西説伯楽必携2009-02-16 23:48:07

 先日、古代史の通訳についてのメモを載せた(http://tbbird.asablo.jp/blog/2009/02/11/4111983)ら、whyさんから、江戸時代の通事や通詞に関するコメントを頂きました。
 たまたまちょっと前に「西説伯楽必携」なる書物を調べていて、江戸時代の阿蘭陀通詞が登場してきましたので、併せて概要をメモしておきます。

・江戸時代の翻訳といえば、鎖国と同時に誕生し、開国と共に終焉を迎えた阿蘭陀通詞が重要な地位を占めていました。

・1729年、阿蘭陀通詞の今村源右衛門(今村英生)による「西説伯楽必携」というと分厚い翻訳書ができあがっていましたが、日本初の本格的な西洋書の翻訳だと見ている研究者が多いです。

・8代将軍吉宗は西洋馬の輸入に熱心で、その関係で馬術師のハンス・ユンゲル・ケイゼルが1725年に来日し、御前で乗馬や射撃を披露し、西洋式馬術、飼育法、馬の病の治療法を伝授しました。

・今村源右衛門は若い時に長崎の出島の医師ケンペルの助手となり、新井白石のシドッチ尋問に関わり、その後吉宗の時代に大通詞として重用された人物でした。「西説伯楽必携」は翻訳と、源右衛門が直接ケイゼルに聞いたことをまとめたものだそうです。


 蘭学の先鞭をつけたのが、西洋馬術、馬医関係の翻訳本だというのは意外ですが、たまたま必要に迫られていただけかも知れません。
 ちなみに、かの有名な「解体新書」より半世紀も古いです。(あまり関係ないですが、1852年には題名が一字違いの「解馬新書」という馬医書も、菊池東水より記されています。)

 さて、題名の「西説伯楽必携」のなかの「伯楽」ですが、元々「星経」には「伯楽、天星名、主典天馬」とあり、天にいる馬を司る星の名前だそうです。

 日本語には古くから伝わり、「博労」、「馬喰」(ばくろう)も「伯楽」から転じた言葉だそうです。
 古文書に「伯楽をはくらうとよみたるはよし、誤るにあらず」とあるにはありますが、いまに「名伯楽ですね」と言えば、馬を扱う人にとってこのうえにない賛辞になりますが、語感と当て字が悪いせいか、「最高の馬喰ですね」というとまず怒られそうです。

コメント

_ why ― 2009-02-18 21:30:25

本当に勉強になりました。目から鱗が落ちる思いです。
馬喰は伯楽から転じた言葉だとは、思いもよりませんでしたので、驚きました。

面白いですね。伯楽という出来合いの言葉がありながら、あえて馬喰をあてたのには、よほどその必要があったのでしょうね。

ついでにヤフー百科事典で、日本橋馬喰町を調べてみたら、「馬市(いち)が立ち、馬喰(博労(ばくろう))や馬薬師(うまくすし)(馬医)が多くいた所であったことが地名の由来。「寛永図(かんえいず)」に馬場、『江戸名所図会(ずえ)』に伯労(ばくろう)町、『武江(ぶこう)図説』および『武江年表』に馬喰町とあり、江戸の繁栄とともに町名も定着したもの」とありました。
伯楽⇒伯労⇒馬喰(博労)というふうに、変わってきたのでしょうか。

余談ですが、例の韓愈の名文、「世有伯楽、然後有千里馬。 千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祗辱於奴隷人之手、 駢死於槽櫪之間、不以千里称也」。うむ、うまいこと言いますね。

もっとついでに大辞林を調べたら、【馬博労・馬伯楽】という言葉がありました。馬の売買、周旋などをする人だそうです。
順繰りに見ていったら、【駅長】というのが出てきて、「うまやのおさ」と読むそうです。本来の読み方ですものね。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-19 22:20:57

whyさん、出勤前に急いで書いたコメントはいつにも増して誤字が多く、すみません、書き直します。
で、日本橋の馬喰町ですが、手元の「馬たちの33章」(早坂昇治)によると、奥州街道に面し浅草寺にもほど近いため、古くから馬市がよく立っていました。江戸時代に幕府の博労頭高木源兵が住み、名主が世襲するようになり、博労町と呼ばれるようになったそうです。(馬喰町になったのは正保年間、ともあります)
東京以外の馬喰町と言えば、青森県黒石市、三戸市、八戸市、秋田県大館市、石川件七尾市、名古屋市西区、京都市上京区などにあり、また倉敷市には白楽市と白楽町(ばくろまち)があり、横浜市神奈川区にも白楽町があるそうです。

