香港競馬と馬事爽論 ― 2006-09-09 01:05:52
香港競馬会(香港賽馬會)のホームページを見ると、沙田競馬場における新しいシーズンが今週末(9月10日)に始まるそうです。
http://www.hkjc.com/chinese/index.asp
オリエンタルエクスプレス、インディジェナスからフェアリーキングプローン、そして最近のサイレントウィットネス、ブリッシュラック。近年、日本における香港馬の活躍はとてもめざましいものがあります。
一方で、フジヤマケンザン、ミッドナイトベットからエイシンプレストン、アグネスデジタル、最近のハットトリックなど、香港の国際競走でも日本馬が活躍しています。
それだけ両地が近く、欧米への遠征に比べて、輸送等のハードルが比較的に低いと言えましょう。今後の交流もますます盛んになると思われます。
そう言えば、フジヤマケンザンが香港カップを勝った年かその翌年ぐらいの、森秀行調教師のインタービューが載っている、豪華なレーシングプログラムを、浜尾朱美さんから頂いていました(何人かで抽選して当たったと思います)。大切に保管していたはずですが、なぜかいま捜しても見当たりません...
代わりに、同じく浜尾さんから頂いた1998年のDubai World Cupのレーシングプログラムが出てきました。あと、フランスに行った、かおるさんから頂いたフランスの競馬新聞も一緒に、です。
浜尾さんのラジオ番組に連動して始まった、NIFTY競馬フォーラムの「馬事爽論」会議室の、その和気藹々の雰囲気。そこで知り合った仲間たちとの一連の楽しいオフ会も含めて、あのころが懐かしいです。
http://www.hkjc.com/chinese/index.asp
オリエンタルエクスプレス、インディジェナスからフェアリーキングプローン、そして最近のサイレントウィットネス、ブリッシュラック。近年、日本における香港馬の活躍はとてもめざましいものがあります。
一方で、フジヤマケンザン、ミッドナイトベットからエイシンプレストン、アグネスデジタル、最近のハットトリックなど、香港の国際競走でも日本馬が活躍しています。
それだけ両地が近く、欧米への遠征に比べて、輸送等のハードルが比較的に低いと言えましょう。今後の交流もますます盛んになると思われます。
そう言えば、フジヤマケンザンが香港カップを勝った年かその翌年ぐらいの、森秀行調教師のインタービューが載っている、豪華なレーシングプログラムを、浜尾朱美さんから頂いていました(何人かで抽選して当たったと思います)。大切に保管していたはずですが、なぜかいま捜しても見当たりません...
代わりに、同じく浜尾さんから頂いた1998年のDubai World Cupのレーシングプログラムが出てきました。あと、フランスに行った、かおるさんから頂いたフランスの競馬新聞も一緒に、です。
浜尾さんのラジオ番組に連動して始まった、NIFTY競馬フォーラムの「馬事爽論」会議室の、その和気藹々の雰囲気。そこで知り合った仲間たちとの一連の楽しいオフ会も含めて、あのころが懐かしいです。
武侠から異種格闘技戦(2) ― 2006-09-09 23:55:47
金庸の小説「射鵰英雄傳」、主人公の郭靖は小さいときにモンゴルで育ったため、モンゴル相撲の技も使う、という設定です。
しかし、武侠小説のなかの武術は、刀剣などの武器を使わない場合もほとんどは打撃に属する拳法、掌法、蹴りだけで、関節技の描写が少なく、寝技の攻防となるとほとんどお目にかかれません。
「武侠世界」雑誌が1921年に主催した「西洋相撲対柔道」大会は、もちろんそれとは違って、すべての打撃を禁止し、双方柔道着を着て試合する、いわゆるジャケットマッチでした。
いま考えると、相手のプロレスラーにも柔道着を着させるところ、かなり柔道家に有利なルールですが、Ad Santelに限ってはそうとも言えません。Ad Santelははやくから柔道を研究して、すでにアメリカでジャケットマッチを多く経験していました。
丸島隆雄が書かれた「講道館柔道対プロレス初対決」によると、Ad Santelは最初1911年に無名な柔道家福田2段に負けて、 以降、柔道に対する熱心な研究を始めたそうです。1912年アラスカでもうひとりの柔道家と戦って、引き分けになったあと、ようよう多くの有名な柔道家・柔術家と戦うことになりました。
この本の記述をまとめると、以下の結果となり、なかなかの好成績でした:
1914年 ○ Ad Santel vs 野口潜龍軒 × (野口は帝國尚武會創始者 自稱8段)
1915年 ○ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 × (伊藤は前田光世等とキューバ四天王と並び称する講道館の強豪)
