計画停電2011-03-17 06:32:26

 小田原に来てから、停電したのは初めてのような気がします。

 予告に従って、早めに夕食を済ませ、やがて闇が訪れると、手回し充電の懐中電灯を灯し、ベッドルームに向かいました。
 子供が計画した「真っ暗レスリング」のイベントは、体力が続かないために20分で切り上げ、あとはお喋りを楽しんだり、ラジオを聞いたりしました。「FM小田原」は、いままで聞いたこともなかったのですが、蛍光灯のない静かな夜に、スタンダートナンバーの音楽と身近な話題が響き、意外に面白かったのです。

 昨夜は2時間ほどで給電が戻ったこともあって、被災地の大変さを思い出すまでもなく、大して不便は感じませんでした。

辻まことの言葉2011-03-23 22:35:37

 「きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持ち。」

 これは月刊「岳人」1971年2月号の「表紙の言葉」から抜き取った文です。書いたのは、僕が敬愛してやまない辻まことさん(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/06/07/1563252)です。

 制約を受ける不自由な環境のなか、人は逆に清冽な心に磨きをかけ、無駄をはぶいて奮闘できる、と信じたいです。

輪廻転生の景品2011-03-27 00:18:50

 ロボットがほしくて、チューインガムをいっぱい買ってもらいました。
 焼肉屋の出口でガムをもらって、不意に思い出しましたが、ガムをそれだけたくさん噛んだのは、人生のなかでも、小学生のその時期だけだと思います。

 憧れのロボットとはぜんまい仕掛けのおもちゃ、一応二足歩行もでき、とあるチューインガムの景品でした。
 ガムの包装紙の裏に、中国民間伝説「七世夫妻」に登場する男女キャラのどれか一人が印刷され、アベックになる2枚を揃えてメーカー送れば、景品のロボットがもらえる仕組みです。
 いま考えると、そのロボットも格好良いか微妙ですが、時代が時代で、僕が台湾で小学生をやっていた頃、クラスの男子みながこの景品をほしがっていました。

 ですが、そこは「七世夫妻」、玉帝の怒りを買っているだけに、そう簡単に結ばれるわけはありません。
 例えば梁山伯はよく出ますが、祝英台はなかなかお目にかかれないように、必ず片方はレアで、めったに現れないようになっていたと覚えています。

 「七世夫妻」は中国でよく知られていますが、主役は本来天上界にいる金童と玉女、咎められて凡世に下り、七度も輪廻転生を繰り返しながら、毎回毎回結ばれない悲恋を繰り返す話です。
 輪廻転生の恋物語は時々見ますが、先鞭をつけたところもそうで、前後二千年を渡り、七世代も繰り返すのは、さすがにスケールが大きいと言わざるを得ません。


 さて、七回の輪廻転生で思い出したのは、能劇の「大般若」です。
 話はすこぶる単純で、元は「西遊記」の古い稿本のひとつだと思います。
 大般若経を求めて天竺を目指す三蔵法師が、流沙河にて深沙大王に出会いましたが、「汝の前世さきの世も、此の大願を起せしかども、遂に叶わで此の河の主に悩まされ、命を捨てしも七度なり」と前シテの翁が言うように、なんとすでに三蔵は前世七度までも、取経の旅に出ながら深沙大王に食われてしまったものです。

 それもなおもめげず仏法を広めようとする三蔵法師の固い意志とともに、深沙大王の、三蔵の七つの髑髏を瓔珞に首に掛けるイメージは、目眩を起こすほどでした。


 「七世夫妻」のガムは、あるいは地域によって出やすさが違っていたかも知れません。なかなかそろわずにして諦めかけた頃、たまたま旅先で買ってもらったガムに馴染みのない范喜良が登場し、めでたく孟姜女とゴールインさせることができました。
 それで有り難い経典を、ではなく、例のおもちゃのロボットを首尾良く手に入れ、同朋にも若干自慢することができました。

 後に、「新・七世夫妻」で同じようなキャンペーンが行われた記憶もかすかに残っていますが、高学年になったせいか、それとも新しい景品はあまり魅力的でなかったせいか、ガムを買ってもらうようにねだることはもうなくなりました。

