さざえ堂風美術館2015-12-15 22:20:16

 螺旋、つまり渦巻きが好きな人が多いようです。

 数学者のヤコブ・ベルヌーイは、自分の墓銘碑に「再びよみがえる」の言葉とともに、螺旋を書かせている。
 澁澤龍彦は、便所のトイレットペーパーを眺めているだけでも、ああ、アルキメデスの渦巻きがここにあるぞ、と思わずにいられない、だそうです。(「マルジナニア」より)


 さざえ堂(栄螺堂)という特異な建築様式が日本に存在します。
 庶民が巡礼する札所の観音像を安置する目的で立てられた回遊風の仏堂であり、各所の札所をまわることなく、堂内の順拝だけで巡礼が叶うような便利な建物です。
 「巡礼観音堂」とも言われますが、正式には三匝堂(さんそうどう)と言って、仏像を常に右に見つつ、その周りを右回りに三度匝る(めぐる)、という仏教の礼法に基づくものです。

 「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」に紹介されている、江戸本所の天恩山五百羅漢寺さざえ堂がもっともよく知られていました。元々本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、五代将軍綱吉や八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。

 文化文政年間、隠居した十方庵敬順は江戸周辺の名所旧跡を訪ね歩いて、その記録を「十方庵遊歴雑記」に残しましたが、なかに次のような文章が書かれています:
 「浄周院は、中山道本庄宿の西南三里に有り、此道路平山にして尤さびしく、多くは、松山のみあり、既に浄秀院に至れば、百観音を安置せり、此観音堂の作事は、恰も本処五百羅漢寺の栄螺堂の摸形に髣髴たり、この堂の頂上へ段々と登臨して、四望を遠見するに風色天然にして更に言の葉絶たり......」
 現在の埼玉県児玉市に、本所五百羅漢寺に似たのさざえ堂があり、上からの眺望は風景が良い、という話です。(遊歴雑記初編巻之中第五十六「小平村浄周院のさざえ堂」)

 本所五百羅漢寺のさざえ堂も上は展望台になっていて、葛飾北斎「冨嶽三十六景」や歌川広重「名所江戸百景」に、その展望台に登る人々が描かれていますが、いずれも裸足です。参拝する人々は、履物を脱いで建物に入っていたことが伺えます。

 本所五百羅漢寺のさざえ堂はもう残っていませんが、会津さざえ堂は現存しており、やはり二重らせん構造の斜路を持っています。概ね三層構造で、右回りに上るスロープで最上階に上り、他者とすれ違うことなく、左回りに下りる別のスロープから出口から出るまで降りることができます。


 日本での最初の「洋画家」、とも言われていてる高橋由一が、明治18年(1885年)に元老院議長佐野常民宛に「展覧閣ヲ造築センコトヲ希望スル主意」という書簡を送ったそうです。
 この「展覧閣」の構造については詳細の記載はありませんが、高橋は明治14年(1881年)に別の「螺旋展画閣設立主意」と記した趣意書が残っています。この「展画閣」に関する資料は、多少表現の異なるいくつかの文章が残っていますが、椎名仙草の著書(「大正博物館秘話」)によれば、まさにさざえ堂のように内部二重らせんを持つ、展望台付きの六階建ての建築になっています。

 高橋由一はさざえ堂からヒントを得ているかどうかは不明ですが、絵を鑑賞する人々は一定方向に進み、同じ場所に戻ることもない、良い美術館のアイデアなのではないかと思います。

【メモ】台湾阿片令2015-12-30 10:30:53

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 台湾の日本統治時代の戸籍登録に「纏足欄」があって、纏足者は「纏」を記入することになり、「阿片吸食欄」があって、許可を得てアヘンを吸食する者は「阿」を記入することになっていたそうです。


 日清戦争後の下関条約締結の際に、清の全権大使・李鴻章は、台湾統治が難しい理由のひとつに「台湾人は大概阿片烟を喫む」こと挙げたそうです。

 台湾には17世紀からアヘンが伝わり、19世紀のアヘン戦争後、台湾でも薬として用いられるだけでなく、慣れてしまえば気分が良くなることが知られ、人々の間に広がっていました。友達同士の付き合いや取引のときにもてなされ、アヘンがもたらす毒害に無知のまま、習慣化してしまいます。
 この台湾のアヘン問題に関して、新たに統治する日本側当局は「厳禁論」と「非禁論」とが対立し、結果、後の台湾総督府民政長官で当時は内務省衛生局長だった後藤新平の「漸禁論」が採用されました。
 けだし人道的にも国力を低下させてしまうことからも、非禁論はありえないが、いきなり全面禁止による吸引者の抵抗は鎮圧するのが大変で、しかも「阿片専売により年間二四〇万円の収入が得られる」(「台湾島阿片制度ニ関スル意見」)というしたたかな計算があったうえです。
 その際、「罌粟栽培及阿片製造法」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173907)を著した二反長音蔵からのアドバイスがあったそうです。

 1897年(明治30年)、「台湾阿片令」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E9%98%BF%E7%89%87%E4%BB%A4)が布告され、アヘン吸引者は鑑札の交付を受け、アヘン販売は台湾総督府の専売で行うことにとなりました。
 その一方、アヘンが日本人に広がることを防ぐために、「台湾人民軍事犯処分令」において、「鴉片烟及吸食器ヲ大日本帝国軍人属其他ノ従軍者ニ交付シタル者及吸食所ヲ給シタル者」を「死刑ニ処ス」と、厳しい規定を設けていました。


 台湾阿片令には、「阿片を吸食することはできないが、ただ本令施行前の阿片癮者で台湾総督から吸食を特許された者が政府の売下げに係る阿片烟膏を吸食する場合は許される」と規定されたが、実際は1904年に、新たに三万人余りに鑑札の交付をし、1908年にさらに一万六千人に交付していました。少なくとも、阿片禁止に決して積極的でないように見受けられます。
 しかも原材料の価格高騰を理由に価格をつり上げ、アヘン販売の収入が増えていました。
 1898年スペインに代わってフィリピンを領有すると、即座にフィリピン全域にアヘン禁止令を出したアメリカとは好対照でした。

 冒頭の李鴻章の話に対して、伊藤博文は「きっと阿片を禁じて御目に掛けむ」と返したそうですが、中毒になっていたのはほかならぬ、アヘン専売による収益や利権に目を眩んだ、台湾総督府そのものでした。