遣唐使時代の通訳2009-02-11 01:27:32

 「古代日本人と外国語」(湯沢質幸、勉誠出版)を読んでいて、「通事」や「訳語」と呼ばれていた遣唐使時代の通訳の話は、とても興味を惹くものでした。

 以下はメモ代わり:

・主たる通訳の地位や待遇ですが、「延喜式」の記述を参照すると、大使、副使、判官、録事に続き、船頭や医師と同格かちょっと上ぐらいです。

・遣唐使では訳語(中国語の通訳)以外、新羅、奄美等の訳語も同乗していて、寄港地や漂流地の言葉が話せる通訳も必要だったわけです。

・通訳の任命は「行き会ったりばったり」的で、通訳の養成に関する朝廷の命令が何回かあったが、どうもあまり計画的に継続していなかったようです。

・838年(承和5年)お入唐船団には少なくとも4人の通訳が同行していたうえ、唐の楚州に定住していた新羅人の劉慎言をも雇っていました。(劉慎言は通訳というより、広く遣唐使や在唐日本人の世話をして、金品手紙の受け渡しや保管もやっていた、日本の「中国現地事務所長」風でした。)

・中・日間だけでなく、日本が新羅や渤海国との間で使われていた外交用言語も中国語(唐語)だと推定されています。

コメント

_ 小白 ― 2009-02-11 10:11:19

遣唐使や、遡って遣隋使の時代の通訳ってとても興味があります。
中、日の最初の通訳ってどのように外国語を学んで習得したものを他の人(語学生)に伝授していったのとか。
とても不思議。

_ つぼみ ― 2009-02-11 10:36:12

福岡博物館(遣唐使コーナー)で見学したときに「当時の通訳は。。。」と聞かれたことがあります。これからまた同じような質問があるときはたぶんこの記事がぱっと頭、その後口から出てくるでしょう。有難う御座います。

_ why ― 2009-02-11 16:07:11

この本、恥ずかしいながら、知りませんでした。最近(いや、ここ数年)はまともに読書していないなと、Fujimotoさんの記事を拝見するたびに反省させられています。見習わなくては。
中国と日本、二つの国の文明が初めて遭遇した時、どのようにコミュニケーションをとったのか、本当に興味深いことですね。魏志倭人伝が書かれたくらいですから、相当高度な言葉のやり取りがされていたことは容易に想像がつきますが、それができるようになったまでの経緯を知りたいものですね。

以前沖縄首里城を訪れた時、中山王時代の展示がありましたが、通訳についての記述があったような記憶があります。立地からして、さまざまな異文化との交流が盛んだったのでしょうね。
江戸時代も通事や通詞が置かれていたそうですが、どこかで地位がそれほど高くなかったようなことを読んだ気がしますが、記憶が定かではありません。

_ frenchtoast ― 2009-02-11 22:14:13

中国西安にある青龍寺に行った際、青龍寺のガイドさんに「空海が中国に来た当時、言葉の壁はどのように克服したのか」と質問したところ、「当時は日本も漢語を使っていたから通訳は必要ではなかった。空海が帰国語に平仮名を発明してから今の日本語が出来た。」という答えが返ってきました。そのときは「ホンマに?」と思いながらも深く考えず、そのまま忘れていました。この記事を読んでそのことを思い出しました。思い出深い旅先での出来事、今さらそのガイドさんを責める気持ちは全くありませんが、流石にその当時日本すべてが漢語だったと言い切るのは少々乱暴な気がしますね。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-12 23:54:21

小白さん、日本列島で最初に通訳が現れたのがいつかは、さすがにもうわからないのでしょうね。

ただ、まず大きく役割を果たしたのが渡来人なのではないでしょうか?徐福の伝説は真偽が不明だとしても、大陸から日本に渡ってきた人たちが古くから存在するのは、ほぼ確実だそうです。
それと、朝鮮を介して輸入してきた中華文明の多いことから、朝鮮半島の人々が一定の役割を果たしているのではないかとも推測できます。記録が残っている838年の遣唐使、4人の通訳のうち日本人は2人、残りの2人は新羅人、さらに現地で追加した通訳の2人も新羅人だったそうです。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-13 00:22:03

つぼみさん、こんばんは。
福岡博物館の記事は覚えています。いにしえの海を渡った国際交流(しかも命懸け)は、ロマンがありますね。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-13 00:22:34

whyさん、僕もそれほど多読しているわけではないです。(たぶん小象くんの半分以下?^^;)

日本ではたぶん中国語よりも、文字としての漢文がまず広がっていたのでしょう。七世紀後半より始まった大学寮では音博士が設けられ、中国音による暗記主体の音読教育も行われたとは言え、会話能力についての勉強はなかったようで、漢文についてよく勉強された知識人たちも中国語の会話能力はさほどではなかったようです。
遣唐使や時代が下がって入宋僧たちの記述を見ると、「筆談」のシーンが出てきますが、漢文を通じて高度なやり取りがされていても、口頭の会話では通訳が必要だったわけでしょうね。
例えば「宋書」に:「日本國於宋景德三年嘗有僧入貢,不通華言,善筆札,命以牘對,名寂照,號圓通大師。...」

_ T.Fujimoto ― 2009-02-13 00:46:45

frenchtoastさん、現地ガイドさんの話も、半分は事実かも知れせんね。
確かに日本も筆記文字としてもっぱら漢文をつかっていt時代、知識人の間、筆談においては翻訳は必要がなかったかと考えられます。

但し、空海の場合、行きの船上から通訳と中国語で話したとか、手元の司馬遼太郎の「わが空海」では、遣唐使船が中国の南(福州)に漂着したとき、空海はすぐ現地人と親しく話していた、というような記述さえあります。
もしかして、空海の場合は、日本を発つ前から中国語の会話能力を修得していたかも知れません。
ちなみに同じ年の遣唐使、別の船で渡った日本天台宗の開祖・最澄は専属の通訳をつれていたそうです。

_ つぼみ ― 2009-02-22 18:26:58

小象はここで登場?!昨年学校の図書員になりました。毎日20分間早めに登校、本の貸し出し、整理、読書指導などに努めています。お蔭様でお弁当を作る私も毎日20分間起きないといけません(笑、泣)。
ちなみに私は小2の宿題にもチャレンジしてみました。ゆとり教育からいきなり。。。?小2にとっては難しいですよ。

_ T.Fujimoto ― 2009-02-23 06:30:37

つぼみさん、小象くんはスーパー中学生として、日本中で噂されています (笑)
しかし、小学生は給食でしたよね?中学になると弁当ですか?大変ですね。

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