わがまま2011-03-27 21:23:06

 「わがまま」の意味を辞書で調べてみました。
 自分勝手、ほしいまま、自分の思いどおりに振る舞うこと、またはそのさま、だそうです。
 利己的な意味を含むことが多いですが、そうでない場合に使われる実例もあります。

 以下は失礼ながら、ほとんど1996年の「週刊現代」での、浅田次郎さんのコラムから抜粋したものです。


 「私は隣席のその人の業績を知らず、お名前も存じ上げなかった。授賞式に続く盛大なパーティの席上で粗相があってはならない。そう考えて控室で配布された要項の小冊を、不躾ながらその人に悟られぬように読んだ。」
 「略歴はこう記す。
 昭和二十八年三月、当時北海道大学医学部内科医局に籍を置いていたその人は、前年の十勝沖地震の津波による大きな被害を受けた地域に、新妻を伴って赴任した。期間は一年間という約束であった。」

 「しかし荒廃した釧路日赤病院分院に到着したその人が見たものは、津波の惨状と夥しい結核患者と、救いがたい貧困であった。半分以上の住民が保険すら加入しておらず、自由診療という僻地である。
 昼も夜もなかった。その人は東西二十キロ、南北五十キロに点在する十六集落の八千人の住民を、たった一人で守らねばならなかった。医師一人につき八百五十人が平均と言われていた時代である。しかも設備はなく、衛生環境は劣悪であった。
 その人は勇敢に戦った。一年の半ばを雪と氷にとざされる荒野のただなかで、あらゆるものを相手に戦った。そして寸暇を惜しんで釧路の病院に通い、専門外の外科や産婦人科や眼科の医術を学んだ。」

 「七年の歳月が過ぎた。昭和三十五年、二度目の大津波が村を襲った。多くの人命を奪ったチリ沖地震津波である。
 壊滅的な被害であった。三十代の半ばにさしかかっていたその人は、ひとりの医師ではどうすることもできない惨状の中で決意した。
 もう札幌には帰らない、と。
 そして、妻と子らに詫びた。
 私のわがままを許して欲しい、と。」

 「それからその人は、さいはての大地に根を下ろした。着任から四十二年を、八千人の命とともに生きた。
 略歴に続く短文に、その人はこう書いていた。
 家内や子供の夢をくだいて四十二年。札幌ははるか遠いところになってしまった。(中略)ただどんな小さな集落でも人が居れば医療があると考えて生きてきた。今回の受賞は全く望外であり、私の我が儘を許してくれた家内や子供達へ素晴らしい贈物を吉川英治先生がしてくれたかも知れない。ありがとうございましたー。」


 「明日、帰ります。患者さんたちが、私を待っていますから」
 むっつりと笑わぬ顔で、受賞の言葉をこのように結んだその人とは、平成7年第29回吉川英治文化賞受賞者のひとり、道下俊一さんです。1年間の約束だった赴任期間が結局47年間に及び、退職して道下さんが札幌に戻ったのは75歳ぐらいでした。

 NHKのプロジェクトXの番組でも取り上げられていたそうです。(http://www.sdu.co.jp/m6_19.html

関東大震災のこと2011-03-30 09:07:46

 1923年9月1日の関東大震災の後、東京ではスイトンが売れ、ドラ焼きが売れたそうです。簡単に作れるゆえです。その頃普及し始めた懐中電灯も飛ぶように売れました。
 自転車屋さんも繁盛しました。自転車が売れた、というわけではなく、修理の依頼が多かったらしいです。いろんなものが散乱する道路を走るので、自転車のパンクが多発していました。


