ハンス・ロスリング氏のプレゼン2011-07-05 08:51:10

 先週(7/1)の「英語でしゃべらナイト」(NHK) の「英語プレゼンの極意」で、その一部が紹介されましたが、これ(↓)が統計データに関する、ハンス・ロスリングのプレゼンの映像です。


 「英語でしゃべらナイト」で使われたのは、開始から4分後ぐらいの、競馬中継でもしているような、早口で喋る部分だけですが。いずれにしても、電子芝居と身振り手振りを加えた語りをうまく融合させた、とても印象的なプレゼンになったと思います。

【再整理】ロンギヌスの槍とニムロッドの矢2011-07-10 06:53:09

 先日「もののけ姫」のテレビ再放送を、途中からながらつい見てしまいました。実はジブリ・アニメのなか、唯一ビデオも持っていてすでに何度も見ましたが。
 この「もののけ」は、人の手の入らぬ森に対する人々の畏れ、そして物理的な自然の猛威を形にしたものだと思われます。そもそも「ヤマガミ」は山の神、人間にとって得体の知れないもの、恐るべきもの、そのすべてが、いにしえでは神だったようです。

 文明の反対は「野蛮」ですが、「野」に未開の地の意味が含まれます。
英語の「savage」、フランス語の「sauvage」なども同様で、語源はラテン語の「silvaticus」に遡り、まさしく「森の(人)」を意味する言葉だそうです。森を拓くことが文明なのです。
 農耕も建築も、自然のなかから、人間が利用する空間を占有することです。人類は本来自然の一部なれど、自らから線を引き、自然との関わりにおいて「文明」を築いてきました。
 森や山と対決し、しばしば妥協も繰り返しながら、森や山を征服、開拓します。その象徴であるシシ神殺しであり、神殺しです。

 十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、ローマ兵によってそのわき腹を刺したとされる「ロンギヌスの槍」は、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のおかげで有名になりましたが、イエスの血が付いていることから「聖槍」だとする反面、神殺しの象徴だと捉える見方もあります。


 自然の恵みをもらいながら、その破壊を繰り返すことによる罪悪感からかも知れないし、時折受ける自然の猛威を開拓に対する自然からの復讐だと捉えてなんとか宥めようとしたかも知れません。農地を開発するとき、山の神霊から土地を譲り受け、地もらいの作法があったことは、焼き畑の開墾など、数多くの例からも伺えます。山を焼く際、「山を焼くぞう、山の神も大蛇殿もごめんなされ」などと唱えます。稲作儀礼、種まき儀礼には、地もらいの作法と思われる部分があります。地鎮祭など建築儀礼も同じだと思われます。

 「史記」の記載によれば、殷の皇帝武乙は、革袋に血を盛り、これを天神の形代として高所に吊り、矢で射り、名付けて「射天」。無道な武乙の遊びに過ぎないかも知れませんが、神へ挑戦であり、一種の神殺しだと言えましょう。それがある日、黄河のほとりで「射天」をしていたら、にわかに雷がおこって帝を打ち、武乙は雷死しました。

 「彼始めて世の権力ある物となれり。彼はエホバの前にありて権力ある狩夫なりき」と「創世記」で記さるニムロッドは、民間説話によれば、やはり神に目がけて天上に矢を射たそうです。その矢は神の手で地上に投げ返されて、ニムロッドの胸を貫きました。返し矢恐るべし、神恐るべし、「ニムロッドの矢」と称される類話の代表です。
 学問は人間が知っている部分だけを語り、残る部分は神の領域です。人間が征服できた神は矮小化され、神のままではいられません。逆に言えば、神は神である限り、常に人間にとって畏怖すべき存在、刃向かうのはリスクが大きすぎる存在です。

 延宝八年版「はなし物語」の香嗅ぎ名人・山口源五右衛門の話ですが、天上に向かってまっすぐ射上げた矢が、やがて落ちかかり、射手の鼻先と勢(男根)を削ぎ落としました。急いで拾いて元にくっつけたのはいいですが、あわてて上のものを下に、下のものを上に付け間違え、のちのちまでの迷惑となったこの笑い話は、「ニムロッドの矢」の類話だとしても、天や神に対する畏怖の感じは、きれいさっぱり忘れられたなれの果てですね。

【翻訳練習 (中→日)】「向晩的淡水」2011-07-13 09:56:43

 作者は林文義、原文(但し前半部分のみ)はこちら(↓)。
<http://www.mingdao.edu.tw/library/peruse/lip/%E5%90%91%E6%99%9A%E7%9A%84%E6%B7%A1%E6%B0%B4--%E6%9E%97%E6%96%87%E7%BE%A9.pdf>

