賀正2012-01-01 07:54:00

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 波乱の2011年が去り、新しい年がやってきました。
 今年は皆様にとって、明るい一年となるように、お祈りいたします。

象も歩いた箱根八里2012-01-10 23:32:36

 いまの箱根駅伝でも、5区の山登りと6区の山下りは足に負担がかかり、相当なスタミナが要求される難関ですが、江戸時代の人々は整備が不完全な道を歩かなければならないので、なおさら大変だったと思われます。
 人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。

 その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
 享保14年(1729年)5月のことです。


 「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
 本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。

 象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。


 そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。

 象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
 象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
 それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。

 ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
 「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。

 なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
 ・十六日、まんじゅう急用、百文。
 ・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
 ・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
 ・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
 ・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
 ・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
   :
   :
 ・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
 ・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
 ・象相煩い候につき、護摩代、一分。
 ・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。


 好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。


 この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。

木馬は運べない箱根八里2012-01-11 23:41:29

 箱根八里の道が歩きにくいのは、昔から定評があるものです。

 安政2年(1855年)、幕末きっての名官吏・川路聖謨が下田からの帰り道で箱根を越えるとき、石畳で転んでしまいました。
 実は、彼は前の年も箱根の坂で二度転んだらしく、氏は「下田日記」に「箱根みち、殊のほかわるし。例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候。」と書き、箱根の雲助が地獄に落ちても、エンマ様は剣の山のお仕置きはしないだろう、とまで言い捨てました。

 安政の大地震からわずか五ヵ月後のことで、その影響もあったかも知れません。
 但し、そもそも箱根の石畳は平らに作ろうとしていなかったせいかも知れません。


 「はこね昔がたり」(かなしんブック)によれば、寛政5年(1793年)、相模、伊豆の沿岸を踏査した老中筆頭松平定信が帰路に箱根を越えた際、たまたま道普請が行われ、石畳の道を平らに修理していました。それを見た定信は江戸城に帰るや、直ちに道中奉行を呼んだそうです。
 「箱根山の儀は、御要害の場所につき、石高く難所これ有るべく候処、道造りの儀、入念候ては御趣旨に当たらず......」

 つまり、箱根は江戸を守る大事な関所、石が凹凸して歩きにくいであるべきなのに、道造りを入念に行っては、要害の地である趣旨に反する、ということを言っていました。
 当然のこと、小田原藩と江川代官所にはその旨の通達がすぐに出されました......


 それが幕末になり、公武合体を進めるために徳川十四代将軍家茂が上洛することになり、その前年の文久2年(1862年)の10月から、箱根の石畳の全面改修が行われました。
 石畳の道の改修を裏書きする資料が残っていますが、さすがに天下の大将軍を転ばせるにはいかないので、今度は念を入れて丈夫に作ったようです。平らな石を選んで並べただけでなく、昭和55年の調査結果によると、赤土を板築状に固めて土台を造り、敷石の裏には城の石垣を思わせる裏込の小石が詰められたそうです。

 もちろん、歩きやすくなった箱根の道は、もうはや江戸を守る要害の地ではなくなり、わずか6年後の慶応4年(1868年)、有栖川宮を大総督とする東征軍は、楽々とこの石畳の道を通って江戸に向けて進軍したことでしょう。


 本を閉じて思い出したのは、中国の古典「韓非子」にある話です。
 春秋時代の晋の六卿のひとりである知伯は、仇由という国を攻めようとしたが、難路に阻まれ、兵隊を遣ることができません。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、仇由の君主に贈ろうと申し出ました。仇由の君主は忠臣の諌めを聞かず、道路を整備して鐘を国内に入れましたが、僅かに七ヶ月後に、仇由は知伯によって亡ぼされました。

 この説話をもうちょっと変形すれば、例のトロイの木馬の話になる、と指摘したのは、人類学者にして博物学者の金関丈夫です。

幻の本2012-01-20 00:38:47

 曾つて誤つて法を破り
   政治の罪人として捕はれたり、
 余と生死を誓ひし壮士等の
   数多あるうちに余は其首領なり、
      中に、余が最愛の
      まだ蕾の花なる少女も、
      国の為とて諸共に
      この花婿も花嫁も。
     :
     :