 ここ小田原も、二万六千だった人口から死者370名、負傷者1918名を出す大惨事となりました。なかでも火災の延焼が凄まじく、小田原全町の中心三分の二は業火の生け贄になったそうです。
 「大正小田原万華鏡」(高田掬泉)によると、「夜に入ると火焔はますます拡がり、明るい火焔の中にひときわ輝く火柱が仁王立ちし、紙片のような火の粉がきらめき舞い上がる。(略)紙片のように小さく見えた火の粉は実は家々の屋根のトタン板であったのだ。それほど高く舞い上がったのだった。そして火柱はいわゆる竜巻であったのだ。深更になってこんどは津波がやってくるらしいという囁きが竹藪のなかを伝わってきた。五十人近くもいたと思われる避難者の間に動揺が見えたが、中の一人が『ここまで逃げて来たんだ。どこまで逃げたって同じだ。津波が来るんならみんな一緒に死のうや』と呟くと、みなそれに和するでもなく黙ったままで誰も立ち上がらなかった。」
 この体験談も含めて、だと思いますが、作者は「私たち日本人の性格が、あっさりと諦め易く、運命には抵抗せず、むしろ運命に順応して生き残ってゆく智慧を体得していることは、実は長い歴史の中でたびたび経験した自然災害の経験から得た民族性なのか知れない。」と書いています。

 しかし一旦復興に向かうと、粘り強く頑張り、足取りが思いのほか早かったのも日本人ならでは、かも知れません。
 「私はこの焦土が果たして甦ることがあるのだろうかと小さな胸に不安を隠すことができなかった。しかしそれは少年の杞憂であった。親戚に避難していた私の一家は数日ののち焼け跡に戻り、近所の人との共同バラックに身を寄せた。食糧はいちはやく届いたアメリカからの救援のメリケン粉で作ったすいとんである。同じく救援の鮭の塩煮の缶詰。そして焼けなかった田舎の親戚からの見舞いの食糧。」(高田掬泉)
 「その時です。リーダーらしき人たちが『助かった以上助け合って生きよう。それぞれの家にあるものは村のものにする。勝手な行動は許されない』と言って、強力なリーダーシップを取ったのでした。それから共同炊事に切り替えられ、なんとか生き延びることができたのです。」(「聞き語り おだわら」、内田一正)
 「『第一小学校の児童は九月十五日午前十時、二宮神社境内に集合すべし』と消し炭で書かれた立て札が、街の焼け跡に立てられているのを見たのはおそらく九月十日であったと覚えている。(略)私は指示に従って二宮神社へ登校した。(略)二宮神社境内の授業はもちろん青空教室である。私たち児童は教科書も筆記用具も失っており、私は焼け残った親戚から貰った筒袖の絣を着て、これも貰ったコマ下駄をはいて手ぶらで登校したのである。(略)机も黒板もなく生徒は地べたに腰を下ろして、先生を見上げて話を聞くだけである。」(高田掬泉)
 「大地震後、(湯河原の)鍛冶屋まで電気がきているというので、富士水電から電気がもらえるかどうか、神保という技師が工夫を二人連れて、野宿しながら、送電線が使えるかを確かめながら、箱根を野超え山越えして交渉にいきました。(略)それで官庁や道路から優先して、次々に各地をつけて歩きました。(略)当時はよそからの応援も無いし、資材も無いし、手持ちのものと、あとは倒れている家の電線を切り取って、大事につないで、使える家からやっていたんです。」(「聞き語り おだわら」、市川一郎)


 テレビはもちろん、ラジオさえなかった時代なので、突然の大地震に襲われ、後は情報がほとんどなく、恐怖と困惑は言うまでもありません。
 かろうじてあるのは、届くか届かないかわからない新聞です。

 古書店のあるじでもあった作家の出久根達郎によれば、記者が手書きで慌ただしく綴った号外がいまも残っています。
 「横浜市内及ビ港内ノ設備ハ全滅シタ 港内ニ碇泊中ノロンドン丸ハ岸壁破壊ノタメ 避難セントシタ際 他船ト接触シ船体数カ所ニ(略) バリー丸ト共に多数の避難民ヲ収容シテ居ル」(9月4日民友新聞号外)

 「老人と海」等で知られる著名作家のヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は若いときに新聞特派員をしていたが、のちにこの船の客のインタビューをフランスで行いました。他の記者による日本人へのインタビューも交え、横浜での震災状況を中心に、「Japanese Earthquake」(日本の地震)というタイトルの記事を書いたそうです。