古い写真を眺めながら2012-12-03 22:13:24

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 上の写真はCorbisにあるものですが、Jill Jonesが撮影し、National Geographic誌(英語版)に掲載された、たぶん手彩色の写真です。
 正月の街をぶらりするMinstrels(吟遊詩人?)、という説明文がついています。大正年間の写真だと推測していますが、これは一体何でしょうか?

 ひとりが祝儀の口上を述べて、もうひとりが鼓を打つ、漫才の起源にもなった民俗芸能かも知れません(参考: <http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ayose3.htm>)。
 もしくは、チンドン屋さんみたいなものかも知れません。

 Corbisにはほかにも何枚か、このJill Jones女史が残した貴重な写真があります。(<http://www.corbisimages.com/photographer/jill-jones>)
 また、ここにないですが、当時掲載されなかったほかの数枚の写真が、1999年12月号のNational Geographic誌日本語版に載っています。(これがいま手元にあります)
 どの写真も平和な暮らしを捉え、人々は笑みを浮かべたり、ほのぼのとしています。


 1910年(明治43年)に、National Geographic誌英語版に「日本の面影」を寄稿したウィリアム・チェイビンは、当時の日本人について、以下の記述を残しました。
 「世界でこれほど幸福で満足した人々が見いだせるだろうか。幸福を支えるこの国々の特筆は二つ。米国でさんざん語られながら実現にほど遠い簡素な生活と、自然美を愛し、他人へ思いやる心だ。」

 しかし、National Geographic誌の写真の中には、子守をする少女や、東京の市電の乗客に新聞を売る少年も写っています。当時、尋常小学校を卒業すれば奉公に出て、働く子供が多く、母親や弟妹と一緒に食事をするのも、かなり幼い頃までだったようです。
 また、大正5年の「婦人之友」の付録によれば、毎日の炊事と朝夕の掃除に6時間25分、洗濯に1時間13分、裁縫に2時間40分......と、家電製品が登場する前の主婦は、家事だけでも大変忙しかったようです。

 それでもやはりあの頃の日本は、幸せに見えたのでしょうか?

北村透谷の造語から2012-12-11 22:52:47

 前にも書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2012/01/20/6298966)が、北村透谷はこちら小田原の産まれです。
 知らなかったのですが、柴田武の本を読んだら、「情熱」は北村透谷の造語、という説が出ています。英語の「passion」の和訳、だそうです。
 確かに「情熱」は漢文ではあまり見かけず、「passion」は中国語だと、一般的に「熱情」で訳されたりします。
 「熱情」は、一応日本語でも使われますが、語意の範囲が微妙に狭くなっていて、使う場面が違うような気がします。

 「平和」と「和平」も似ていますが、どちらかと言えば、中国語の「和平」は日本語の「平和」に近い場合が多い印象ですが、どうでしょうか?

 「木材」と「材木」、「解読」と「読解」、「栄光」と「光栄」...逆にして、意味が似て非なる熟語が、日本語にかなりあります。中国語でまた多少意味やニュアンスが違っていたり、なんだか混乱してしまいます。

【翻訳練習】懐かしい曲「Forever Young」2012-12-19 21:06:39

 ここ数週間、'80年代の音楽ばかり聴いています。
 若かりし日々を懐かしむようになったのは、年を取った徴候なのでしょうね。

 その懐かしい歌のなか、Laura Branigan が唄ったこの「Forever Young」も含まれています。


 これほどの名曲をただ再紹介するだけではいくらなんでも能がないので、若干趣向を変え、歌詞の日本語訳にもチャレンジしたいと思います。
 と言っても、訓練を受けていないド素人が1時間も掛けずに拵えたものなので、出来に自信がない、というより、出来の悪さには相当な自信があります(^^;)
 すみません、先に謝っておきます。

 なお、大同小異ながら、原詩はいくつか異なるバージョンがあるようで、ここではこれを基準にします。


優雅に踊り、しばらくは踊ろう
天国は待ってくれるはずと、ただ空を眺める
最高の結末を望みながらも、最悪の事態を予想する
それとも我々を、びっくりさせてくれるのかしら

若くして死ぬか、それとも永遠に生きるか
我々に力はないけど、いつだって諦めきれない
砂場に座り、命は短い旅
悲しい人たちのために、音楽がある

いつ宇宙がひとつになるかを、想像できるかい?
太陽に顔を向けて
リーダーを称えながら、調子を合わせる
狂気の人により、音楽が演じられた

永遠の若さ
いつまでも若くありたい
君は本当に永遠に生きたいのか?
いつまでも永遠に

永遠の若さ
いつまでも若くありたい
君は本当に永遠に生きたいのか?
いつまでも永遠に

水のようなものがあれば、熱のようなものがある
奏でられる旋律もあれば、刻まれるリズムもある
早かれ遅かれ、みんなが消えて去ってゆく
なぜ彼らは若いままに留まれないか?

