ヒトは戦争をなくせますか?2011-08-23 00:12:34

 コンラード・ロレンツは近代動物行動学を確立した偉大な動物学者ですが、動物には攻撃本能がある、という「攻撃本能説」も発表しています。
 デスモンド・モリスなど、戦争を含めた人間同士の紛争を、動物の攻撃本能説に原因があると説明し、生物学的宿命のせいだとする学者がかなりいます。
 しかし、動物に攻撃本能があるとしても決して同種を襲わない、ゆえに人間も本能で人を殺すような戦争をやるのではない、オランダの類人猿研究者のコートランド博士などは反論しました。

 前にも書きましたが、スカンジナビア半島の峡谷に生息するレミングというネズミは、その地域の食べ物である草が少なくなると、研究者たちの予想に反し、残り少ない食糧を争うのではなく、群になって集団自殺した(海に飛び込んだ)そうです。
 レミングたちは、テリトリーのなかで個体数が多すぎると、DNAの働きで集団自殺しますが、ならば人間に、村落という狭い共同体における掟として、姥捨てのような棄老伝説が発生したとしても、不思議ではありません。


 「ヒトはなぜ戦争をするのか」、こちらはwhyさんによる、示唆に富んだブログ文です。
 (http://blogs.yahoo.co.jp/bao_bao_cj/60724568.html

 動物たちは、食糧を確保するために、餌場の縄張りを守るために、また、繁殖のためにも闘わなければなりません。しかし、その競争相手を直接殺して、死に至らせることは極めてまれだと思います。
 特に同じ集団に属する他のメンバーとは、概ね共存共栄を模索する行動を取っています。
 動物は同種を襲わない、というよりは、自身が帰属している集団、グループの仲間を襲わない、だと解釈したほうが正確かも知れません。


 同種のなかで、戦争のような大規模な戦いをやるのは人間だけです。
 数多い動物のなか、人間だけは大きく異なる存在だと考えるべきかも知れませんが、そうではないと考えることもできそうです。
 なにしろ、自然界の動物では、アフリカに生息している群れとアメリカに生息している群れとが相まみえることはないです。しかし人間はより大きな集団を作り、より広い活動範囲を拓き、より遠い場所にいるほかの人たちと出会っています。

 違う生活スタイルをして、違う文化を築き、違う集団への帰属意識を持っている人たちの間には、当然ながら考え方の相違があり、そこに主義主張の衝突が発生します。
 活動範囲が狭かった古代では、小さな部落間で紛争が生じました。戦いながらも相手の価値感をなんとか理解し、ゆっくりながら認め合い、人たちはより大きな集団である民族や国家を作りました。
 一方で、人類は活動範囲を広げたため、この大集団である国、民族同士が相まみえ、様々な原因で衝突し、時には大規模な戦争が生じたりしました。

 今日では、行こうと思えば、地球上のほとんどのところに人間は行けるようになりました。
 もうはや、我々にとって地球は広すぎる存在ではなくなっています。もうはや、我々にとって遠い他人は存在しなくなりました。
 相互理解を深め、全人類はひとつの集団でいられることに、そろそろ気付いても良い時代が来たような気がします。

 全人類が、お互いが仲間だとわかれば、あの忌まわしい戦争というものも、いつかは無くせる、今日はそう信じてみたいです。

コメント

_ sharon ― 2011-08-23 19:59:10

戦争がなくすときは、国も只の地名になるときです。

_ 花うさぎ ― 2011-08-23 21:12:14

>全人類はひとつの集団でいられること

「一つだ」と思うから戦争になるのか、
「別々だ」と思うから戦争になるのか。どちらなのでしょう。

歴史などを見ると、建前では「一つだ(一つであるべきだ)」と思う時のほうが戦争になることが多いような気もしませんか。「八紘一宇」とか。ああ、でもあれは、西洋に対しての東洋だから、本当に一つではありませんね。
西洋と東洋の別もなければどうなのでしょう。

_ 月の光 ― 2011-08-23 23:35:47

 戦争をどの角度から見るかによって多少の違いは出ますが、個人若しくは所属する集団が経済的優位を得るための活動と思っています。
規模は違いますが、社内で自分の優位性の確保、又は不都合な者の排除など戦争と同質だと思います。その結果相手を自殺に追い込むと容易に想像できる場合でも、その手を緩める事はしないでしょう。何故なら、自分の生存の確保が優先されるからです。

