Googleアース歴史散歩① ~横浜競馬草創期の歩み ― 2008-02-15 00:29:24
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日本で初めて西洋式競馬が行われたのは横浜であり、日本における近代競馬の発祥地だと言っても差し支えないでしょう。
但し、いまの根岸森林公園にあった根岸競馬場がその始まりだと思っている人が結構いるようで、歴史的に正しいとは言えません。
「文明開化うま物語」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/05/23/1527686)に書かれているようにある通り、「横浜市史稿」(昭和7年)によると、「文久元年中、洲干弁天社の裏西海岸を埋め立て、馬場および馬見所を新設し、幕府の役人たちが此所で馬術を練習し、折々競馬を開催した。外国人も亦、此馬場を利用して馬術の練習し、競馬を行っていた」、とあります。
横浜の洲干弁天社は、横浜開港前から景勝地として知られ、浮世絵にも描かれていましたが、現在の横浜弁天は移っており、まったく痕跡が残っていないぐらいです。
古地図を見比べながら捜すと、現在弁天通り、弁天橋に地名が残っているとおり、関内と桜木町の間、いまの馬車道の西側あたりかと思います。
また、当時フランス人技師クリペ作製の「横浜絵図面」に、弁天社の裏西側に細長い「馬バ」も描かれています。
とすると、上図の「①」あたりだと思います。
もっとも、「根岸の森の物語」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/07/21/1671340)に引用されていますが、横浜開港資料館の「横浜ものはじめ考」では、洲干弁天社の馬場は幕府役人の馬術練習場で、ここを利用した外国人とはフランスの軍事顧問であり、スポーツとしての競馬が行われると考えられない、だとしています。
そうだとすれば、次の文久2年(1862年)5月に行われたレースが、たぶん最初の近代式競馬になります。
その年5月1,2日に行われた春開催と、10月1,2日に行われた秋開催、それぞれのプログラムが居留地新聞「ジャパン・ヘラルド」に載っており、「日本賞」、「メトロポリタン賞」、「横浜ダービー」などのレース名が見えています。
開催されたのは、当時外国人居留地裏の湿地帯に急造されたコースで、「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)にも記述があるように、ほぼいまの中華街をすっぽり囲む、1周約1200メートルの円形コースだそうです。
上図の「②」あたりに該当すると思います。
ところが、生麦事件のせいもあり、この中華街コースでの競馬開催は1862年の春、秋限りとなりました。
当時の居留地新聞によれば、1865年には、英国駐屯軍主催の「横浜駐屯軍競馬(Yokohama Garrison Races)が駐屯地の連兵場などで行われたそうです。
英駐屯軍の連兵場がどこにあったか、明確に突き止めていませんが、上図の「③」あたりだと言われているようです。
そして、いよいよ1866年に根岸競馬場が建設されました。
1867年1月に好天の元に、にぎやかなその初開催が行われた根岸競馬場は、現在の根岸森林公園にあたり、旧馬場の楕円形もほぼ残されています。
上図の「④」の場所です。
日本で初めて西洋式競馬が行われたのは横浜であり、日本における近代競馬の発祥地だと言っても差し支えないでしょう。
但し、いまの根岸森林公園にあった根岸競馬場がその始まりだと思っている人が結構いるようで、歴史的に正しいとは言えません。
「文明開化うま物語」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/05/23/1527686)に書かれているようにある通り、「横浜市史稿」(昭和7年)によると、「文久元年中、洲干弁天社の裏西海岸を埋め立て、馬場および馬見所を新設し、幕府の役人たちが此所で馬術を練習し、折々競馬を開催した。外国人も亦、此馬場を利用して馬術の練習し、競馬を行っていた」、とあります。
横浜の洲干弁天社は、横浜開港前から景勝地として知られ、浮世絵にも描かれていましたが、現在の横浜弁天は移っており、まったく痕跡が残っていないぐらいです。
古地図を見比べながら捜すと、現在弁天通り、弁天橋に地名が残っているとおり、関内と桜木町の間、いまの馬車道の西側あたりかと思います。
また、当時フランス人技師クリペ作製の「横浜絵図面」に、弁天社の裏西側に細長い「馬バ」も描かれています。
とすると、上図の「①」あたりだと思います。
もっとも、「根岸の森の物語」(http://tbbird.asablo.jp/blog/2007/07/21/1671340)に引用されていますが、横浜開港資料館の「横浜ものはじめ考」では、洲干弁天社の馬場は幕府役人の馬術練習場で、ここを利用した外国人とはフランスの軍事顧問であり、スポーツとしての競馬が行われると考えられない、だとしています。
そうだとすれば、次の文久2年(1862年)5月に行われたレースが、たぶん最初の近代式競馬になります。
その年5月1,2日に行われた春開催と、10月1,2日に行われた秋開催、それぞれのプログラムが居留地新聞「ジャパン・ヘラルド」に載っており、「日本賞」、「メトロポリタン賞」、「横浜ダービー」などのレース名が見えています。
開催されたのは、当時外国人居留地裏の湿地帯に急造されたコースで、「馬たちの33章」(早坂昇治、緑書房)にも記述があるように、ほぼいまの中華街をすっぽり囲む、1周約1200メートルの円形コースだそうです。
上図の「②」あたりに該当すると思います。
ところが、生麦事件のせいもあり、この中華街コースでの競馬開催は1862年の春、秋限りとなりました。
当時の居留地新聞によれば、1865年には、英国駐屯軍主催の「横浜駐屯軍競馬(Yokohama Garrison Races)が駐屯地の連兵場などで行われたそうです。
英駐屯軍の連兵場がどこにあったか、明確に突き止めていませんが、上図の「③」あたりだと言われているようです。
そして、いよいよ1866年に根岸競馬場が建設されました。
1867年1月に好天の元に、にぎやかなその初開催が行われた根岸競馬場は、現在の根岸森林公園にあたり、旧馬場の楕円形もほぼ残されています。
上図の「④」の場所です。
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