【メモ】台湾阿片令2015-12-30 10:30:53

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 台湾の日本統治時代の戸籍登録に「纏足欄」があって、纏足者は「纏」を記入することになり、「阿片吸食欄」があって、許可を得てアヘンを吸食する者は「阿」を記入することになっていたそうです。


 日清戦争後の下関条約締結の際に、清の全権大使・李鴻章は、台湾統治が難しい理由のひとつに「台湾人は大概阿片烟を喫む」こと挙げたそうです。

 台湾には17世紀からアヘンが伝わり、19世紀のアヘン戦争後、台湾でも薬として用いられるだけでなく、慣れてしまえば気分が良くなることが知られ、人々の間に広がっていました。友達同士の付き合いや取引のときにもてなされ、アヘンがもたらす毒害に無知のまま、習慣化してしまいます。
 この台湾のアヘン問題に関して、新たに統治する日本側当局は「厳禁論」と「非禁論」とが対立し、結果、後の台湾総督府民政長官で当時は内務省衛生局長だった後藤新平の「漸禁論」が採用されました。
 けだし人道的にも国力を低下させてしまうことからも、非禁論はありえないが、いきなり全面禁止による吸引者の抵抗は鎮圧するのが大変で、しかも「阿片専売により年間二四〇万円の収入が得られる」(「台湾島阿片制度ニ関スル意見」)というしたたかな計算があったうえです。
 その際、「罌粟栽培及阿片製造法」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173907)を著した二反長音蔵からのアドバイスがあったそうです。

 1897年(明治30年)、「台湾阿片令」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E9%98%BF%E7%89%87%E4%BB%A4)が布告され、アヘン吸引者は鑑札の交付を受け、アヘン販売は台湾総督府の専売で行うことにとなりました。
 その一方、アヘンが日本人に広がることを防ぐために、「台湾人民軍事犯処分令」において、「鴉片烟及吸食器ヲ大日本帝国軍人属其他ノ従軍者ニ交付シタル者及吸食所ヲ給シタル者」を「死刑ニ処ス」と、厳しい規定を設けていました。


 台湾阿片令には、「阿片を吸食することはできないが、ただ本令施行前の阿片癮者で台湾総督から吸食を特許された者が政府の売下げに係る阿片烟膏を吸食する場合は許される」と規定されたが、実際は1904年に、新たに三万人余りに鑑札の交付をし、1908年にさらに一万六千人に交付していました。少なくとも、阿片禁止に決して積極的でないように見受けられます。
 しかも原材料の価格高騰を理由に価格をつり上げ、アヘン販売の収入が増えていました。
 1898年スペインに代わってフィリピンを領有すると、即座にフィリピン全域にアヘン禁止令を出したアメリカとは好対照でした。

 冒頭の李鴻章の話に対して、伊藤博文は「きっと阿片を禁じて御目に掛けむ」と返したそうですが、中毒になっていたのはほかならぬ、アヘン専売による収益や利権に目を眩んだ、台湾総督府そのものでした。