【メモ】金子きみと竹内てるよ、母と子と長い人生2012-05-23 00:44:39

 生まれて何も知らぬ 吾が子の頬に
 母よ 絶望の涙を落とすな
 その頬は赤く小さく
 今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも
 いつ 人類のための戦いに 
 燃えて輝かないということがあろう…

 2002年9月、IBBY(国際児童図書評議会)創立50周年の式典で、美智子皇后が英語でスピーチしました。
 英文のほうは見つかりませんでしたが、日本語の原稿が残っています(http://www17.ocn.ne.jp/~hana2/shiryou/mitiko_supiiti_20020929.html)。なかで引用されている上記の詩は、竹内てるよの「頬」の一部です。


 昭和初期、東京に「渓文社」という小さな出版社がありました。
 アナーキズム寄りの出版社だと言われ、多くの詩集を発行しましたが、前身は1929年、竹内てるよとその共同生活者の神谷暢により創設された啓文社です。

 竹内てるよは、銀行員であった父と18歳の芸者の母の間に札幌で生を受け、赤ん坊のときに母から引き離され、祖父母のもとで育てられました。子供を奪われた母は、悲しんで自殺したそうです。
 てるよは十代の頃から働きに出ましたが、17歳で結核にかかり、以降長年に渡り、病魔と闘うことになります。
 20歳で父親の借金相手と結婚、出産し、24歳で腰椎カリエスとなり、ギプスをかけて病床に伏し、ついに離婚することとなりました。

 子供を夫の元に残すことに忍びず、一旦心中を決意したそうです。
 眠っている子供の首に手をかけるが、子供が目覚め、母の右手に揺れる赤いひもを見て、おもしろがって笑いました。
 その笑みを見て、てるよは心中を思いとどまりました。冒頭の「頬」は、そのときの心情を詠んだものです。
 「生まれて何もしらぬ 吾が子の頬に / 母よ 絶望の涙を落とすな」は、実に壮絶なものでした。

 てるよは子供を手放し、闘病生活を続ける傍ら、詩の創作を行い、1928年から「詩神」、「銅鑼」に作品を掲載しました。
 1929年、草野心平等が「竹内てるよを死なせぬ会」を発足させたそうですが、当時のてるよは結核の病状が悪く、ほとんど毎日が喀血、血便、貧血によって、人事不省状態の連続だったそうです。

 宮本百合子の「文学の進路」に、「竹内てるよさんは、カリエスといふ病が不治であるため、徹也といふ愛児をおいて家を去り、貧困の底をくぐって、今は、療養の伴侶であり、友である神谷暢氏と夫婦でない、結婚生活でない共同生活を十三年営んで居られる。」という記述があります。


 1929年、啓文社が創設されました。
 竹内てるよの詩集を刊行するのが重要な目的でしたが、一方でアナキズム的思想の啓蒙、詩集、文集、童話、パフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営をも目指しました。
 この啓文社はのちに「渓文社」に改められましたが、渓文社を長年支えたのは、西山勇太郎です。

 西山は小学校を卒業するとすぐ淀橋区の鉄工所で見習い工となり、住み込みのまま、戦前から戦後へかけての三十数年間を淀橋で過ごしました。
 昼間は鉄工作業、夜はお金にならぬ、ガリ版印刷をして、傍らに「渓文社」や「無風帯社」を経営しました。草野心平、萩原恭次郎、中浜哲らの詩集が、渓文社から出版されていました。

 庄治きみ、すなわちのちの金子きみが、こんな歌を残っています。
 「辻潤と いふ人現れる 西山君と一緒になるといいね と唐突におつしやる。」
 この「西山君」が、西山勇太郎です。

 辻潤は西山勇太郎の師ともいうべき存在です。辻潤が放浪していたころ、幾度か西山の部屋を訪ねて滞在もしたし、西山も辻を追いまわす特高刑事のことなど意に介さずに泊めたそうです。


 金子きみは歌人であり、のちに小説家に転身しました。
 竹内てるよと同じく北海道の生まれで、上芭露小学校を卒業し、農業に従事しながら、自由律の新短歌を作っていました。冬の農閑期は東京の姉夫婦のもとに滞在し、その東京で、歌の仲間と知り合いました。

 西山勇太郎の尽力により、17歳で歌集「草」を渓文社から刊行されました。
 きみは西山を介して、辻潤や、その息子の辻まこと(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/07/1563252)とも出会います。
 きみの最初の詩集「草」、装丁は辻まことによるものです。(http://kikoubon.com/kusa.html

