今聞きたい!名曲HEY!HEY!HEY!の特集2014-07-13 23:20:55

 7月13日。
 と言えば、中森明菜さんの誕生日ですね。
 こちらは、何年か前のテレビ番組の特集です。


 いまから見て、寝ます。

【競馬史四方山話】オーストラリア、オーストラリアン、ウエストオーストラリアンほか2014-07-19 23:49:44

 6月28日のアイリッシュダービーは、わずか5頭の出走馬のなかから、一番人気のオーストラリア(Australia)が直線で楽々と抜け出し、快勝しました。
 オーストラリアはエプソムダービーも勝っていたので、これで英愛ダービー連覇を達成したことになり、凱旋門賞の前売りオッズでも一番人気に躍り出ています。

 オーストラリアはアイルランドの名伯楽エイダン・オブライエン厩舎の調教馬です。その父はいまをときめく名種牡馬ガリレオ(Galileo)ですが、ガリレオも確かに現役時はオブライエン厩舎に所属していて、2001年にやはり英愛ダービー連覇を成し遂げていました。
 オーストラリアの母は、2004年、2006年欧州年度代表馬(カルティエ賞)に選ばれた名牝ウイジャボード(Ouija Board)です。ウイジャボードも、2004年の英国オークス、アイリッシュオークスを連勝していました。

 ウイジャボードの馬主は第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリーです。馬名の由来は祖母Ouijaと母Selection Boardからの連想だと思われます。
 ウィジャボードは2005年のジャパンカップ(5着)後、香港国際競走に転戦し、その年の香港ヴァーズを勝っています。香港のレースで出走する際は漢字の馬名も付けられますが、ウィジャボードの香港名表記は「占卜」です。

 ウィジャボードとは、降霊術もしくは心霊術を崩した娯楽のために用いる文字版のことですが、日本における「コックリさん」の西洋版みたいなもののようです。
 カードゲームの「遊戯王」にも「ウィジャ盤」という罠カードがありますが、実は英語版だと「Ouija Board」ではなく、「Destiny Board」になっています。もしかして版権の関係かも知れません。

 Selection Boardの母はSamanda、希代の名ステイヤーであるアリシドン(Alycidon)の娘ですが、アリシドンの生産者および最初のオーナーは第17代ダービー伯爵となっています。

 ウィジャボードが2008年に出産した初仔は、父がキングマンボ(Kingmambo)で、Our Voodoo Princeと名付けられました。ブードゥー教の王子という馬名も、母馬の名前からインスパイアされたのでしょう。
 Our Voodoo Princeはヨーロッパでは芽が出なかったが、後にオーストラリアに移籍して、今年になってオーストラリアでG3の重賞を勝ちました。
 3歳年下の弟はオーストラリアと名づけられ、2歳時から評判が高く、大変な良血馬だし、これからも活躍が期待されます。


 ダービー馬でオーストラリアと言えば、やはりウエストオーストラリアン(West Australian)が思い出されます。

 ウエストオーストラリアンは1850年、英国のストリートラム・キャッスル牧場で生まれた牡馬です。デビュー戦の2着を除けば、2走目以降は10戦全勝という素晴らしい成績をあげ、最初のクラシック三冠馬にもなった名馬です。
 この馬名は、父のメルボルン(Melbourne)に因んだものだと思われ、現役時は競馬ファンから「ザ・ウエスト」の愛称で呼ばれていたそうです。
 ウエストオーストラリアンは19世紀を代表する名馬で、最初の三冠馬がこのような名馬であることは、むしろ三冠レースそのものが大きな評判を得るのに幸運であったと言うべきかも知れません。

 競走成績に比較すると、ウエストオーストラリアンの種牡馬としての成績は不振だと言っても良いかも知れません。それでも、その子供のオーストラリアン(Australian)がアメリカに渡って、種牡馬として成功し、その血統を残しています。

 オーストラリアンの娘Maggie B.B.(http://www.tbheritage.com/Portraits/MaggieBB.html)から、最初の北米産の英国ダービー馬イロコイ(Iroquois)が生まれています。
 また、オーストラリアンはスペンドスリフト(Spendthrift)も輩出し、スペンドスリフトの孫にフェアプレイ(Fair Play)がいて、フェアプレイの仔には、あのマンノウォー(Man O' War)がいます。

 マンノウォーはいまさら言うまでもないほどの歴史的名馬であり、生涯成績は21戦20勝です。
 1999年にブラッド・ホース誌編集部が「20世紀米国の100名馬」を順位付きで選出したが、第1位がマンノウォーでした。また、サラブレッド・レコード誌が1973年に行われた「歴代名馬ベスト10アンケート」でも、サイテーション、セクレタリアト、ケルソを抑えて、マンノウォーが堂々の第1位に選ばれています。

