武侠から異種格闘技戦(2)2006-09-09 23:55:47

 金庸の小説「射鵰英雄傳」、主人公の郭靖は小さいときにモンゴルで育ったため、モンゴル相撲の技も使う、という設定です。
 しかし、武侠小説のなかの武術は、刀剣などの武器を使わない場合もほとんどは打撃に属する拳法、掌法、蹴りだけで、関節技の描写が少なく、寝技の攻防となるとほとんどお目にかかれません。


 「武侠世界」雑誌が1921年に主催した「西洋相撲対柔道」大会は、もちろんそれとは違って、すべての打撃を禁止し、双方柔道着を着て試合する、いわゆるジャケットマッチでした。

 いま考えると、相手のプロレスラーにも柔道着を着させるところ、かなり柔道家に有利なルールですが、Ad Santelに限ってはそうとも言えません。Ad Santelははやくから柔道を研究して、すでにアメリカでジャケットマッチを多く経験していました。


 丸島隆雄が書かれた「講道館柔道対プロレス初対決」によると、Ad Santelは最初1911年に無名な柔道家福田2段に負けて、 以降、柔道に対する熱心な研究を始めたそうです。1912年アラスカでもうひとりの柔道家と戦って、引き分けになったあと、ようよう多くの有名な柔道家・柔術家と戦うことになりました。
 この本の記述をまとめると、以下の結果となり、なかなかの好成績でした:

1914年 ○ Ad Santel vs 野口潜龍軒 × (野口は帝國尚武會創始者 自稱8段)

1915年 ○ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 × (伊藤は前田光世等とキューバ四天王と並び称する講道館の強豪)

1916年 △ Ad Santel vs 三宅太郎 △

1916年 × Ad Santel vs 伊藤徳五郎 ○

1917年 ○ Ad Santel vs 三宅太郎 ×

1917年 ○ Ad Santel vs 坂井大輔 ×

1918年 △ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 △


 そして、いよいよ日本に乗り込む1921年(大正10年)、結果的に講道館高段者の反対に遭いながらも、靖国神社特設会場で以下の試合を行いました。

3月5日 Henry Weber vs 増田宗太郎, Ad Santel vs 永田礼次郎

3月6日 Henry Weber vs 清水一, Ad Santel vs 庄司彦男

 Henry WeberはAd Santel のように、歴史に残る名選手ではないですが、恐らく弟子かスパーリングパートナーとして一緒に来日した、Santelよりも大柄のレスラーでした。

 八百長提案など、試合始まるまでにもいろいろ興味深い話がありますが、そちらは丸島隆雄氏の本を参照して頂くとし、ここで結果だけ記すことに留めます。

△ Henry Weber vs 増田宗太郎 △ (3本勝負の1対1 )

△ Ad Santel vs 永田礼次郎 △ (Santelの反則&永田の負傷)

× Henry Weber vs 清水一 ○ (3本勝負の2対0 )

△ Ad Santel vs 庄司彦男 △ (3本勝負の0対0 )

 但し、初日のSantel 、永田戦は、アメリカ側の記録を見ると、SantelのTKO勝ちとなっています。

コメント

_ ☆ smoky medicine ☆ ― 2008-05-20 18:24:03

清水一 柔道
で検索してきました。
清水一は埼玉県大宮出身ですよね?
そうであれば私の祖父の兄にあたる人です。子どもの頃私は道場に通っていました。浦和の武道館に写真が残っていたんですが 今は移転したためにどうなっているのかわかりません。
この靖国神社での話は昔父に聞いたことがあります。
なんでも靖国神社の裏に車を止めておいたんだと…
負けたら命がなかったという話です。

_ T.Fujimoto ― 2008-05-22 06:33:50

smoky medicineさん、いらっしゃいませ。清水一さんのご家族の方ですね。
上記の本、作者は「清水と永田は八百長提案をのまず、あくまでも本来の実力で戦ったものと考えてよいだろう」、とありました。
それにしても、負けたら命がなかったうんぬん、穏やかではないですね。ほかにも裏話がありましたか?

_ ☆ smoky medicine ☆ ― 2008-05-22 07:29:01

異種格闘技については日本で初めてやったんだという話くらいしか知りませんでした。
僕が小学生で柔道を始めたころの祖父の兄は寡黙でした。まったく謎の人物という印象でした。奥にある接骨医院もかなり古くて…ただ 狭い道場でしたが表札(?)の数はものすごかったです。弟子の多さがそれを表していたんでしょうね。人生の最期の時はベッドで一番得意技にしていた内股の形をして命を終えたそうです。

_ T.Fujimoto ― 2008-05-23 06:55:17

おはようございます。
お話を伺えてうれしいですね。寡黙で、柔道一筋で、弟子に信頼の厚い方、そういうイメージがちょっと浮かんできました。

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_ 翻訳blog - 2006-09-26 18:29:09

 1882(明治15)年、帝大の学生であった嘉納治五郎は、東京下谷稲荷町の永昌寺