仲間意識をどの様に見るのか?敵の敵は味方と見るのか?ただ、3人いれば派閥が2つ出来ると戦国時代の人が言っていましたが真理をついていると思います。常に他者より有利に立つ事を画策するからです。

人類が唱える自画自賛の進化論に希望を見出せませんが、スタニスワフ・レムの「宇宙創世記ロボットの旅」の中の「広袤大師の罠」で描かれている世界に未来を信じたいです。

_ dragonfly ― 2011-08-24 00:52:35

興味深いですね。
現代の戦争が生存のためではなく経済的優位に立つための戦いなのであれば、
他者を排除して成り立つ経済的発展は「幸福」なのか、とこれは曖昧で情緒的な疑問?

毎日外国人と接していると、国は違っても人間は変わらないなあと思うことが多いけれど、どこか遠くで全く別種の教育を受けた、または教育を受けない人々がどういう考え方をするのかは想像できません。

ただ自分が信じる方向に進んでいきましょ。その先が明るいものでありますように;-)

_ T.Fujimoto ― 2011-08-25 22:21:11

sharonさん、まあ、仰る通りですね。
いまでも僕の考えでは、国家は基本的に地名に過ぎないと思います。
空から地球を眺めても、きっと国境は見えないでしょうね。

_ T.Fujimoto ― 2011-08-25 22:48:57

花うさぎさん、「一つだ」と思うから戦争になるのか、 「別々だ」と思うから戦争になるのか、さあ、どっちなのでしょうね。まあ、一つだと思うだけで戦争になることはないでしょうね。

世界各地ですべての民族が同一言語を用い、やがては同じ文化や価値観を共有する、という光景は、僕にとっては味気ない、おぞましいものです。
「八紘一宇」は領土拡張、対外侵略のスローガンとして一部用いられましたが、そこまで極端でなくても、擬似ヒューマニズムの誤用は、荒涼たる世界を作ってしまわないかと心配したくなります。生物の多様化を叫ぶと同時に、古から築いてきた人類文明の多様化もぜひ珍重してほしいと思います。

そのうえで、言い古されている理屈だと思いますが、
別々の部落、地方、国の人々が、別々の信仰、価値観を持って、それぞれ生を営みながらも、ほかの人々も含めた大きな人類家族の一員であることを自覚し、他人の価値観を理解、尊重する形で交流できれば、とてもいいじゃないかなと思います。

_ T.Fujimoto ― 2011-08-25 23:31:38

月の光さん、こんばんは。
月の光さんが書かれた通り、「戦争」をどのように定義するかよって違うと思います。ちなみにここでは、動物たちが食糧の確保や縄張りを守るため、もしくは繁殖のために闘うことを、そのまま戦争だと定義していません。

人々が食糧を得るために漁をしたり、狩りをしたりするのは本能であるかも知れませんが、ターゲットは他種の動物です。他種の動物を狩る行為を、とりあえず戦争の定義からはずしました。
社内競争等、本人にとって不都合な者を排除する行動を行い、その結果、相手を死に追いやるのは、僕が見知る限り、やはり稀です。会社と会社の間、団体と団体の間、あるいは国家と国家の間でも、いろいろな形で競争をしています。生物的欲求を満たすケースだけでなく、精神的欲求を満たしたいケースもありましょう。仲間うちでも競争はしますし、健全な競争はむしろ集団の発展に良い効果をもたらすと言われています。
どこかの一線を越えれば、大規模な衝突が起き、殺し合いが始まってしまうかも知れません。ここで上げたのは、他の人もすべて仲間であることを、人々が認識すれば、きっとその境界線は越えないように競争のルールとマナーを作れるだろう、という仮説でした。

_ T.Fujimoto ― 2011-08-25 23:51:18

dragonflyさん、経済的優位に立つための様々な競争が、結果的に戦争を引き起こすのを、ぜひとも避けたいことですね。冷静に考えれば、他者を排除して経済的発展が成り立たないことに気づくはずです。