 ウエストオーストラリアンは最初の英国三冠馬であるなら、マンノウォーは最初の米国三冠馬だと言われています
 と言ってもこの時代では、ウイザーズS、ベルモンドS、ローレンスレアリゼーションSというイギリス型の旧三冠レースがまだ残っていました。 戦争不況によって旧三冠レースに入っていたウイザーズSなどは、1着賞金が五千ドルにも満たない状態になった一方、カントリーサイドのケンタッキー・ダービー、プリクネスSは、1着賞金が二万ドルを超えることになっていました。
 こうして米国の三冠レースが入れ替わることになりますが、最初の新三冠馬マンノウォーは、実は旧三冠レース(ベルモンドSが重複)もすべて勝っているので、最後の旧三冠馬だと言っても良いかも知れません。

馬娘婚姻譚ほか2014-07-27 10:44:02

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 「昔あるところに貧しき百姓あり。妻は無くて娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行き寝ね、終に夫婦に成れり。」
 「遠野物語」(柳田國男)でに出てくるこの怪談を、現代風にアレンジしたのが、最近読んだ、井上やすし著「新釈遠野物語」(新潮文庫)の中の一篇「冷やし馬」です。

 馬がシロで、娘が青江、語り手である犬伏先生が、青江との縁談を村長に断った場面が面白くて、笑えます。
 「青江とはなら結婚してもよいといまでも思っています。だけど青江には別に好きな男がいますよ。とうていまとりますまい。」
 「青江に好きな男......?」
 「正確に言えば、好きな牡です。」
 「......」
 「シロと青江は相思相愛なのですよ。」
 村長は怒ったような顔になって、「犬伏先生もずいぶん手の込んだ断り方をなさる。」
 と言い捨て、畳を蹴って出て行った。


 「遠野物語」は、「ある夜、父はこのことを知り、て、そのつぎの日に娘には知らせず、馬を連れだし桑の木につり下げて殺したり。......(娘が)死したる馬の首にすがり泣きいたりしを、父はこれをにくみ斧を以て後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。」と続いていくので、とても笑い話では済みませんが。

 これがオシラ様の成り立ちだそうです。
 冒頭の写真は、ずいぶん昔に入手した書物ですが、「馬娘婚姻譚」(今野圓輔著、岩崎美術社)は、「オシラ祭文」を中心に整理した論文です。

 この話もオシラ遊びの祭文も、もとは中国から伝わってきたものだと思われます。
 上記の本も、「捜神記」、「太古蠶馬記」、「神女伝」の記述を併記していますが、馬皮蠶女、馬頭娘、どれも同工異曲です。(http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E5%A5%B3

 なるほど、話の後半の、馬が死んで、馬皮が娘をさらって昇天し、やがて蚕となるくだりは、まさにオシラ祭文の筋と一致しています。ところが、中国の話の「父を連れ帰った者に嫁がせる」という話は日本側の伝承にないです。
 代わりに、「遠野物語」もそうですが、オシラ祭文のどれも、娘が飼馬のあまり立派なのにほれ、お前が馬でなく人間だったら夫婦になろう、と言ったのをきっかけに、馬が娘に想いかけるようになったと語られています。


 「蚤虱 馬の尿する 枕も」
 松尾芭蕉の歌です。
 昔、中部地方から東北地方にかけて、農家の馬屋は母屋の中の土間続きにあり、枕元に馬が小便する音で目が覚めるのであります。
 馬屋のにおいも家に染み付いているでしょうし、人と馬の距離が近く、人馬同居は普通の田舎風景だったと思われます。

 「それが朝夕の世話は、若い娘や嫁たちがあたるのである。やさしく愛ぐむ人たちの情は、物言わぬ馬にも通ずるのが自然であろう。」という奥州五戸で育った能田さんの文章が、ひとつのヒントになるかも知れません。


 ちなみに、「人・他界・馬」(小島瓔礼編著、小嶋東京美術)に収録されている「魔の馬の足跡~中央アジアの宗教表象からユーラシアへ」に、古代インドの「リグ・ヴェーダ」の時代から行われていた牡馬の犠牲祭アシュヴァ・メーダ」の話が書かれています。犠牲の馬を殺したとき、祭主である王の第一妃が馬によりそい、祭官がその馬と妃を布で覆う儀式があるそうです。

 この儀礼は、一歩移行すれば、女を馬の剥ぎ皮でくるむという形になり、また、それは天の岩屋の神話の、斑馬の皮を投げつけられた機織り女の姿でもある、と、この著者は説いています。