服装の乱れは社会の乱れ?2019-06-23 14:52:24

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 「楊貴妃になりたかった男たち <衣服の妖怪>の文化誌」(武田雅哉、講談社)を読んでいますが、「服妖」に言及しています。

 古代の中国では、人々の衣服装飾が乱れることは天下が傾ける前兆だと見る向きがあり、これがいわゆる「服妖」です。漢書五行志に「風俗狂慢,變節易度,則為剽輕奇怪之服,故有服妖」とあるのがそうであります。


 いつからだったのでしょうか、学校では「服装の乱れは心の乱れ」という標語を掲げた服装指導が見られるようになりました。
 学生服のボタンやホックをかけずに襟を開けたままにしたり、スカートの丈を短く、もしくは長く改造したり、そのスタイルは色々ありますが、程度はどうであれば、どの時代にもあるものです。
 ひと昔前では、学校や両親、あるいは広く言えば社会全体への抵抗、もしくは意思表現が主因であるように言われていました。また、近年の調査結果によると、子どもたちの学生服の着崩しは、友人や同輩がみんなそうしていて、しないとダサい、というのが主たる理由であると言われています。

 いずれにしても、人の着る服には、社会通念的なものが存在します。そのいでだちはけしからん、と叱ってみたり、いや、たいした問題じゃないだろうよ、と容認してみたり、社会通念の境界線上では、常に議論や闘いが絶えません。
 その結果なのか、長い時間を経てみると、こうした社会通念も大幅に変動します。


 エピダウロスの円形劇場は、私もだいぶ前に訪れたことがありますが、1972年、ここでギリシャ喜劇「女の会議」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%81%AE%E8%AD%B0%E4%BC%9A) が上演されたときの出来事を、ジャック・ローランが著書に書いています。
 澁澤龍彦が「性差、あるいはズボンとスカート」というタイトルのエッセイにとりあげているのを、その昔に読んだだけですが、アテネの女たちが男装して議会に入るシーンで、観客たちが一同困惑していたそうです。
 なぜなら、服装は裾の開いた、ひらひろしたキトンのまま、現代人から見ると、古代ギリシャの男女の服装がほぼ同じものに見えるためです。
 観客たちは、スカートからズボンへ変わることを想像していたかも知れません。多くの女性観客自身が、ズボンやジーンズを穿いているにもかかわらず、です。


 冒頭の絵は、武田雅哉の著書で引用している、1917年の中国の新聞に載っていたイラストです。
 作者は想像力の限りを総動員して、信じられない、とんでない、というつもりでデザインした服装を描いた風刺戯画ですが、いま見ると、それほどでもない、となりますね。

征露丸2019-03-24 20:37:55

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 引き続き、「広告から見える明治・大正・昭和~ 懐かしのホーロー看板」(祥伝社、佐溝力) からの話です。

 上の写真が、このなかに出ている征露丸のホーロー看板です。
 「正露丸」ではなく、「征露丸」となっており、よく広告で見られるラッパのマークもありません。

 セイロガンの始まりには諸説があり、明治35年に薬商の中嶋佐一が開発、販売したのが最初である、と言われたりします。昭和20年、その中嶋佐一薬房から製造販売権を買い取ったのが、いまのラッパのマークで知られる大幸薬品 (旧柴田製薬所)です。
 数年前に、いわゆるセイロガン訴訟が話題になっていましたが、他社の販売する類似商品に対し、パッケージの使用差し止めなどを求めた訴訟で、大幸薬品が敗訴となりました。
 明治時代から様々なセイロガンが発売されて、すでに一般用語になっていると裁判所が判断したようです。写真のホーロー看板の「征露丸」も、他社製品のようです。

 なお、「露」はロシアであり、「征」となっていたのは日ロ戦争中にこの薬が流行ったからとも、逆に縁起の良い名前ゆえに万能薬としてもてはやされたとも、言われています。

麗子さんの祖父2019-03-02 22:53:21

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 小林清親の版画「海運橋 (第一銀行雪中)」(http://travelertraveler.blog.fc2.com/img/2_convert_20150317211813.jpg/) を見たのは、昨年の4月です。

 1876年の作品だとされていますが、女性の傘に描かれた「銀座・岸田」が気になり、検索してみたら、画家の岸田劉生の父親が銀座で開いていた目薬の店を指す、と出てきました。

 岸田劉生の父親は、岸田吟香です。
 東京・銀座に岸田吟香の「楽善堂」ができたのは1877年(明治10年)であり、微妙に時間関係が逆転しているような気がしますが、それとも開店前の宣伝なのでしょうか?


