号をやめた一期生だったように記憶していますが、
あとから考えると、いきなり印象的な名前を持つスターホースが現れたものです。
但しそのサッカーボーイにしても、競走生活は順風満帆なものではありませんでした。
春のクラシックでは体調や足元に不安があったり、皐月賞は回避し、なんとか出走したダービーも惨敗でした。
ようやく狂っていた調子を取り戻したのは、中日スポーツ4歳ステークスで皐月賞馬ヤエノムテキを撃破し、函館記念で前年のダービー馬メリーナイスに5馬身差をつけてレコード勝ちした頃でしょうか。
サッカーボーイの世代は、あとから見るとタレントが豊富でレベルの高いジェネレーションになりますが、世代の強い馬たちがクラシックレースでいい勝負を演じたわけではありません。
そもそもシーズンを通じて満足な状態で走れた馬さえあまりいません。強いて言えば、後年に秋の天皇賞ももぎ取ったヤエノムテキぐらいなものです。
サクラチヨノオーはダービーの栄冠が最後の勝ち鞍になったし、強行軍でダービー2着まで辿り付いたメジロアルダンも、ダービー後の故障から復活するまで1年間かかりました。
後に歴史的名馬にまで成長したスーパークリークは晩成型で、ぎりぎり間に合った菊花賞で大輪を咲かせましたが、春の時点では無名馬でした。
なにより笠松公営競馬から転入して、無敵な快進撃を続けていたオグリキャップは、クラシック登録がなく(当時はまだ追加登録制度もなく)、裏街道を走らざるを得なかったんです。
後に競馬史上にほとんど類を見ない大人気を得るまでに至ったオグリキャップは、地方12戦10勝(8連勝中)の成績をひさげて、中央入りした最初のレースは、サッカーボーイとサクラチヨノオーとが初めて対戦した弥生賞の裏番組、いまはなきGIII、ペガサスステークスでした。
外から豪快に差し切り、2着のラガーブラックに3馬身差も離したとき、「噂に違わぬ強豪!」だと実況されましたが。
レース前では、ラガーブラックから離された2番人気。半信半疑、微妙な扱いだったようです。
今夜は久々に古いビデオを見ました。
携帯で撮った写真から読みとれるかどうかですが、「タマモクロス・オグリキャップ・サッカーボーイ 昭和最後の名勝負」というタイトルです。
僕が購入した最初の競馬関係のビデオであり、内容もまさに僕が競馬を見るようになった最初の年、昭和63年(1988年)の競馬を彩る3頭の名馬にスポットライトをあてたものです。
3頭のうち、まず頭角を現したのはサッカーボーイです。
3歳時(いまの数え方でいえば2歳時)に4戦3勝し、しかもGI阪神3歳ステークスのレコード勝ちを含めて、勝った3戦は、2着馬に9馬身、10馬身、8馬身をつけての圧勝ばかりで、ビデオ中に実況の杉本アナが思わず口走ったように、あのテンポイントを連想させ、テンポイントの再来だと期待されていました。
競馬界の勢力地図は平成になってから概ね西高東低の状態が続きますが、昭和の後期はと言えば、関西馬はずっと関東馬に押されていた時代で、いまと比べれば東西対抗の意識もまだ強く、あのテンポイントのように美浦所属馬に一矢を報う、という期待が大きかったと思います。
社台牧場がダイナの冠号をやめた一期生だったように記憶していますが、
あとから考えると、いきなり印象的な名前を持つスターホースが現れたものです。
但しそのサッカーボーイにしても、競走生活は順風満帆なものではありませんでした。
春のクラシックでは体調や足元に不安があったり、皐月賞は回避し、なんとか出走したダービーも惨敗でした。
ようやく狂っていた調子を取り戻したのは、中日スポーツ4歳ステークスで皐月賞馬ヤエノムテキを撃破し、函館記念で前年のダービー馬メリーナイスに5馬身差をつけてレコード勝ちした頃でしょうか。
サッカーボーイの世代は、あとから見るとタレントが豊富でレベルの高いジェネレーションになりますが、世代の強い馬たちがクラシックレースでいい勝負を演じたわけではありません。
そもそもシーズンを通じて満足な状態で走れた馬さえあまりいません。強いて言えば、後年に秋の天皇賞ももぎ取ったヤエノムテキぐらいなものです。
サクラチヨノオーはダービーの栄冠が最後の勝ち鞍になったし、強行軍でダービー2着まで辿り付いたメジロアルダンも、ダービー後の故障から復活するまで1年間かかりました。
後に歴史的名馬にまで成長したスーパークリークは晩成型で、ぎりぎり間に合った菊花賞で大輪を咲かせましたが、春の時点では無名馬でした。
なにより笠松公営競馬から転入して、無敵な快進撃を続けていたオグリキャップは、クラシック登録がなく(当時はまだ追加登録制度もなく)、裏街道を走らざるを得なかったんです。
後に競馬史上にほとんど類を見ない大人気を得るまでに至ったオグリキャップは、地方12戦10勝(8連勝中)の成績をひさげて、中央入りした最初のレースは、サッカーボーイとサクラチヨノオーとが初めて対戦した弥生賞の裏番組、いまはなきGIII、ペガサスステークスでした。
外から豪快に差し切り、2着のラガーブラックに3馬身差も離したとき、「噂に違わぬ強豪!」だと実況されましたが。
レース前では、ラガーブラックから離された2番人気。半信半疑、微妙な扱いだったようです。
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