スタンダードナンバーに酔いしれる夜2016-02-06 21:01:49

 YouTubeでジャズを聴いています。

 名人Wynton Marsalisに、ちょっと珍しい楽器編の成が入っている「My Favorite Things」です。


 「Maiden Voyage」をソロ・ピアノで聞くのもわるくないです。


 そして、この小林香織の「Nothing gonna change my love for you」は、何度聞いても素晴らしいです。


【素人写真】梅の花2016-02-11 20:48:08

 小田原の曽我梅林です。











【メモ】銭形平次の財団2016-02-21 23:18:16

 「不景気と言や、親分、ちかごと銭形の親分が銭を投げねえという評判だが、親分の懐具体もそんな不景気なんですかい」
 「馬鹿にしちゃいけねえ、金は小判というものをうんと持っているよ。それを投げるような強い相手が出て来ないだけのことさ」
 書き出しの無駄口話が落語の枕のようなもので、「銭形平次捕物控」の魅力のひとつです。

 実際、銭形平次とお静との所帯は「年がら年中、ピイピイの暮し向き、店賃が三つ溜まっているが、大家は人が良いから、あまり文句を言わない」というから、小判など一生手にしなかったかも知れません。

 そんな清廉潔白で貧しい平次が敵に投げつけたのは、むろん小判ではなく、寛永通寳です。
 ウィキペディアの「銭形平次捕物控」の項で、「平次が劇上で投げたとされる寛永通寳真鍮當四文銭(十一波)」が写真付きで紹介されています。
 しかし、小説のなかでは「ちょっと重い鍋銭」と書かれています。ウィキペディアの「寛永通寳」を参照すると、「鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ」と出ており、真鍮四文銭よりも安い鉄一文銭のほうなのかも知れません。


 銭形平次の作者の野村胡堂も、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学に入学するが、学資に困ったゆえ中退になっていた人です。

 胡堂の夫人のハナは日本女子大卒で教師となり、新聞記者時代の胡堂を経済面からも支えていました。
 ハナ夫人の親しい同僚に、夫がすでに亡くなった井深さんという女性がいて、その息子の大(まさる)は野村家にしょっちゅう遊びに行っていたそうです。
 長じて、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げたが、運転資金に窮すると、胡堂は心よく融通しました。その頃、野村胡堂の銭形平次が売れていました。
 のち、井深大の会社は「ソニー」と改名しました。

 胡堂は晩年、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立しました。
 経済面で学業継続が困難になった学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしていますが、これはやむなく学業を断念した胡堂の経験が背景になっているのでしょう。

【メモ】鼠小僧の自白2016-02-22 23:01:52

 天保三年(1832年)の5月、松平宮内少輔の屋敷に盗みに入ったところを捕らえられ、町奉行所に引き渡された次郎吉は、やたらと記憶力がすぐれていました。
 「武鑑」で薄れた部分を補いながら、十年前に遡り、忍び込んだ屋敷や盗んだ金額をわりと詳しくすべて白状しました。

 ご存知、義賊の伝承や大仏次郎の小説で知られている、鼠小僧です。


 この詳細な自白は、被害に遭った大名旗本屋敷側にとっては、はなはだ迷惑だったようです。なかには、金子の紛失により女中が疑われて、「それとなく御暇」になったケースもあったそうです。しかし、事実を隠し続けても、町奉行所は承知してくれそうになかったので、最終的に各屋敷は概ね再調査で判明した事実を報告したそうです。
 江戸の主だった大名屋敷が、長年渡ってひとりの小柄の男に容易く度々侵入され、多いときは四百数十両もの大金を盗まれたというから、屋敷側の威厳も武士の面目もまるつぶれです。

 武士のほうは、神出鬼没の鼠小僧に対して、複雑な感情を抱いている人が多いようです。

 例えば、「甲子夜話」を著した松浦静山は早くから鼠小僧に注目したひとりで、伝え聞く次郎吉の身軽さだけでなく、彼の行状にも興味津々でした。
 かつて盗みに入った商家が破産したと聞いた次郎吉が、再びその家に忍び込み、盗んだ金七十両をこっそり返した、という美談については、「これ人徳慈悲を知て、敬忠を知らざる者也」と評しました。確かに慈悲の心はあるが、武士に対する敬意を欠くもので、「殆んど禽獣と同じ」と付け加えました。
 厳しい尋問の最中にも「いかにも泰然として」恐れたそぶりを見せず、「吟味拷問等のときも、聊か臆せし体無かりしと」など、次郎吉の死を恐れぬ姿に感銘を受けて「盗中の勇者と云べし」と称えました。すぐに「勇もかかる所に用ては役にたたぬこと也」と付け加えたのは、思わず盗人を賞嘆してしまったのを恥じたのかも知れません。


 3ヵ月後に市中引き回しの上での獄門の判決が下されました。本来なら殺人や放火の凶悪犯に適用される刑であり、重い判決は面子を潰された武家の恨みによるもの、という見方もあります。