韓愈の名文のほうは、先日sharonさんからのコメントに返信したときに書きましたが、高校時代の教科書に載っていました。なんだかとても懐かしいです。

最後、駅長の話ですが、前に取り上げた「信州 馬の歴史」などの本によれば、大宝律令(701年)のときには、すでに駅伝制が詳しく規定されました。各主要道路は(基本的に)約30里にひと駅が設けられ、大路の山陽道では各駅に馬20匹、中路の東山道、東海道は各駅に10匹、その他小路では5匹ずつの駅馬が配されました。 (官史の往来が少ない駅では、国司の裁量で減らすことができます)
その駅と官馬を管理する長官が、つまり駅長(うまやのおさ)ということですね。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-19 22:41:51

そういえば、whyさんのところで、鉄道の駅を「ステーション」と呼んでいた話がありましたね。

日本に鉄道ができた明治時代はまだ荷馬車の全盛期でした。「駅付近では風が吹くと"馬糞ほこり"が舞い立った」(「村の生活記録」中村寅一)にあるような、この時代の文章で出ている「駅」は、たぶんもっぱら馬や馬車用のそれであり、鉄道用なのは導入当時から(区別するために?)「ステーション」の名前を使っていたそうです。

_ why ― 2009-02-20 23:53:16

Fujimotoさん、ご丁寧にどうもありがとうございます。

馬喰町、東京だけかと思いきや、日本全国の東西南北にこんなにもありましたね。考えてみればそれもそのはずですね。馬市はなにも東京だけではなかったでしょうから、同じ地名が複数あるのも当然でしょうね。

そういえば、何年か前に、東京で一緒に仕事をした、九州から見えた方が何の躊躇いもなく「バクロウチョウ」と読み当てたのに驚いたことがありました。難しい地名なのに、地元の方でもないのに、どうして読めるんだろうと、失礼ながらも不思議に思っていたんです。なるほど日本人の方にとって、一般的な地名だったのですね。

韓愈の名文、先日のFujimotoさんのコメントを拝読して、はて、「而伯楽不常有」の先はなんだったっけなと思い出せなくて、調べたんです。メモ代わりにコメントに書き込みました。悪しからず。ちなみに私も高校で教わりましたので、懐かしい一文です。(台湾と大陸の教科書って、別に相談して作ったわけではないでしょうにね。)

_ why ― 2009-02-21 00:04:20

鉄道の駅を「ステーション」と呼ばれていた理由、ものすごく説得力がありますね。「茅塞頓開」って感じですよ。本当に、「聴君一席話、勝読十年書」ですね。はぁ~、参りました。

馬の駅が一般的だった時代だけに、区別するためにステーションと名づけたんですね。次第に駅が減り、ステーションが一般的になって、もはや区別する必要がなくなったため、ステーションが死語になって、駅が復活したわけなんですね。すごいわ!言葉って、こうしてちゃんと理屈にかなった変わり方をしているんですね。

おかげさまで、ひとつ疑問が解けましたので、今日は気持ちよく休めます。ご教示をどうもありがとうございました。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-22 00:35:20

whyさん、各地の馬喰町については早坂さんの著作からそのまま拝借してきただけです。
東北地方に多いのも、南部馬で知られている南部藩などが古くからの馬産地であることから、納得がいくものでした。
韓愈の千里馬は、たまたま同じ名文を思い出して喜んでいただけですが...それにしても、古文の分野に関しては大陸と台湾の教科書では同じようなものかも知れませんね。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-22 01:29:42

whyさん、勝読十年書うんぬん、なんて大げさな!(笑)
思いつきがたぶんに入っているので、そのつもりで多めに見てください (^^;)
19世紀末の馬車鉄道や人車鉄道に関する記述を適当にグーグルしてみたら、駅や停留所や停車場とあったりして、ステーションと呼ばれた痕跡は見当たりませんでした。
試しに、ウイキペディアの「大阪駅」を調べて見てみたら、「開業当初、大阪駅は『梅田駅』『梅田ステーション』『梅田すてんしょ』などと呼ばれていたが...」とあったので、ステーションは国鉄だけかも。それと、案外当初から混用されていたかも知れません?
#それにしても「すてんしょ」とはなんでしょうか (笑)

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