残酷極まる四月の花2014-04-14 23:33:58

 四月は残酷極まる月です。

 そう書いたのは英国のノーベル賞詩人T.S.エリオットです。
 1922年刊の長詩「The Waste Land」の一章は、次のように始まっています:

 APRIL is the cruellest month, breeding
 Lilacs out of the dead land, mixing
 Memory and desire, stirring
 Dull roots with spring rain.
 Winter kept us warm, covering
 Earth in forgetful snow, feeding
 A little life with dried tubers.

 意味がよくわかりませんが、追憶(memory)と欲情(desire)をかき混ぜたり、ライラック(Lilac)を死の土から生み出すそうです。


 ライラックは英語読みで、フランス語読みだとリラになります。花は白と淡紫とあり、紫のほうは植民地時代にアメリカに持って行かれ、東部および中部の庭園に植えられ、ニューハンプシャー州の州花だとされています。

 Who thought of the lilac?
 “I,” dew said,
 I made up the lilac out of my head.”

 こちらは Humbert Wolfeの詩です。
( http://m.thenorthfieldnews.com/news/2010-06-10/House_(and)_Home/Home_Again.html )

 続きがあります。あえて日本語訳のほうで:

  「露がライラックを作ったって!
 ふーん」とベニヒワが高い声で言った。
 そして、ひとつひとつの露の音符に
 ライラックが宿っていた。

 それより古く、1865年4月、観劇中に撃たれて死んだアメリカ第十六代大統領リンカーンへの、ワルト・ホイットマンの追頌歌にも出てきます。

 咲き残りのライラックが戸口の庭に匂ひ、
 夜空の西にたくましい星が沈み果てた時
 私は嘆き悲しんだ~而して返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだらう。
 (有島武郎 訳)


 ライラックスマイルという馬が中央競馬で走ったのは、1990年代の初めです。

 菊花賞に春の天皇賞と、長距離のGIレースで無類の強さを誇るライスシャワーの妹で、一時期結構注目されました。3歳時、確かにライスシャワーが出走するオールカマーの前日に3勝目をあげ、これでこの馬もエリザベス女王杯が楽しみ、翌日に走る兄貴にも弾みがついたんだな、と思ったりしました。
 ライスシャワーのオールカマーは、しかし一番人気を裏切って3着に破れ、そこから長きに渡って不振の日々が続きました。ライラックスマイルのほうも、次のクイーンカップで二桁着順の惨敗を喫し、エリザベス女王杯には出走も諦めました。

 ようやくライラックスマイルが1994年の秋に久々の勝利を収めれば、呼応するように、ライスシャワーのほうも1995年の春の天皇賞で大復活を果たし、3つ目のG1を手に入れました。
 が、残念ながら、次走の宝塚記念のレース中にライスシャワーは故障してしまい、そのまま予後不良となりました。
 ライスシャワーが亡くなった後、妹は一勝もできず、繁殖にあがった後に生んだ子供たちも、中央競馬ではつい勝ち鞍をあげることができませんでした。


 ライラックの花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。
 一方、一本でも切られるとまわりのライラックは翌年は咲かない、不吉な花だと言われ、病人の見舞いには厳禁、だそうです。
 エリオットが残酷極まる四月の象徴に挙げたのも、根が深い話です。

【メモ】ラスト・エンペラーのファインディング・ニモ2014-04-16 23:48:39

 慈禧太后は「老仏爺」とも呼ばれていました。
 その女官を勤めていた徳齢女史が「Old Buddah」という本を書き、1928年ニューヨークで出版されましたが、タイトルは「老仏爺」に因んだものだと思われます。
 東方書店から出ている日本語訳版(「西太后秘話」)は手元にありますが、以下の段落はその引用です:

 「醇親王邸の人はみな熟睡中でしたが、お使いがやってきたので、家じゅう大さわぎになりました。いたるところにともしびがつけられ、召使いや腰元たちはつぎつぎに起きだしました。~それにひとりの子どももむりやりに起こされました。すぐに皇帝にされるためにです。」

