【再整理】ロンギヌスの槍とニムロッドの矢2011-07-10 06:53:09

 先日「もののけ姫」のテレビ再放送を、途中からながらつい見てしまいました。実はジブリ・アニメのなか、唯一ビデオも持っていてすでに何度も見ましたが。
 この「もののけ」は、人の手の入らぬ森に対する人々の畏れ、そして物理的な自然の猛威を形にしたものだと思われます。そもそも「ヤマガミ」は山の神、人間にとって得体の知れないもの、恐るべきもの、そのすべてが、いにしえでは神だったようです。

 文明の反対は「野蛮」ですが、「野」に未開の地の意味が含まれます。
英語の「savage」、フランス語の「sauvage」なども同様で、語源はラテン語の「silvaticus」に遡り、まさしく「森の(人)」を意味する言葉だそうです。森を拓くことが文明なのです。
 農耕も建築も、自然のなかから、人間が利用する空間を占有することです。人類は本来自然の一部なれど、自らから線を引き、自然との関わりにおいて「文明」を築いてきました。
 森や山と対決し、しばしば妥協も繰り返しながら、森や山を征服、開拓します。その象徴であるシシ神殺しであり、神殺しです。

 十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、ローマ兵によってそのわき腹を刺したとされる「ロンギヌスの槍」は、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のおかげで有名になりましたが、イエスの血が付いていることから「聖槍」だとする反面、神殺しの象徴だと捉える見方もあります。


 自然の恵みをもらいながら、その破壊を繰り返すことによる罪悪感からかも知れないし、時折受ける自然の猛威を開拓に対する自然からの復讐だと捉えてなんとか宥めようとしたかも知れません。農地を開発するとき、山の神霊から土地を譲り受け、地もらいの作法があったことは、焼き畑の開墾など、数多くの例からも伺えます。山を焼く際、「山を焼くぞう、山の神も大蛇殿もごめんなされ」などと唱えます。稲作儀礼、種まき儀礼には、地もらいの作法と思われる部分があります。地鎮祭など建築儀礼も同じだと思われます。

 「史記」の記載によれば、殷の皇帝武乙は、革袋に血を盛り、これを天神の形代として高所に吊り、矢で射り、名付けて「射天」。無道な武乙の遊びに過ぎないかも知れませんが、神へ挑戦であり、一種の神殺しだと言えましょう。それがある日、黄河のほとりで「射天」をしていたら、にわかに雷がおこって帝を打ち、武乙は雷死しました。

 「彼始めて世の権力ある物となれり。彼はエホバの前にありて権力ある狩夫なりき」と「創世記」で記さるニムロッドは、民間説話によれば、やはり神に目がけて天上に矢を射たそうです。その矢は神の手で地上に投げ返されて、ニムロッドの胸を貫きました。返し矢恐るべし、神恐るべし、「ニムロッドの矢」と称される類話の代表です。
 学問は人間が知っている部分だけを語り、残る部分は神の領域です。人間が征服できた神は矮小化され、神のままではいられません。逆に言えば、神は神である限り、常に人間にとって畏怖すべき存在、刃向かうのはリスクが大きすぎる存在です。

 延宝八年版「はなし物語」の香嗅ぎ名人・山口源五右衛門の話ですが、天上に向かってまっすぐ射上げた矢が、やがて落ちかかり、射手の鼻先と勢(男根)を削ぎ落としました。急いで拾いて元にくっつけたのはいいですが、あわてて上のものを下に、下のものを上に付け間違え、のちのちまでの迷惑となったこの笑い話は、「ニムロッドの矢」の類話だとしても、天や神に対する畏怖の感じは、きれいさっぱり忘れられたなれの果てですね。