 と始まるのが、北村門太郎の「楚囚之詩」です。

 いや、北村門太郎と言ってもあまりピンと来ないかも知れませんが、明治の文豪のひとり、北村透谷の本名です。
 思潮社から出版されている「現代詩文庫1001 北村透谷詩集」を図書館から借りていますが、冒頭に全編収録されているのが処女作の「楚囚之詩」です。
 実は、この原書は近代文学書の稀覯本の親玉と言われるぐらい、噂だけが有名で、実物を見たことのある人はごく稀という珍本です。


 古書店のあるじでもあった作家・出久根達郎が「古本綺譚」で書いた話によれば、22歳の透谷がこのB6判横綴わずかな叙事詩を自費出版したのは、明治22年の4月だそうです。
 自序では、「余は遂に一詩を作り上げました。大胆にも是れを書肆の手に渡して知己及び文学に志ある江湖の諸兄に頒たんとまでは決心しましたが、実の処躊躇しました。」で始まり、「余は此『楚囚之詩』が江湖に容れられる事を要しませぬ」と続いたりと、はなはだ頼りない言葉を綴りました。
 はたしてこの小冊子が印刷されるや、やはり自信がなく、後悔したのか、まもなく著者により回収され、手元に残す一冊を除いてすべて廃棄した、と透谷が日記に書きました。
 透谷は満25歳のときに自殺しましたが、透谷の名声が上ってからは、もし見つかったら幻の本だろうと言われていました。

 42年後の昭和5年、本郷の古本即売展で、ある大学生が雑本の山からその「幻の本」を見つけ出し、稀覯本につきものの数奇な伝説はここから始まりました。
 その学生は35銭で購入しましたが、すると隣から突如、その学生をつかまえて、ぜひ5円でゆずれと血相を変えて談判する紳士が現れました。何事かとほかの客がとり囲い、くだんの学生は本を抱きしめて逃げるように会場から消えてしまい、話題騒然となったそうです。
 その本が透谷日記にいう、残った唯一の一冊だと思われましたが、実はそうではないかも知れません。十数年経って、二冊目が出て、そのときは80円で売れたそうです。
 最近では平成14年の京都組合大市に出品されたそうですが、当初店頭に並んでいたわずかの時間で何冊か売れたものがあって、現在完全本は4、5部存在していると言われています。

 また、昭和37年に神戸の古書市場に出品された「万象図譜」という、四六判40頁袋綴の袋から、バラバラになった「楚囚之詩」の本文が出てきて、やはり大騒ぎになりました。「万象図譜」は明治24年に出版されたもので、特に稀覯本ではないですが、同じ製本所で破棄処分になった「楚囚之詩」のページをシン紙に用いたと推定されたので、愛書家やコレクターたちはたちまち「万象図譜」探しに血眼となりました。ところがせっかく入手して開いてみると、シン紙には古新聞やほかの本の断裁が詰め込まれ、残骸でもなかなか現れてこないから、「楚囚之詩」は幻の本なのであります。


 北村透谷はここ小田原の生まれです。

 父母とともに上京したのは十三、四歳の頃だと思います。また、短い人生としての最晩年も、小田原市国府津の長泉寺で過ごしました。
 「小田原と北村透谷」(小澤勝美 著)という本が僕の手元にありますが、透谷の文章の美しさと力強さは、壮大な箱根の山々を背景に美しい相模の海に面した自然環境にも関係するだろう、と記されています。

 彼が生まれ育った小田原唐人町の海岸や、祖母とお参りした早川の観音、「景色よろし」と日記に書いた江の浦、いずれも僕ににとっても身近の景色で、珍しくもなく、むろん幻でもないです。

鳴かぬなら 鳴かせてみせよう 鳩や亀2012-01-30 22:58:12

 「亀鳴くや 皆愚なる 村のもの」と詠んだのは、高浜虚子です。

 「亀鳴く」は、俳句では春の季語であり、歳時記にも載っています。しかし、果たして亀は本当に鳴くのでしょうか?