1916年 △ Ad Santel vs 三宅太郎 △
1916年 × Ad Santel vs 伊藤徳五郎 ○
1917年 ○ Ad Santel vs 三宅太郎 ×
1917年 ○ Ad Santel vs 坂井大輔 ×
1918年 △ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 △
そして、いよいよ日本に乗り込む1921年(大正10年)、結果的に講道館高段者の反対に遭いながらも、靖国神社特設会場で以下の試合を行いました。
3月5日 Henry Weber vs 増田宗太郎, Ad Santel vs 永田礼次郎
3月6日 Henry Weber vs 清水一, Ad Santel vs 庄司彦男
Henry WeberはAd Santel のように、歴史に残る名選手ではないですが、恐らく弟子かスパーリングパートナーとして一緒に来日した、Santelよりも大柄のレスラーでした。
八百長提案など、試合始まるまでにもいろいろ興味深い話がありますが、そちらは丸島隆雄氏の本を参照して頂くとし、ここで結果だけ記すことに留めます。
△ Henry Weber vs 増田宗太郎 △ (3本勝負の1対1 )
△ Ad Santel vs 永田礼次郎 △ (Santelの反則&永田の負傷)
× Henry Weber vs 清水一 ○ (3本勝負の2対0 )
△ Ad Santel vs 庄司彦男 △ (3本勝負の0対0 )
但し、初日のSantel 、永田戦は、アメリカ側の記録を見ると、SantelのTKO勝ちとなっています。
しかし、武侠小説のなかの武術は、刀剣などの武器を使わない場合もほとんどは打撃に属する拳法、掌法、蹴りだけで、関節技の描写が少なく、寝技の攻防となるとほとんどお目にかかれません。
「武侠世界」雑誌が1921年に主催した「西洋相撲対柔道」大会は、もちろんそれとは違って、すべての打撃を禁止し、双方柔道着を着て試合する、いわゆるジャケットマッチでした。
いま考えると、相手のプロレスラーにも柔道着を着させるところ、かなり柔道家に有利なルールですが、Ad Santelに限ってはそうとも言えません。Ad Santelははやくから柔道を研究して、すでにアメリカでジャケットマッチを多く経験していました。
丸島隆雄が書かれた「講道館柔道対プロレス初対決」によると、Ad Santelは最初1911年に無名な柔道家福田2段に負けて、 以降、柔道に対する熱心な研究を始めたそうです。1912年アラスカでもうひとりの柔道家と戦って、引き分けになったあと、ようよう多くの有名な柔道家・柔術家と戦うことになりました。
この本の記述をまとめると、以下の結果となり、なかなかの好成績でした:
1914年 ○ Ad Santel vs 野口潜龍軒 × (野口は帝國尚武會創始者 自稱8段)
1915年 ○ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 × (伊藤は前田光世等とキューバ四天王と並び称する講道館の強豪)
1916年 △ Ad Santel vs 三宅太郎 △
1916年 × Ad Santel vs 伊藤徳五郎 ○
1917年 ○ Ad Santel vs 三宅太郎 ×
1917年 ○ Ad Santel vs 坂井大輔 ×
1918年 △ Ad Santel vs 伊藤徳五郎 △
そして、いよいよ日本に乗り込む1921年(大正10年)、結果的に講道館高段者の反対に遭いながらも、靖国神社特設会場で以下の試合を行いました。
3月5日 Henry Weber vs 増田宗太郎, Ad Santel vs 永田礼次郎
3月6日 Henry Weber vs 清水一, Ad Santel vs 庄司彦男
Henry WeberはAd Santel のように、歴史に残る名選手ではないですが、恐らく弟子かスパーリングパートナーとして一緒に来日した、Santelよりも大柄のレスラーでした。
八百長提案など、試合始まるまでにもいろいろ興味深い話がありますが、そちらは丸島隆雄氏の本を参照して頂くとし、ここで結果だけ記すことに留めます。
△ Henry Weber vs 増田宗太郎 △ (3本勝負の1対1 )
△ Ad Santel vs 永田礼次郎 △ (Santelの反則&永田の負傷)
× Henry Weber vs 清水一 ○ (3本勝負の2対0 )
△ Ad Santel vs 庄司彦男 △ (3本勝負の0対0 )
但し、初日のSantel 、永田戦は、アメリカ側の記録を見ると、SantelのTKO勝ちとなっています。
最近のコメント