淡島寒月と内田魯庵2013-08-25 23:10:14

 「内田魯庵 ~魯庵の明治」(講談社文芸文庫、山口昌男・坪内祐三 編)を読んでいます。
 「病臥六旬」と題する文章で、魯庵が淡島寒月を悼んでました。

 と言っても、淡島寒月の名は知らない人が多いかも知れません。昭和8年にこの人遺稿集をまとめた書物研究家の斉藤昌三が、もはや忘れられた人だと嘆いてました。いや、内田魯庵によれば、亡くなったときは新聞でもほとんど報じられず、当時でさえ「名は若い文人には耳遠いかも知れません」と記しています。

 寒月の生家は日本橋の馬喰町、軽焼きの豪商であり、父親は淡島椿岳、画家としても知られています。
 若いときは大変な西洋かぶれでした。魯庵が尾崎紅葉の紹介状を手に初めて寒月の家を尋ねたのが明治21年、番地を探しあて、門外に日本字が無く、H.AWASHIMAという表札があるだけなのに、面食らったようです。
 明治初年、珍しかったピアノを、弾けもしなかったのに二台も買ってもらいました。十代で英国人に語学を学び、キリスト教に親しみ、常に洋装で椅子テーブルで生活し、四角い柱は日本臭いからと丸く削らせたほどでした。
 一方で古本屋を冷やかし、床が抜けるほど古書を買い漁りました。西鶴を再発見し、世間に広めたのは淡島寒月の功績です。何事もあまり執着しない性格のようで、一旦手に入れた多くの珍本稀籍も、求められるまま知人や希望者の手に渡したそうです。
 名利を求めず、金勘定すらできず、一応職業は画家になっていますが、「礼をくれる人から貰うが、礼をくれない人にも同じ画を描いてやる。」と本人が言ったように、商売っ気がなかったのです。
 元禄文学の隠れた先駆者であり、俳人、画家、江戸通、あるいは玩具収集家として知られます。出久根達郎の随筆によれば、世人は寒月を指して、江戸明治の生き字引、あるいは江戸なごりの通人と称したのは、博覧強記の風流人であったからですが、ほかに評価のしようがなかったのも、確かです。

 淡島寒月よりは年下だと思いますが、長年交友を続けた内田魯庵のほうも、やはり博識で知られ、文壇以外の世界にも関心が広かった人です。江戸文学や風俗についての考証や、銀座と築地の思い出を書いた文章などは、史料的価値が大きいと思います。

 また、首記の本の編集者に坪内祐三が名を連ねるところも、僕などには興味深いところです。
 淡島寒月、内田魯庵、坪内祐三と言った人たちは、趣味が広い分野を渡り、万巻の書物を耽読し、ある程度金銭に余裕のある高等遊民のような側面に、共通点があるような気が私はしますね。

お婆アさん危ないよ2013-08-28 23:54:37

 内田魯庵が書いた「銀座繁盛記」を読むと、円太郎馬車の話が出ています。

 「鉄道馬車が敷かれるまでの市内の交通機関は明治そこそこに文明開化の先駆をした千里軒系統の乗合馬車であった。千里軒系統の乗合と云って今の若い人には貞秀の錦絵でも見なければ解るまいが、木郭の屋根の頗る粗造な原始的の馬車である。(中略)此の痩せさらぼい老馬が喘ぎ々々鼻から息を吹き吹き脂汗を垂らしてガタクリ走っていたのが『お婆アさん危ないよ』と今の自動車よりも恐がられていた。落語家の円太郎が高座で此のガタ馬車の真似をしたのが人気になって、乗合のボロ馬車を円太郎と呼び、今日の自動車のバスまでが円太郎と称される。」

 江戸時代は、事故防止のため、馬や大八車でさえ町中の使用に幕府からしばしば制約の通達が出されていました。時代が変わったとは言え、馬車のようなスピードの出る車が町中を疾走したら、お婆さんに限らず、いままでのんびりしていた市民にとって、非常に危険なことだったようです。
 早坂昇治の著書によると、交通事故のはしりと言えるような人身事故がよく起こっていたそうで、そこで、馬車の前方で人の注意を促すために、大声を出しながら走る「先駆け」という職業が登場しました。

 明治という新しい時代に変わり、足軽たちがそろって職を失いましたが、足に自信のある若者は、馬車会社の「別当」という新しい職を見つけ、「馬なんかに負けるものか」と、先駆けとして事故の発生を未然に防いでいたわけです。