天地間無用の通人2009-03-12 00:34:41

 「春の夜や女見返る柳橋」とは正岡子規の句ですが、現在は台東区の柳橋、江戸時代では橋畔に船宿が並んで、管弦風流の地として賑わっていました。
 安政6年(1859年)、何有仙史(かゆうせんし)なる者が「柳橋新誌」を著わし、(その年には出版されなかったようですが)すこぶる評判になったようです。

 「蓋し柳橋の妓、その粧飾淡くして趣あり、その意気、爽やかにして媚びず、世俗の所謂神田上水を飲む江戸児の気象なる者にして、深川の余風を存す」と、褒め称えています。


 これを書いた何有仙史、本名は成島弘、柳橋に因んでか柳北を号とし、若くから文才が知られていました。
 十八の年、父親(養父)のあとを継ぎ幕府の将軍侍講見習となり、「徳川実紀」の修訂にも加わりましたが、将軍の前に「昔から大名は馬鹿なものでして」と講釈して、老中が驚き、お役御免となったそうです。(幕府を批評した狂歌を作ったため、との説もあり)
 暇となったことを幸いし、彼はまずオランダ語、次に英語をほぼ独学で勉強しました。慶応元年(1865年)に閉居を解かれ、学者から騎兵頭、慶応四年にはあっという間に外国奉行、会計副総裁までに大出世しました。
 ところが、江戸開城の前日に成島は職を辞し、二君を仕えず、幕府瓦解とともに野に下りました。


 その成島柳北は明治四年(1871年)、東本願寺の顕如上人に従ってヨーロッパに渡り、後にはアメリカにも行ってました。
 いまはちょうどドナルド・キーンの「続 百代の過客」(金関寿夫 訳)を読んでいますが、成島のヨーロッパ旅行記にあたる「航西日乗」が取り上げられています。

 幕末や明治の初頭、その時代に西洋を訪ねたほかの旅行者の日記に較べても、成島の日記ははるかに面白いです。オランダ語と英語を話せた(パリ滞在中には個人教師についてフランス語も勉強していたそうで)からだけでなく、同時代の日本人と違って、外国の人に親しくなろうと努力していたから、とドナルド・キーンは考えています。
 「航西日乗」には多くの漢詩が掲載されていますが、そのひとつ「巴里賈人龍動女  幾多生面以諳名」の句がある通り、行きの船の上ですでに、パリ(巴里)の商人やロンドン(龍動)の女性と、顔なじみになりました。また、オランダ人と上陸して市街を散策するなどの話もありました。

 ヨーロッパでは教会や美術館を多数見学し、オペラ座で劇も観賞されたそうです。
 「晩餐囲案肘交肘  秦越相逢皆是友  酔臥誰能学謫仙  夜光盃注葡萄酒」
 これはパリのカフェで、ひととワインを交わした時に感じた悦びを表した漢詩ですが、海外での生活を心から楽しんだ、日本最初の国際人だったかも知れません。


 明治六年(1873年)、日本に戻ったあとですが、14年ぶりに「柳橋新誌」の続編を世に送りました。
 14年の歳月で柳橋も一変しました。姿が悪ければ芸があり、芸がなければ才識があった芸妓は、ただ化粧のみ施した人形の如くと化しました。もちろん客も悪いです。「遊戯其の道有るのを知らず、風流何者なるを弁ぜず」だとか。

 「柳橋新誌」を読んで眉をひそめる人がいて、君の書は世に益なくして、いたずらに人をののしる、と。
 我はもとより天地間無用の人なり、ゆえに世間有用の事をなすを好まず、と成島柳北が笑って答えたそうです。

 とんでもないです。後に「朝野新聞」や文芸雑誌「花月新誌」を創刊し、明治政府の言論取締法を批判したり、文芸界にも尽力しました。