【メモ】鼠小僧の自白2016-02-22 23:01:52

 天保三年(1832年)の5月、松平宮内少輔の屋敷に盗みに入ったところを捕らえられ、町奉行所に引き渡された次郎吉は、やたらと記憶力がすぐれていました。
 「武鑑」で薄れた部分を補いながら、十年前に遡り、忍び込んだ屋敷や盗んだ金額をわりと詳しくすべて白状しました。

 ご存知、義賊の伝承や大仏次郎の小説で知られている、鼠小僧です。


 この詳細な自白は、被害に遭った大名旗本屋敷側にとっては、はなはだ迷惑だったようです。なかには、金子の紛失により女中が疑われて、「それとなく御暇」になったケースもあったそうです。しかし、事実を隠し続けても、町奉行所は承知してくれそうになかったので、最終的に各屋敷は概ね再調査で判明した事実を報告したそうです。
 江戸の主だった大名屋敷が、長年渡ってひとりの小柄の男に容易く度々侵入され、多いときは四百数十両もの大金を盗まれたというから、屋敷側の威厳も武士の面目もまるつぶれです。

 武士のほうは、神出鬼没の鼠小僧に対して、複雑な感情を抱いている人が多いようです。

 例えば、「甲子夜話」を著した松浦静山は早くから鼠小僧に注目したひとりで、伝え聞く次郎吉の身軽さだけでなく、彼の行状にも興味津々でした。
 かつて盗みに入った商家が破産したと聞いた次郎吉が、再びその家に忍び込み、盗んだ金七十両をこっそり返した、という美談については、「これ人徳慈悲を知て、敬忠を知らざる者也」と評しました。確かに慈悲の心はあるが、武士に対する敬意を欠くもので、「殆んど禽獣と同じ」と付け加えました。
 厳しい尋問の最中にも「いかにも泰然として」恐れたそぶりを見せず、「吟味拷問等のときも、聊か臆せし体無かりしと」など、次郎吉の死を恐れぬ姿に感銘を受けて「盗中の勇者と云べし」と称えました。すぐに「勇もかかる所に用ては役にたたぬこと也」と付け加えたのは、思わず盗人を賞嘆してしまったのを恥じたのかも知れません。


 3ヵ月後に市中引き回しの上での獄門の判決が下されました。本来なら殺人や放火の凶悪犯に適用される刑であり、重い判決は面子を潰された武家の恨みによるもの、という見方もあります。