木馬は運べない箱根八里2012-01-11 23:41:29

 箱根八里の道が歩きにくいのは、昔から定評があるものです。

 安政2年(1855年)、幕末きっての名官吏・川路聖謨が下田からの帰り道で箱根を越えるとき、石畳で転んでしまいました。
 実は、彼は前の年も箱根の坂で二度転んだらしく、氏は「下田日記」に「箱根みち、殊のほかわるし。例の歩行にて落馬も同前と申す計にころび申し候。」と書き、箱根の雲助が地獄に落ちても、エンマ様は剣の山のお仕置きはしないだろう、とまで言い捨てました。

 安政の大地震からわずか五ヵ月後のことで、その影響もあったかも知れません。
 但し、そもそも箱根の石畳は平らに作ろうとしていなかったせいかも知れません。


 「はこね昔がたり」(かなしんブック)によれば、寛政5年(1793年)、相模、伊豆の沿岸を踏査した老中筆頭松平定信が帰路に箱根を越えた際、たまたま道普請が行われ、石畳の道を平らに修理していました。それを見た定信は江戸城に帰るや、直ちに道中奉行を呼んだそうです。
 「箱根山の儀は、御要害の場所につき、石高く難所これ有るべく候処、道造りの儀、入念候ては御趣旨に当たらず......」

 つまり、箱根は江戸を守る大事な関所、石が凹凸して歩きにくいであるべきなのに、道造りを入念に行っては、要害の地である趣旨に反する、ということを言っていました。
 当然のこと、小田原藩と江川代官所にはその旨の通達がすぐに出されました......


 それが幕末になり、公武合体を進めるために徳川十四代将軍家茂が上洛することになり、その前年の文久2年(1862年)の10月から、箱根の石畳の全面改修が行われました。
 石畳の道の改修を裏書きする資料が残っていますが、さすがに天下の大将軍を転ばせるにはいかないので、今度は念を入れて丈夫に作ったようです。平らな石を選んで並べただけでなく、昭和55年の調査結果によると、赤土を板築状に固めて土台を造り、敷石の裏には城の石垣を思わせる裏込の小石が詰められたそうです。

 もちろん、歩きやすくなった箱根の道は、もうはや江戸を守る要害の地ではなくなり、わずか6年後の慶応4年(1868年)、有栖川宮を大総督とする東征軍は、楽々とこの石畳の道を通って江戸に向けて進軍したことでしょう。


 本を閉じて思い出したのは、中国の古典「韓非子」にある話です。
 春秋時代の晋の六卿のひとりである知伯は、仇由という国を攻めようとしたが、難路に阻まれ、兵隊を遣ることができません。そこで一計を案じ、巨大な鐘を鋳て、仇由の君主に贈ろうと申し出ました。仇由の君主は忠臣の諌めを聞かず、道路を整備して鐘を国内に入れましたが、僅かに七ヶ月後に、仇由は知伯によって亡ぼされました。

 この説話をもうちょっと変形すれば、例のトロイの木馬の話になる、と指摘したのは、人類学者にして博物学者の金関丈夫です。