 タイトルもずばり「亀が鳴く国~日本の風土と詩歌」(中西進 著、角川学芸出版 発行)という書物が、いま手元にあります。作者によれば、これこそは俳句の「エアポケット」というものです。
 読者は亀が鳴くことなどありえないと決めかかっているから、作者は百も承知の上で、「亀が鳴きました。だから(あるいは、なのに)こうです」と言って、聞くほうは突然フェイントをかけられたような気がする、という理屈になります。

 「いったい、だれがいつ、亀が鳴くなど言い出したのか。さらに、それに悪乗りして季語とさえ認定したのはいつのだれだ。歳時記によると、亀は春鳴くことになっている。なぜ春か、それらはいっさい不明のままに、現代にいたるまで、俳句はむしろ喜んで、亀の鳴く句を作っているように見える。」
 「すばらしいではないか。この虚を遊ぶ文芸こそが俳句である。」

 「亀鳴くや ひとりとなれば 意地も抜け」 (鈴木真砂女)
 「亀鳴いて 椿山荘に 椿なし」       (菅裸馬)
 「亀鳴くや 小説どれも 同じ型」      (高崎梨郷)

 みんな意地が抜けた瞬間です。
 例えば、大いに期待して読め始めた小説が型通りのつまらないもので、なんだとがっかりさせられた気持ちが、亀を鳴かせたそうです。

 なるほど、と頷きながら読みました。


 いや、いや、亀は鳴くものだ、と言っているのは、英国大使やモロッコ大使を歴任していた平原毅氏です。

 蛙には共鳴袋、哺乳類には声帯、鳥類には鳴管があって、亀には何もないゆえ、亀は鳴かない、と「図説 俳句大歳時記」(角川書店)の解説・今泉吉典氏は根拠を挙げて力説していますが、それでもやはり実際に聞いたという人にはかなわないでしょう。
 平原毅氏の「英国大使の博物誌」によれば、ヘルマン亀、ガラパゴス島の象亀はキーッと叫ぶような声を出し「私は自分の耳で聞いている」そうです。それと、日本の天然記念物である西表島の「せまるはこ亀」が鳴くのも聞いたことがあるそうです。
 しかも、「いずれも愛の季節に、愛の行為の最中に、びっくりするほど大きなキーッという叫び声を出す」、とのことです。

 「私は日本の『いし亀』や『くさ亀』が鳴くのを聞いたことはない。みみずが鳴くのは『おけら』の鳴き声のことだといわれるが、この『亀鳴く』もあるいは『おけら』の鳴き声を間違っているかも知れない。」と、作者は一応続けました。しかし、もしかして古では亀ももっと大声で遠慮なく鳴いていたかもしれません。
 中国の古典で、僕が知るところでは、「唐書」に、「大和三年,魏博管內有虫,状如龜,其鳴晝夜不絕。」なる記述が見えます。

 こうなったら、文明の利器?、YouTubeを探しましょう。そうしたら、象亀でなくても、普通に亀が鳴く映像がありました。



 元大英博物館館長のサー・デイヴィド・ウイルソンが来日して、平原毅氏と酒を交わして歓談した折、確かに聖書にも亀の声が聞こえる、という表現がある、と言い出したそうです。

 酒の席なので期待しなかったが、十日程して航空便で知らせが来て、それは旧約聖書の「ソロモン雅歌」第2章10~12だそうです。
 「Rise up, my love, my fair one, and come away.
  For, lo, the winter is past, the rain is over and gone;
  The flowers appear on the earth; The time of the singing of birds is come, and the voice of turtle is heard in our land.」

 なるほど、確かに「the voice of turtle」とあります。

 いや、しかし、日本語訳ではどうなっているかと言いますと、
 「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、
  立って、出てきなさい。
  見よ、冬は過ぎ、
  雨もやんで、すでに去り、
  もろもろの花は地にあらわれ、
  鳥のさえずる時がきた。
  山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」

 あれ?亀が登場しないです。

 ちなみに僕は中国語訳も探してみましたが、やはり亀は出てきません。
「我的佳偶 、我的美人 、起來、與我同去。
  因為冬天已往、雨水止住過去了
  地上百花開放、百鳥鳴叫的時候已經來到、斑鳩的聲音在我們 境內也聽見了。 」

 なんのことはなく、平原毅氏の調べによれば、単にサー・デイヴィド・ウイルソンの勘違いです。
 もちろん英語で「亀」のことを「turtle」と書きますが、これは通俗ラテン語の「tartuga」に由来するフランス語の「tortue」から英語に入ってきた単語です。別にラテン語の「turtur」から古代英語の「turtla」になり、さらに「turtle」になった鳥もいます。綴りも発音も「亀」と同じですが、正確には「turtledove」と呼び、和名では「こきじばと」というものだそうです。
 大英博物館の館長を務めたほどの知識人でも、イギリスにはまったく棲息していない亀は、あまり知らないようです。

 皆愚なる、とは、巨匠は厳しいです。