輪廻転生の景品2011-03-27 00:18:50

 ロボットがほしくて、チューインガムをいっぱい買ってもらいました。
 焼肉屋の出口でガムをもらって、不意に思い出しましたが、ガムをそれだけたくさん噛んだのは、人生のなかでも、小学生のその時期だけだと思います。

 憧れのロボットとはぜんまい仕掛けのおもちゃ、一応二足歩行もでき、とあるチューインガムの景品でした。
 ガムの包装紙の裏に、中国民間伝説「七世夫妻」に登場する男女キャラのどれか一人が印刷され、アベックになる2枚を揃えてメーカー送れば、景品のロボットがもらえる仕組みです。
 いま考えると、そのロボットも格好良いか微妙ですが、時代が時代で、僕が台湾で小学生をやっていた頃、クラスの男子みながこの景品をほしがっていました。

 ですが、そこは「七世夫妻」、玉帝の怒りを買っているだけに、そう簡単に結ばれるわけはありません。
 例えば梁山伯はよく出ますが、祝英台はなかなかお目にかかれないように、必ず片方はレアで、めったに現れないようになっていたと覚えています。

 「七世夫妻」は中国でよく知られていますが、主役は本来天上界にいる金童と玉女、咎められて凡世に下り、七度も輪廻転生を繰り返しながら、毎回毎回結ばれない悲恋を繰り返す話です。
 輪廻転生の恋物語は時々見ますが、先鞭をつけたところもそうで、前後二千年を渡り、七世代も繰り返すのは、さすがにスケールが大きいと言わざるを得ません。


 さて、七回の輪廻転生で思い出したのは、能劇の「大般若」です。
 話はすこぶる単純で、元は「西遊記」の古い稿本のひとつだと思います。
 大般若経を求めて天竺を目指す三蔵法師が、流沙河にて深沙大王に出会いましたが、「汝の前世さきの世も、此の大願を起せしかども、遂に叶わで此の河の主に悩まされ、命を捨てしも七度なり」と前シテの翁が言うように、なんとすでに三蔵は前世七度までも、取経の旅に出ながら深沙大王に食われてしまったものです。

 それもなおもめげず仏法を広めようとする三蔵法師の固い意志とともに、深沙大王の、三蔵の七つの髑髏を瓔珞に首に掛けるイメージは、目眩を起こすほどでした。


 「七世夫妻」のガムは、あるいは地域によって出やすさが違っていたかも知れません。なかなかそろわずにして諦めかけた頃、たまたま旅先で買ってもらったガムに馴染みのない范喜良が登場し、めでたく孟姜女とゴールインさせることができました。
 それで有り難い経典を、ではなく、例のおもちゃのロボットを首尾良く手に入れ、同朋にも若干自慢することができました。

 後に、「新・七世夫妻」で同じようなキャンペーンが行われた記憶もかすかに残っていますが、高学年になったせいか、それとも新しい景品はあまり魅力的でなかったせいか、ガムを買ってもらうようにねだることはもうなくなりました。

わがまま2011-03-27 21:23:06

 「わがまま」の意味を辞書で調べてみました。
 自分勝手、ほしいまま、自分の思いどおりに振る舞うこと、またはそのさま、だそうです。
 利己的な意味を含むことが多いですが、そうでない場合に使われる実例もあります。

 以下は失礼ながら、ほとんど1996年の「週刊現代」での、浅田次郎さんのコラムから抜粋したものです。


 「私は隣席のその人の業績を知らず、お名前も存じ上げなかった。授賞式に続く盛大なパーティの席上で粗相があってはならない。そう考えて控室で配布された要項の小冊を、不躾ながらその人に悟られぬように読んだ。」
 「略歴はこう記す。
 昭和二十八年三月、当時北海道大学医学部内科医局に籍を置いていたその人は、前年の十勝沖地震の津波による大きな被害を受けた地域に、新妻を伴って赴任した。期間は一年間という約束であった。」

 「しかし荒廃した釧路日赤病院分院に到着したその人が見たものは、津波の惨状と夥しい結核患者と、救いがたい貧困であった。半分以上の住民が保険すら加入しておらず、自由診療という僻地である。
 昼も夜もなかった。その人は東西二十キロ、南北五十キロに点在する十六集落の八千人の住民を、たった一人で守らねばならなかった。医師一人につき八百五十人が平均と言われていた時代である。しかも設備はなく、衛生環境は劣悪であった。
 その人は勇敢に戦った。一年の半ばを雪と氷にとざされる荒野のただなかで、あらゆるものを相手に戦った。そして寸暇を惜しんで釧路の病院に通い、専門外の外科や産婦人科や眼科の医術を学んだ。」

 「七年の歳月が過ぎた。昭和三十五年、二度目の大津波が村を襲った。多くの人命を奪ったチリ沖地震津波である。
 壊滅的な被害であった。三十代の半ばにさしかかっていたその人は、ひとりの医師ではどうすることもできない惨状の中で決意した。
 もう札幌には帰らない、と。
 そして、妻と子らに詫びた。
 私のわがままを許して欲しい、と。」

 「それからその人は、さいはての大地に根を下ろした。着任から四十二年を、八千人の命とともに生きた。
 略歴に続く短文に、その人はこう書いていた。
 家内や子供の夢をくだいて四十二年。札幌ははるか遠いところになってしまった。(中略)ただどんな小さな集落でも人が居れば医療があると考えて生きてきた。今回の受賞は全く望外であり、私の我が儘を許してくれた家内や子供達へ素晴らしい贈物を吉川英治先生がしてくれたかも知れない。ありがとうございましたー。」


 「明日、帰ります。患者さんたちが、私を待っていますから」
 むっつりと笑わぬ顔で、受賞の言葉をこのように結んだその人とは、平成7年第29回吉川英治文化賞受賞者のひとり、道下俊一さんです。1年間の約束だった赴任期間が結局47年間に及び、退職して道下さんが札幌に戻ったのは75歳ぐらいでした。

 NHKのプロジェクトXの番組でも取り上げられていたそうです。(http://www.sdu.co.jp/m6_19.html