亀の話(1)2011-07-24 01:16:00

 幸田露伴の「潮待ち草」は、明治38年2月から翌年まで「新聞日本」に掲載された随筆をメインに編纂されたものです。

 読んでいくと、なかに「亀版の文字」なる文があり、中国殷王朝の亀甲文について記しています:
 「劉鐵雲といふもの其の五千餘片を収め得て千品を選択し、石印に付してこれを世に伝へ、且つ謂へらく、毛錐の前、漆書たり、漆書の前、刀筆たり、亀板の文字即ち殷人の刀筆の作すところにして命亀の事を記せるなりと。」

 この劉鐵雲は、かの有名な「老残遊記」の作者・劉鶚その人です。幸田露伴より10歳上の1867年生まれ、文学だけでなく、老残遊記のなかでも取り上げられた治水の学、さらに数学、医学にも通じていたそうです。
 黄河が決壊した際、劉鐵雲は治水に尽力していました。また、「鉄雲蔵亀」という著書があり、露伴翁が言及した亀甲獣骨文字の図録がこれだと思いますが、後の甲骨文字研究の基礎となった貴重なものです。
 例えば政治記者から物理学に戻り、フィールズという数学界の最高峰の賞を取ったエドワード・ウィッテン(Edward Witten)とか、世の中には多才で何をやってもできちょうスーパーマンみたいな人は、確かにいますね。
 劉鐵雲は、残念ながらのちに流刑となりました。
 義和団の乱で各国連合軍が北京に入ったとき、劉鐵雲はロシア軍と交渉して太倉の米を買い取って住民に売却し、民を飢餓から救ったそうですが、この行為がのちに横領にあたるとされ、ウルムチに流され、結局流刑先で死んでしまいました。


 だいぶ脱線してしまいましたが、亀の甲を灼く占いは、殷の時代が全盛期であるものの、殷が成立以前から漢民族で行われていたようです。
 古くから、神と人との仲介者を担うほど、亀にはある種の神性が認められていたかと思われます。実際、「礼記」では、麒麟、鳳凰、亀、龍を「四霊」と呼び、めでたくて神々しい動物に挙げられています。亀が、麒麟や龍など伝説の動物と並べられるのは、寿命が長いことが、重要な理由のひとつでしょう。

 「鶴は千年、亀は万年」はさすがに誇張されすぎますが、亀が長寿であるのは確かで、なかでも「マリオンの亀」がよく知られています。

 「マリオンの亀」というのは、18世紀、フランスの探検家マリオン・デュフレーヌによってセシェール諸島からモーリス島に運び込まれた5頭のゾウガメのなかの1頭です。
 その後、セシェールは英語風にセーシェルとなり、モーリスもモーリシャスと変わり、セーシェル諸島にいたゾウガメは人類の乱獲により、19世紀に入る頃にはすべて絶滅しました。
 ただ1頭、「マリオンの亀」だけが生き残り、いつの間にか英国軍モーリシャス部隊のマスコットになったりして、20世紀は第一次世界大戦が終了するまで生き続けていました。

 この亀が捕まった年ですが、「虫屋の落とし文」(奥本大三郎)では1776年、「英国大使の博物誌」(平原毅)では1766年だとしています。手元にある2冊の本で記載が若干違っていて、どちらかは誤記だと思いますが、いずれにしても捕まった時はすでにそれなりの大きさだったそうで、1918年に死んだときは、180歳から200歳ぐらいだと推定されました。

 「マリオンの亀」は事故死でした。
 高齢で視力を失い、要塞の砲台から足を踏み外して落下し、打ち所悪くて死んだそうです。
 戦時下では、亀も大砲に登るのであります。