 九歌出版社より、と文末にありますが、1980年7月の「大同半月刊」で掲載された後、「千手観音」なる随筆集に収められ、元々は蓬莱出版社が1981年に出版したものです。
 古い初版本が、台湾→日本→中国→日本と海を渡り、いま手元にあります。

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 [ 夕暮れの淡水 ]

 渡し船もこれが最終便だろう。船尾のフェンスに寄りかかって、私は船に砕かれた白い浪を見つめた。夕暮れの海風はやさしく、乱れた黒髪をかすかに掠め、潮をゆるやくになだめる海風のように......北淡線の列車はもう出そうだな、と船頭さんが言った。私は頭を横に振り:バスに乗って帰ります。心のなかでは、この柔らかな潮風に乗って帰るよ、と呟く。ちょっとキザだったかな?いや、八里郷から淡水鎮に向かう道は、まさしく最も美しい旅路なのだ。

 私の右目には、暗くなりかけた大屯山の巨大な影;左目には夕陽を浴び、赤く染め上げられた紅毛城の、古く哀愁に満ちた佇まい。淡水、近づいてきた- 若き日の感情が蠢く、この小さな港町よ。船頭は舵に気を配り、船をゆっくり接岸しようとしている。青を基調とした波止場は、セザンヌの絵を思い出させる。最終便の船が岸に着き、泊まる。寄り添う姿に、まるで愛情がこもっているように思えてきた。岸辺の無言で力強い懐に身を寄せ、満天の星を頭上に頂き、満足感に浸って、静かに休む....そう思いをめぐらせていたところ、船は岸に着いた。

 先に岸に上がったのは、若い夫婦だった(或いは恋人達か?)。船に乗せてきたバイクを男が岸から引っ張り上げ、女のほうは後ろから押した。彼らはすぐにエンジンを掛けなかった。小さな港の魚屋さんで二尾の魚を買い、顔いっぱいに笑みを浮かべながら、ようやくバイクに跨って行った。もしかして、彼らの家はこの小さな町の一角。和風の木造住宅を見れば、外は赤いレンガの低い壁が囲い、紫色の藤の花が中から壁の外まで伸び、その外は奥深い路地、路地を進むと夕焼けに輝く海に突き当たる......何艘かのいかだがゆらゆらと浮かんでいるかも。

 遠く、小さく、無数の四角い窓にすべて灯が点り、淡い黄色もしくは青、いずれも暖かみが溢れ、人の望みを吸い寄せる。この海辺の小さな町、たそがれどきには言いようのない輝きが放たれ、まるで油絵で見るような鮮烈な色彩だ。西に落ちてゆく夕陽が、まず美しく豊潤な黄色をあたりに塗り、そのうえ、鮮やかな紅色と黄金色で町の光る部分を描き出す。そして影をなす部分は、一面の紺青だ。古く狭い路地を歩けば、曲がり角の向こうから、いきなり老人の顔が不意に目の前に現れてくる- 老人は色褪せした扉の下に静かに座り、団扇をゆったり扇ぎ、慈しみに満ちた古い微笑みをあなたに投げかける。

 路地を行くと、暗くなりかけた夕暮れのなかに大きな古い教会が聳え、見上げる塔の先端に白いハトが軽やかに飛び回る- 異国にいるように感じた。エーゲ海沿いの小さな国だろうか?彼らのゴシック式の小窓は、夕暮れになると、必ず小さなロウソクを灯し、町ごとロウソクの影に揺らぐ......ここはしかしあの青いエーゲ海岸ではなく、ここは淡水、海辺にある小さな町だ。

幸田露伴の若いときの随筆2011-07-17 23:13:47

 幸田露伴の若いときの随筆「折々草」を、読んでみました。


 まず目に飛び込んだのは、この変な文章(第十八):
 「......酔は醒に若かず飽は飢に若かず、頑健なるは微恙あるに若かず、濁富ならむは清貧ならむに若かじ。醒、飢、病、貧、我之を四妙となす。而して尚私(ひそか)に謂ふ、人を屠り火を放ちし罪を抱くあるあらむには愈々益々もつて妙ならむ。酔飽健富は是天人の交接を妨げ親和を碍するの大奸大賊、殺人放火の罪は母天子人の間に立つの頴考叔なり、醒飢病貧は正に是れ悍馬を制するの羈韁なり荊鞭なり。」

 酔飽健富より醒飢病貧のほうを取るのは良いとして、殺人放火の罪までますます妙だろうと書かれるのは、さすがに意味がよくわかりません。(乞う解説)