 結局、きみは西山とは結ばれず、義兄の紹介で金子智一(http://www.n-shingo.com/jijiback/149.html)と結婚し、金子きみとなりました。


 「宣戦 直ちに夫に報道班員の徴用令 選ばれたと言う眉を見つめる」
 「銃後の悲しみとしてはいけない悲しみを 乳児の目が吸いとってくれる」
と金子きみの作品にある通り、子供が生まれたあと、太平洋戦争が急を告げました。

 戦争末期の東京大空襲の直後、東京を脱出する時の様子が、金子きみの手記で書かれていますが、大混雑の上野駅構内で、4歳の息子・雅昭が一度行方不明になっていました。

 その時、まずある家族が迷子の雅昭君をまず保護しましたが、彼らの乗車の順番が回ってきたので、その辺にいた十歳ほどの浮浪児に預けて行ったようです。
 その浮浪児自身は大空襲で家が焼け、家族を失って駅の地下道で寝起きしている戦災孤児ですが、預かった雅昭君を親のもとに届けるために、群衆の中を探して連れて歩き、ようやく母親の金子きみと出会ったのであります。
 こうして無事に親子再会できた金子きみは、財布から乗車券だけを取り出して、その浮浪児に渡しました。もしその浮浪児が居なかったら、親子再会どころか、子供が生存できていたかどうかも分からないでしょう。


 そういう出来事があって、金子きみは愛息と離れ離れにならずに済みましたが、竹内てるよのほうは、幼いときから離れ離れになっていたわが子と、戦後に突然出会いました。

 まったく消息不明だった息子は、実はヤクザになって、刑務所にいました。
 出所した子と暮らしはじめたものの、四ヶ月で息子は出奔し、四年後、またも刑務所で会うことになりました。
 約一年後、ようやく親子水入らずの生活を送れるようになりましたが、たった二ヶ月、息子は喉頭癌(舌癌とも)で入院し、一ヶ月後に死去しました。

 てるよ自身も腎臓結核が再発し、何年間もの長い入院生活を余儀なくされました。
 むごい人生だったかも知れませんが、彼女の詩は、しかし決して暗いものばかりではありません。「家の光」の読者投稿欄の「詩」の選者も、長年務めました。


 竹内てるよが初めて結核を患った17歳の頃、二年も生きられまいと言われたそうです。しかし、病気と貧困に苦しめられ、つらい出来事の多かった人生を送りながらも、2001年2月に96歳で亡くなるまで、達観して、天寿を全うことができました。

 金子きみのほうも、やはり長生きしていて、2009年6月に94歳で亡くなりました。

コメント

_ 花うさぎ ― 2012-05-24 09:36:35

やだ。こんな人生を生きるのは、どんなにつらいことでしょう。
少女のころにこういう「才気にあふれながら薄幸な」他人の人生を知ったならば、あこがれることもあったでしょうが、
今、私もいい年になって自分の弱さもうんざりするほど分かりましたから、
他人事として読むだけでも息苦しくなってきます。
平凡・平坦な人生もまたよし、ですね。

_ 蓮 ― 2012-05-24 18:51:16

このような詩、言葉、このような人生があったこと初めて知りました。
ぎりぎりのところを生きた人たちがそのぎりぎりのところで発した言葉には自ずと重みがありますね。

_ T.Fujimoto ― 2012-05-26 00:44:42

花うさぎさん、確かに仰るとおり、他人事として読んでも息苦しくなりそうです。
しかし、先週のアニメ「ワンピース」、つらかった過去を言及されたナミのセリフのように、「そんなひどい渦の中、出会った仲間もいるのよね!全部繋がって、わたしが出来てんの!(略) 捨てたもんじゃないのよ。」と本人は言うかも知れませんね。

人間は誰もがそれぞれ違う才能、個性を持ち、望むか望まぬかそれぞれ違う境遇を持っていると思います。英雄、アイドルだから語れる伝説もあるでしょうし、平凡に一見見える非凡もあるでしょうし。極限状態に置かれ、過酷な人生を送ってしまった人は、ゆえに発せられるずっしりと重みのある声を聞かせてほしいと、思ったりします。
義務、だと言うのはさすが酷だと思いますが、例えば夭折の道を自ら選んでしまう人よりは、つらくとも生きて声を出し、社会に貢献できる人に、僕はどうしても尊敬してしまいます。

_ T.Fujimoto ― 2012-05-26 00:54:08

蓮さん、ぎりぎりのところを生きた人たちの言葉の、その鬼気迫ったり、ぐっと来たりする重みですね。
前にもみなさんに教えていただいた通りです。確かに、窮地に追い込まてようやく心から気づく感情があるのでしょう。

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