 光緒帝が亡くなったときのことです。
 慈禧太后が宮中に入る前の恋人である栄禄は、慈禧太后によって軍機大臣まで取り立てられ、しかも栄禄の娘が生んだ男の子は、やがて光緒帝を継ぎ、清王朝の最後の皇帝となりました。
 第60回アカデミー賞作品賞「ラスト・エンペラー」の主人公、溥儀であります。
 皇帝と名ばかりで、慈禧太后の傀儡でしかなかった少年時代、「ラスト・エンペラー」の劇中、そんな溥儀少年の唯一の心の慰みは、玉座に隠した壷の中に飼っていた一匹のコオロギでした。


 時が流れ、柴田清という日本人が、エンゼルフィッシュやグッピーなどを大連経由で輸入し、満州で熱帯魚ブームを巻き起こした評判が溥儀の耳に入り、仮宮殿に招かれました。
 当時の溥儀は満州国の皇帝と名ばかりの、日本軍の傀儡でしかなかったので、政治向きのことに極力関心をもたぬように仕向ける日本や関東軍の方針に置かれていました。
 したがって、柴田氏が見せた熱帯魚に皇帝が異常な興味を示したことを、日本側当局は歓迎しました。
 以降、しばらくは毎週のように皇帝からお召しがあり、珍種を宮内庁に買い上げてもらうようになったそうです。

 本のタイトルは残念ながら失念しましたが、荒俣弘の著書で読んだのは、その頃の話です。

 大連から柴田氏の許へ、珍品入荷の知らせが届きました。ディズニー&ピクサーで製作した映画「ファインディング・ニモ」でも主人公に抜擢された、「クマノミ」です。
 クマノミは海水魚であり、当時は海水魚を飼育するノウハウがなかったため、長期間飼育することは技術的に不可能でした。それでもぜひ帝に、ということで、数本の壺に海水を汲み、魚を汽車で遥々新京まで運んだのでした。

 どうやらコオロギ以上の慰めになったか、溥儀の喜び方はひとかどではなかったそうで、そのクマノミが死ぬまでの数日間、毎日飽きずに眺め続けました。

大正時代の皇居外苑馬場先門2014-04-30 23:13:45

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 棚を整理すると、古い便箋用紙のなかから、何枚かの絵葉書がこぼれて落ちました。
 はては、と思い出してみれば、どうやら何年か前に神田の古書街で求めて、その日のうちに変な場所に挟んでそのまま忘れてしまったものです。

 求めた際は気づかなかったが、この2枚、写っているのは同じ場所ではないかと、今日は眺めながら思いました。どちらも広々として、何より遠景の雰囲気が似ています。
 どうでも良いことではありましょうが、こういうときは、判然としないままで置いておくのはなんとなく精神衛生上良くなく、やはり確かめたくなります。ちょっとした歴史探偵ゲームのつもり、でもあります。

 上のほうは、場所を明記してあります。大正5年11月、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の立太子の礼の際の、馬場先奉祝門です。
 問題は下のほう、大正8年5月、帝都三大祝典の実況とありますが、どこを写したかは書いてありません。
 帝都三大祝典とは、大正8年の東宮殿下御成年式、東京市制三十年、遷都五十年を祝ったもので、大正8年5月7日から20日まで、東京各地区の交差点や橋などに奉祝門が飾られました。詳細は不明ですが、大小様々な奉祝門、その数は多いようです。

 20年前なら裏付けを取るのにもっと難儀していたかも知れませんが、そこはインターネット時代、グーグル先生に尋ねてみると、あっけなく答えがわかりました。
 こんなページが出てきました。「皇居前外苑の式典」
<http://www7b.biglobe.ne.jp/~ophl/koukyokasumigaseki/shikiten2/koukyo_saiten/index.html>

 上の写真はないですが、絵葉書がたくさんあって、「東宮殿下御成年式馬場先奉祝門光景」や「奠都五十年祭祝賀門夜景(馬場先)」に写っている門の形は、まさにそっくりです。
 ということで、歴史探偵ゲームはあっさり終わってしまいました。つい物足りなく思ってしまうほです。しかし、手色彩のほうで色が判明したのと、夜には灯を点していたことがわかったのが、想定外の収穫でした。