 頴考叔という人物は寡聞にして知らなかったのですが、調べてみたら、中国は春秋時代の人だったようです。
<http://edu.ocac.gov.tw/culture/chinese/cul_chculture/vod25html/vod25_26.htm>


 また、第二十三の「天意」も興味深いです:
 「人事悉とく皆必ずしも人為にあらじ、悲しむべく恨むべきものを把り來つて仔細に観ずること一回二回三回四回、飜覆思考する数百回すれば、漸く悲の骨且つ砕けんとすつの悲、痛中に薄らぎ、恨の血殆ど氷らんとするの恨、苦中に解け、我を悲まんとするに悲しむべき者なく、他を恨まんとするに恨むべきものなきを覚ゆ。こゝに於て所謂天意なるものの存するなきや疑ふを免れず。静かに周易を味ひ、更に泰否師比の往来変化の理を尋ぬるに、邈々渺々として我心死するが如く我身亡するが如し。」

 すべては天の意志なので、自身を悲しむことも、他人を恨むことも、一切仕方のないこと、という意味でしょうか?

 ちなみに、「泰否師比」も知らなかったのですがが、どうやら周易の六十四卦にあるようです。
「師者。眾也。眾必有所比。故受之以比。」
「泰者。通也。物不可以終通。故受之以否。」
<http://sites.google.com/site/iching01/home17>


 数えてみましたが、「折々草」を書いたときの露伴は、まだ二十代前半だったかも知れません。

 露伴のお孫さん(青木玉?)と対談したことを、渡部昇一氏が「知の愉しみ、知の力」(致知出版社)に書いています:
 「大学に入ったあと、『おまえ、何を読んでるんだ?』と露伴が聞くのだそうです。『国文科で”十八史略”を読んでいます。』と答えると、『ああいうものは、俺は子供のとき、寝ころんで読んだもんだ。』と言われたそうです。」

 露伴は家計の関係で中学を中退したりして、結局大学は出ていないと思いますが、なるほど、漢学についての該博な知識は、小さいときから「十八史略」などを寝ころびながら読んだ環境で育てられたのでしょうね。

亀の話(1)2011-07-24 01:16:00

 幸田露伴の「潮待ち草」は、明治38年2月から翌年まで「新聞日本」に掲載された随筆をメインに編纂されたものです。

 読んでいくと、なかに「亀版の文字」なる文があり、中国殷王朝の亀甲文について記しています:
 「劉鐵雲といふもの其の五千餘片を収め得て千品を選択し、石印に付してこれを世に伝へ、且つ謂へらく、毛錐の前、漆書たり、漆書の前、刀筆たり、亀板の文字即ち殷人の刀筆の作すところにして命亀の事を記せるなりと。」

 この劉鐵雲は、かの有名な「老残遊記」の作者・劉鶚その人です。幸田露伴より10歳上の1867年生まれ、文学だけでなく、老残遊記のなかでも取り上げられた治水の学、さらに数学、医学にも通じていたそうです。
 黄河が決壊した際、劉鐵雲は治水に尽力していました。また、「鉄雲蔵亀」という著書があり、露伴翁が言及した亀甲獣骨文字の図録がこれだと思いますが、後の甲骨文字研究の基礎となった貴重なものです。
 例えば政治記者から物理学に戻り、フィールズという数学界の最高峰の賞を取ったエドワード・ウィッテン(Edward Witten)とか、世の中には多才で何をやってもできちょうスーパーマンみたいな人は、確かにいますね。
 劉鐵雲は、残念ながらのちに流刑となりました。
 義和団の乱で各国連合軍が北京に入ったとき、劉鐵雲はロシア軍と交渉して太倉の米を買い取って住民に売却し、民を飢餓から救ったそうですが、この行為がのちに横領にあたるとされ、ウルムチに流され、結局流刑先で死んでしまいました。


 だいぶ脱線してしまいましたが、亀の甲を灼く占いは、殷の時代が全盛期であるものの、殷が成立以前から漢民族で行われていたようです。
 古くから、神と人との仲介者を担うほど、亀にはある種の神性が認められていたかと思われます。実際、「礼記」では、麒麟、鳳凰、亀、龍を「四霊」と呼び、めでたくて神々しい動物に挙げられています。亀が、麒麟や龍など伝説の動物と並べられるのは、寿命が長いことが、重要な理由のひとつでしょう。