わけも知らずに老いてゆくのはつらい
老馬のようにただ死を待つのは耐え難い
若さは太陽に照らされるダイヤモンドのようである
しかしダイヤモンドは永遠に輝くはず

たくさんの冒険は、まだ今日はできない
たくさんの歌を、我々は忘れていた
多くの夢は、なおはるか彼方で待っている
我々は実現させようとしている

永遠の若さ
いつまでも若くありたい
君は本当に永遠に生きたいのか?
いつまでも永遠に

年賀状2012-12-20 22:42:11

 慌しい年の瀬、出すべき年賀状もまだ用意できていないことを、思い出します。
 たまたまですが、枚数が例年より若干少なくて済みます。幸い、とはとても言えない類のものです。

 思い出したのは、朝の出勤前、古い本を引っ張り出して適当に読んだら、阪神淡路大震災の暮れ、神戸での年賀はがきの売れ行きが二割減、という話が出たからです。
 数字は何を語っているか、わけは言わずもかな、と胸が痛む話です。東日本大震災の後はどうだったかなど、まったく調べる気にもなりません。

 本籍は兵庫県で、学生時代は大阪で過ごしたので、あのときは知り合いに被災者がちょっと多かったのです。
 不幸中の幸いというべきか、親戚や友人のなかに犠牲者がいなく、無事です、というお知らせも来ていました。

 暗闇の中、ひどい揺れが続き、気が付いたときに天井が目の前まで落ちてきたよ。
 引き出しをひっくり返して読み直すいまも、思わずびっくりしてしまうような文章が、したためられています。

 元気です。
 一言だけの年賀状も、書かないより良いだろうと、いま思いました。

ロバのパン屋さん2012-12-25 21:00:10

 ロバノパンヤという名前の競走馬が活躍したのは前世紀末です。
 1999年のユニコーンステークスでウイングアローの2着に、大井のスーパーダートダービーで同じくウイングアローの3着に入ったとき、重賞のひとつやふたつはすぐに勝てるだろう、と思っていました。

 「かもがわ出版」から出ている「ロバのパン物語」(南浦邦仁)を、神保町(新刊書店)で購入したのは、その頃です。


 本は、当然でしょうが、ロバノパンヤ号とは直接関係がなく、「ロバのおじさんチンカラリン、チンカラリンロンやってくる......」のテーマソングで知られるロバのパンの話です。

 「ロバのパン本部」の正式名称は「株式会社ビタミンパン連鎖店本部」と言って、先代の桑原貞吉が昭和二年京都でまんじゅうと蒸しパンを始めたのが、そのルーツらしいです。
 ロバのパン屋と言っても、ビタミンパン連鎖店グループで馬車を引いていたのは、木曽馬など小型の在来馬でした。大阪の「ロバのパン本舗」で一度だけロバに車を引かせたことがありましたが、日本ではなかなかロバは手に入らず、やっと手に入れた一頭も老齢のせいか、なかなか言う通り働けず、ロバの行商は一日でやめたそうです。

 ビタミンパンの全盛期は昭和30年代ですが、その後も営業は続いています。
 もちろん馬車ではなく、軽トラックでの販売に変わっていましたが、僕が大阪で大学生をやっていた頃にもまた見かけることがあります。しかし、どうも関東に住む人に聞くと、ロバのパンは知らないと言う人が多いです。「ロバのパン物語」の記載によれば、数は少ないものの、全盛期は東京、神奈川県など東日本にも加盟店があったはずですが。

 「ロバのパン物語」の本に、シングルCDが1枚付いて、近藤圭子の歌う「パン売りのロバさん」が聞けるようになっています。





 ちなみに、同期のウイングアローのほうはJapan CupダートやフェブラリーSなど、G1レースでも好走し続けていたのに対して、競走馬のロバノパンヤは、当初期待されたほどは活躍せず、準オープンで1勝を上げただけで、オープンや重賞での勝ち鞍は、つい最後までなかったと思います。