形而上学的な自己意識が発達するにつれ、我々は個体の利益を求めすぎるようになっていたかも知れません。現実に、人を殺すための武器で富みを築く人もいれば、低次元の宗教エクスタシーをによって他人を殺める人もいます。
しかし、社会の情報化、交通の発達が、我々の意識を進歩する方向に向かわせると、僕は期待しています。仰る通り、国は違っても人間の根本は変わらないような気がします。遠くの人が近くに来たり、広い視野で物事を見れるようになったりすれば、自己中心性から離れることができるかも知れません。
もちろん、こういった倫理観も押しつけるのではなく、他人の痛みを自分の痛みとして受け止める感覚も、人々が心の中で自然に芽生えてくることが望ましいでしょうね。

_ 花うさぎ ― 2011-08-27 12:45:33

「一つ」か「別々か」という極論は、現実に即していませんよね。
「一つ」の部分もあるし、「別々」の部分もある。
現実の世界というものは、そういうものであるはずなのに、
恣意的に「一つ」だと言ったり、「別々だ」と言ったりする言動には、
何かの意図があるということなのかもしれません。

最近、ある歴史の本を苦労しながら読んでいましたが、結局は、戦争というものは「権益」を守るために行われるわけで、どこまでが正当な権益かという問題に客観的に決着がつかないから起こってしまうわけでしょう。
先の戦争のように日本に正当性がない場合でも、その場にいる日本人の多くには正当性があるように思えてしまう。そうでない場合は、そう思うような装置を作ってしまう。そういうものかもしれません。
他人を踏みつけにして幸せはなりたたないのが普通の人間だけれど、
他人を踏みつけにしながら、他人のためだと思い込まされていたり、
自分が生き残るためにはしかたないと思いこまれていたりするのでしょう。
意思決定をする人の本心と、大衆への宣伝や対外的な宣言がすべて異なることもあるわけで、その中のどこに真実があるかを見分けることが大切なのかもしれませんね。

_ 花うさぎ ― 2011-08-27 14:28:53

あ、それで書こうと思ったことをまだ書いていませんでした。

>まあ、一つだと思うだけで戦争になることはないでしょうね。

そうなんです。その通りなのですが、
「相手が悪い」と思ったとしても、相手側は自分とまったく違う理路でものごとを考えているのではないか、それなりに彼らなりの正当性が成り立っているのではないかと考えることが大切なのだと思ったのです。
相手は必ずしも、悪の権化のような考え方をしているわけではない。そういう相手がなぜ自分から見ると非道とも思える行動をしてしまうのだろうかと考え、正しいと思っている自分の考えも相手から見れば、「こちら側の理屈」でしかないのかもしれないと、そこに思いを至らせなければならないのではないかと。

_ T.Fujimoto ― 2011-08-29 00:56:01

花うさぎさん、「一つ」の部分もあるし、「別々」の部分もあるのは、まさにその通りだと僕も思います。
ひとつのファミリーにいる兄弟たちも、それぞれは個性も持った、独立した存在です。ひとつのギターに張られるいくつかの弦も、まったく隙間なくくっついたら、逆に良い音楽を奏でることができませんよね。

ひとつの世界に存在する別々の民族、国、部落、個人の間に、意見の相違が生じるのは当然で、あってしかるべきことだと思います。競馬など、そもそも意見の相違が存在することによって成り立つものです(笑)
個体の幸せを求めて競争しながらも、大きく見れば互いが仲間であることを時々思い出し、他人の価値観を理解し、他人の利益をバランスよく認め、人類全体が幸福になる方向に進めれば、とても素敵かなと思っただけです。

_ T.Fujimoto ― 2011-08-29 01:20:58

花うさぎさん、
先の戦争でもそうですが、天使と悪魔とが戦ったわけではなく、どちらか片方が100パーセント正当、どちらかが100パーセント不義であることが、ほとんどないと思います。
こういう理屈は、後から戦争の正当化に使われると困るもので、100パーセントでなくても、悪いことはきっと悪いでしょうね。但し、100%の悪人がほとんどいない、という現象は、僕などはほっとする思いです。つまり人類には本能だけ戦争を起こさないなら、もっと頑張れば、紛争を減らせ、ヒトは大規模な戦争をなくせるのではないかと、希望が持てました。

どう頑張ればかは、花うさぎさんが仰った通りだと、僕も感じています。
相手がまったくの理不尽、悪の権化でないことを考え、努めて理解した上で、理性のある対応を行うのは第一歩でしょうね。
上のコメントで、他人の価値観を理解、尊重するとか、自己中心性から離れ、他人の痛みを自分の痛みとして受け止める感覚とか、いろいろ書いたのも、結局は同じ意味のつもりでした。

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