 「鶴は千年、亀は万年」はさすがに誇張されすぎますが、亀が長寿であるのは確かで、なかでも「マリオンの亀」がよく知られています。

 「マリオンの亀」というのは、18世紀、フランスの探検家マリオン・デュフレーヌによってセシェール諸島からモーリス島に運び込まれた5頭のゾウガメのなかの1頭です。
 その後、セシェールは英語風にセーシェルとなり、モーリスもモーリシャスと変わり、セーシェル諸島にいたゾウガメは人類の乱獲により、19世紀に入る頃にはすべて絶滅しました。
 ただ1頭、「マリオンの亀」だけが生き残り、いつの間にか英国軍モーリシャス部隊のマスコットになったりして、20世紀は第一次世界大戦が終了するまで生き続けていました。

 この亀が捕まった年ですが、「虫屋の落とし文」(奥本大三郎)では1776年、「英国大使の博物誌」(平原毅)では1766年だとしています。手元にある2冊の本で記載が若干違っていて、どちらかは誤記だと思いますが、いずれにしても捕まった時はすでにそれなりの大きさだったそうで、1918年に死んだときは、180歳から200歳ぐらいだと推定されました。

 「マリオンの亀」は事故死でした。
 高齢で視力を失い、要塞の砲台から足を踏み外して落下し、打ち所悪くて死んだそうです。
 戦時下では、亀も大砲に登るのであります。

亀の話(2)2011-07-27 13:01:45

 亀の特徴は何かと聞かれたら、僕に限らず、まず頭に思い浮かぶのは、長寿であること、足が遅いこと、それに背中の甲羅が硬いこと、この3つではないでしょうか?


 亀は動きがのそのそして足が遅いと、イソップ物語の「ウサギと亀」などから、我々は小さいときから頭に叩き込まれています。
 ところが、日本の淡水で生息する亀をよく観測すると、意外に陸をかなりの速度で歩きます。特に沼や池が近くにあるのに気づくと、飛び込むように走ったり、俊敏だと言えるほどです。

 どうやら本当に足がとりわけ遅いのは、日本では見かけない、陸亀の仲間たちです。ヨーロッパの人たちと亀の話をしても、彼らの頭に思い浮かぶのは、たいがいはこの陸亀のことらしいです。

 もっとも亀の足が遅いと思っているのは、古代の中国人も同じです。「荀子」の修身篇に「故蹞歩而不休、跛鼈千里、累土而不輟、丘山崇成」という言葉がありますが、ゆっくり歩いても、休まず続けば、千里の遠きにも到達することができる、という意味ですが、鈍足の代表選手として例に出されているぐらいなので、その認識は東西共通だったかと思われます。


 では、動きの遅い亀たちはどのように身を守るかと言えば、やはりその甲羅の硬さをまずあげなければならないでしょう。

 むかし、「Age of Empire II」というリアルタイム・ストラテージゲームに熱中していた時期がありました。民族に「朝鮮」を選んでプレイすると、固有ユニットとして、2頭の馬が引く馬車とともに、「亀甲船」という船が使えます。
 豊臣秀吉の侵攻軍に対抗し、迎え撃つ全羅水軍節度使・李舜臣が率いる船隊にいたのがこの亀甲船です。厚い木材によって守られる、要する装甲船でした。ソウル・オリンピックの記念硬貨のうち、もっとも額面が高い金貨には、この亀甲船がモチーフにデザインされているようです。侵攻への抵抗、そして勝利の象徴として、半島の人々にとって、いかに誇らしいものであるかが伺えます。

 時は下って、アメリカ独立戦争の時代に、戦争に使われた最初の潜水艦として名前が知られているのが、Turtle号です。
 乗員はこの小さな亀に乗り込み、英国側の旗艦イーグル号の船底にドリルで穴を開け、火薬を詰め込んで爆発させる、というのが作戦だったようです。残念ながら、銅版に覆われた船の装甲を貫通できなかったためか、作戦は失敗に終わったそうです。

 船ではないですが、古代ローマ時代には、ラテン語でTestudoという兵器があったそうです。例えば、ガラパゴス諸島のゾウガメの学名は「Testudo elephantopus」というから、敵の城壁まで兵士を運ぶのに使われたTestudoは、言ってみれば「亀」というふうに呼ばれたものです。
 「Age of Empire II」に登場している「破城槌」というユニットも、屋根がつき、装甲が厚く、歩兵をしのばせることができます。Testudoもたぶん、そのような移動亀甲小屋ではないかと想像しています。


 例外もあります。
 知られているように、スッポンは甲羅表面が角質化していないので柔らかいです。スッポンは主に東アジアに生息していて、ヨーロッパにはないので、英語などにもスッポンを表す適切な表現がなく、仕方なく、「甲羅の柔らかい亀」(ソフト・シェル・タートル)だと言ったりそうです。
 日本の政治家や財界人が向こうの人に向かって、「月とスッポン」だと高笑いしながら言っても、通じるかどうかは怪しいです。