湘南は小田原なり2014-05-15 23:25:30

 憑欄夜静驛邊樓、烏鵲翻飛對客愁、江左随來千里月、湘南望盡八州秋、
 風徐滄海濤聲穩、天朗關門真氣浮、匹馬明朝踰岑去、何堪暁露濕征裘

 これは松村延年が「湘南」を詠んだ漢詩です。
 詠んだ年は不明ですが、享保から天明年間(1730~1784年)の作だと言われています。
 

 ウィキペディアでは、「湘南」の地名の由来を、中国の湘南地方に結び付く説を採っています。

 実は京都西芳寺(苔寺)に「湘南亭」という重要文化財が残っていますが、元は南北朝時代の庭園建築で、この「湘南」も中国から渡来した名前だとすれば、相当歴史が古いものになります。
 但し、当時の西芳寺には「湘南亭」のほか、「漂北亭」と呼ばれる建物が対で存在していたようで、その命名のルーツがよくわかりません。もしかして「湘南亭」が中国の湘南地方と似た名前になったのも、偶然の一致に過ぎないかも知れません。

 現在、神奈川県周辺が湘南と呼ばれる起源について、ウィキペディアでは以下のように記しています:
 「室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。」

 しかし、これ以前にも神奈川県周辺で「湘南」が使われていたそうです。
 石井啓文の著作によれば、天文12年(1543年)、鎌倉名月院で禅興寺の無隠法常老師が「湘南葛藤録」を印施したそうで、鎌倉が既に湘南と言われていたことが伺えます。(「小田原の郷土史再発見」、2001年)

 平塚の郷土史家故高瀬慎吾は、「湘南の『湘』は『相』の雅称ということが適当であろう」だと書いています。(「湘南の文学めぐり」、1968年)
 神奈川県内、横浜、川崎の両市を除く大部分は、近世まで相模国と称され、相州とも略されます。「相陽」という言い方もありますが、「山南水北曰陽」とある通り、相州の南であり、相南、湘南と変わっていた可能性があります。
 そこに、中国渡来の「湘南」と混同、もしくは意識的に結び付けた、というのが事実かも知れません。

 昭和30年、元東京都知事の石原慎太郎が著書「太陽の季節」で文学界新人賞、芥川賞を取り、舞台となった葉山・逗子まわりは「湘南族」なる流行語が生まれる程のブームとなりました。一時期、「湘南」は葉山・逗子のイメージが主流になっていたそうです
 しかし、現代の「湘南」の代表的なイメージは、やはり藤沢、茅ヶ崎あたりでしょうね。
 神奈川県の行政区域では、平塚、大磯、二宮なども含まれます。
 大磯の国道沿いに「湘南発祥之地」の石碑が建てられていますが、歴史を考えれば、この「発祥」はかなり怪しいです。
  車のナンバープレートで「湘南」は人気があるようで、これはかなり広範囲で使われています。


 冒頭の漢詩、注目すべきはそのタイトル、「宿湘南驛  [小田原也] 」となっています。
 どうも中世に「湘南」と称された鎌倉一帯は江戸時代は「湘中」となり、そして、「湘南」は小田原なり、と江戸時代ではなっていたようです。(「小田原の郷土史再発見」)

すしのご飯は食べないものだった2014-05-20 23:55:49

 すし屋さんの店名は、「○○寿司」だったり、「○○鮨」だったり、「○○鮓」だったりと、表記はいろいろあります。

 「すし」は和語で、「寿司」はその当て字、「鮨」もたぶん「旨い魚」からできた和製漢字かと推測します。(中国語にも「鮨」という漢字はありますが、まったく関係がなさそうです)
 一方、「鮓」はと言えば、これはどうやら中国伝来で間違いないです。


 「事林広記」は、南宋の陳元靚が著した日用の百科事典ですが、ネットで「重編群書事林廣記目錄」(http://faculty.ndhu.edu.tw/~lulu9811/info/info_lifeall.htm)を適当にを読んだら、「清涼鰕鮓」という料理のレシピが出ています:
 「清涼蝦用鹽水浸,去鹹汁壓乾,入紅曲椒蒔蘿蔥白糯米飯少許,鹽拌和入瓶,捺緊以好酒洒上,箬葉蓋頭密封,久亦,不妨如乾添酒,儘可一兩月」

 注目すべきなのは、米は少量のもち米しか使っていない、というところでしょうか。

 日本も昔から、魚を保存するために、ご飯を使って発酵させてしまう技が使われています。近江の鮒鮓、房州の鰯の熟れ鮓などがその代表的なものです。

 青木正児の「鮒鮓」(「酒の肴」に収録)に、旧制中学生時代、修学旅行の土産に大津の源五郎鮒の鮓を求めたときの思い出話が書かれています:
 「箱を開けて見ると、幾日でも保つと聞いたのは真赤な虚言で、飯は腐敗し、悪臭を放って目も当てられぬ有様である。こんな物を持って帰ったら父に叱られると、早速裏の藪に人知れず棄ててしまった。(中略) あの腐った飯は食べるのでなく、鮒だけ薄く切って食べるのだと聞かされて、唖然としたような次第である。」

 林望の「旬菜膳語」で読んだだけですが、発酵食品の権威小泉武夫氏の「地球を怪食する」とう著作に、鮒鮓のはるかうえを行く、「サンマの熟鮓」という食べ物が取り上げられているようです。
 どうも、和歌山県新宮市にある東宝茶屋という料亭は、「サンマの熟鮓」の二十年もの、三十年ものさえ食べさせてくれるそうです。
 「さすがにサンマと飯とを漬け込んで二十年、三十年もたちますと、サンマの肉片も骨も何もかも溶けてしまっており、また飯の方も形を残さずドロドロと溶けてしまって、その形状はまさにブヨブヨとしたヨーグルドと同じようでありました。」
 まさに珍味です。僕には食べる勇気がありませんが。


 いまでこそ「すし」と言えばご飯ものの一種で、腹を膨らます食べ物をイメージされますが、元々は魚のほうだけ食べるものでした。
 「事林広記」の「清涼鰕鮓」もそうですし、北魏時代の「斉民要術の「作魚鮓」も、飯が腐敗して酸味が付いた魚肉を食用に供するものでした。(http://agri-history.ihns.ac.cn/books/qmysj8zyz.htm

【メモ】「和唐珍解」の変な中国語2014-05-29 07:25:45

 唐来参和が1785年に書いたとされる洒落本「和唐珍解(ほうとんちんけい)」が、東京大学の霞亭文庫で読めます。

 なかに、中国人同士の会話があります。
 李蹈天:「你們可回去」
 従者:「領旨」
 李蹈天:「明朝早些來。我這裏等候。快些去了。不可路上住脚」
 通詞:「多労多労」
 従者:「去了」
  :
  :
 (http://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei/cgi-bin/gazo.cgi?no=362&top=6

 この中国語らしきものは、左右両側にルビが振られ、右はその発音で、左は日本語の意味を示しています。中国語の漢字を形も音もおもしろがろう、楽しんでみよう、という趣向でありましょう。


 唐来参和は江戸の版元蔦屋重三郎の食客になった人で、狂歌は大田南畝)の門下であり、著した黄表紙「莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)」(1785)は、金ができて苦しむという現実を逆転させた趣向と、その外題の回文によって、黄表紙中の傑作だと評価されています。
 当人は中国語が堪能だったかというと、そうでもないようです。研究者によれば、当時の小説翻訳者岡島冠山が編集した「唐語纂要」などの辞書によっているそうです。若干変な中国語になっているのも、仕方のないところです。