象も歩いた箱根八里 ― 2012-01-10 23:32:36
いまの箱根駅伝でも、5区の山登りと6区の山下りは足に負担がかかり、相当なスタミナが要求される難関ですが、江戸時代の人々は整備が不完全な道を歩かなければならないので、なおさら大変だったと思われます。
人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。
その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
享保14年(1729年)5月のことです。
「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。
象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。
そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。
象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。
ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。
なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
・十六日、まんじゅう急用、百文。
・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
:
:
・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
・象相煩い候につき、護摩代、一分。
・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。
好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。
この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。
人間のほうももちろん苦しみましたが、厳しい山坂の石畳の道は、馬にとっても非常に歩きにくいようです。実際、三島側の難所「強飯坂」では、馬が歩きやすいように、道の真ん中を土にしていたぐらいです。
その石畳の山道を、馬だけではなく、なんと江戸時代には象が歩きました。
享保14年(1729年)5月のことです。
「享保の象」は、中国の商人がいまの広東省あたりから連れてきて、ときの徳川八代将軍吉宗に献上したアジア象です。
本来はオス、メスのペアでしたが、メスは長崎に着いて間もなく亡くなり、残った七歳のオスの象だけが、その翌年(享保14年)に長崎を立ち、江戸城を目指しました。
象は一日三里から五里を歩き、4月26日に京都に入った際は、ときの中御門天皇、霊元法皇の御所にも引かれていき、多くの公卿が見物したそうです。ちなみに、爵位がなくては宮中に入れないので、この象は「広南従四位白象」の位が授けられたそうです。
そして名古屋城の城下を通り、いよいよ東海道きっての難所である箱根八里にさしかかりました。
象が箱根宿に到着する5月15日より数日前から、箱根宿は慌しい動きを見せていました。道中奉行のお達しでは「ありあわせの馬屋でよい」ことになっていましたが、箱根宿に大型で丈夫な馬屋がなかったせいか、象小屋を新築しました。
象の飼料である竹葉や草はもちろん、お達しにあった「久年母」というミカンを江戸に注文し、「餡なしまんじゅう」も小田原へ人夫を遣わし、購入していました。
それだけではないです。箱根町の安藤さん宅に残っている「御用象御賄諸入用小帳」が、神奈川新聞社から出ている「はこね昔がたり」という本で引用されていますが、その記述によれば、象が来る前に道中沿いの野犬狩りまでして、万全を期していたそうです。
ところが、万全に準備したつもりでもことがすべてうまく運ぶとは限りません。到着するまでは問題なかったのですが、5月16日にいよいよ出発しようとするとき、象が病気になってしまいました。
「象不快、江戸へ注進」、「象相煩申し候に付き十九日迄逗留」とだけ賄帳に記されていましたが、恐らく長旅の疲れ、箱根峠を越えてからの下り坂に参ってしまったのでしょう。
なにしろ御用の象、関係者の神経はますますピリピリして、賄帳の支出項目からもその慌しさが見て取れます:
・十六日、まんじゅう急用、百文。
・十七日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、二百五十文。
・十七日、江戸へ御注進、百二十四文。
・十八日、竹の子、宮城野にて調い申し候代、三百文。
・十八日、まんじゅう、小田原より候駄賃、百四十文。
・久年母数百代、江戸にて調い申し候、一貫七百五文。
:
:
・十九日、夜中、まんじゅう小田原より、かつぎ参り候了簡、百二十四文。
・象相煩い候につき、芦川駒形様にて祈祷御札御礼、二百文。
・象相煩い候につき、護摩代、一分。
・十九日、象御立ち江戸へ御注進、百二十四文。
好物のまんじゅうは餡なし、餡入りを含めてなんと8回も小田原から調達したり、象の病気が全快するように、寺院で護摩を炊いてもらって、祈祷までしたことがわかります。
この象はなんとか無事に江戸に着き、のち十三年間浜御殿で飼われ、その間何度も江戸城に連れて行かれたそうです。
最近のコメント