 岸田吟香は1863年(文久3年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボン式ローマ字でも知られる医師のヘボンを訪ね、治療を受けました。

 眼病を患って良かった、という言い方はないでしょうが、岸田吟香はヘボンと知り合いになったことで、ヘボンが当時手がけていた辞書の編纂を手伝うようになり、上梓した日本最初の英語で書かれた日本語辞典に「和英語林集成」と名付けたのも岸田だそうです。
 さらに、ヘボンから目薬の作り方も教わり、日本で最初の液体目薬である「精錡水(せいきすい)」を発売するに至りました。

 1873年、岸田は東京日日新聞に入社し、記者、編集長として活躍しました。
 宮古島島民遭難事件がきっかけで明治政府が台湾に出兵した際、岸田は、これまた日本初である従軍記者の形で戦地に赴き、その報道は評判を呼んだそうです。

 1877年、岸田は新聞社を退社し、売薬業に専念するようになりました。
 1880年、中国は上海に渡り、楽善堂支店を開くなど、岸田は販路を各地に拡げる成功を収めましたた。
 なお、漢口楽善堂は、岸田の援助を得て荒尾精が開いたそうです (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%8F%A3%E6%A5%BD%E5%96%84%E5%A0%82)


 いま、「広告から見える明治・大正・昭和 懐かしのホーロー看板」 (佐溝力、祥伝社) を読んでいますが、上の写真は、そのなかに出ているホーロー看板です。
 目薬の「精錡水」のほか、「薬志ゃぼん」も出ていますが、シャボンなので、こちらは薬石鹸ですね。

 ホーロー看板は主に室外で作られる鉄製の看板のことですが、使われるようになったのは1890年頃だそうです。明治時代の風俗を取り入れた錦絵広告や新聞広告などに力を入れ、宣伝を重視する商才のある岸田吟香は、ホーロー看板を使う宣伝もいちはやく取り入れたのでしょう。

 「海運橋 (第一銀行雪中)」に描かれた傘も、宣伝のために岸田が小林清親に依頼したのかも知れません。

ビゴー日本素描集2018-07-22 23:23:51

 岩波文庫の「ビゴー日本素描集」を眺めています。

 ジョルジュ・ビゴーの漫画、イラストは、ユーモア溢れるものです。

 横浜-国府津間の鉄道が開通した月に早速、箱根へ行こうと駅で汽車を待つイギリス人一家とか、舞踊を切り上げて「旦那」と一緒にビリヤードを興じる、鹿鳴館に呼ばれて来た芸者とか、主家の坊ちゃんと嬢ちゃんを、お弁当とともに学校に送り届ける女中とか、どれも面白いし、史料的な価値があるように思えます。


 巻末に、清水勲とクリスチャン・ポラックによるビゴー小伝と、ビゴー年譜なるものが掲載されています。

 日本を離れた後のジョルジュ・ビゴーが、東京新橋の扇芳亭の烏森芸者一行の洋行に同行し、通訳を務めた内容のメモを書きました(http://tbbird.asablo.jp/blog/2015/05/07/7629377)が、このことは前記の年譜等には記されていません。
 年譜の1900年の項には、ビゴーの「日本人生活のユーモア」シリーズが警視庁より発売禁止を命じられた、という本人不在の出来事以外、「11月3日 再び兵役に服する (11月30日まで)」、「この年、『日本デッサン集』を刊行。妻マルグリット、長女を出産。」とだけ書かれています。
 扇芳亭の一行は万博終了後もヨーロッパ各地で興行を続けたが、ビゴーが通訳に一時期付いたとしても、さすがに一行がフランスにいる間だけだったのでしょう。

漂流民と脱藩武士のロシア語辞書2018-04-15 22:36:06

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 江戸時代を通して、日本ではロシア語の辞書が刊行されることがなかったのですが、ロシアのほうではいくつかの露日辞書、日露辞書が作られていました。


 なかでも古いのは、ペテルスブルグ科学アカデミー図書館のアンドレイ・ボグダーノフと、薩摩からの漂流民ゴンザが、共著のものです。

 薩摩から17人の乗組員を乗せたある船が、大阪に向けた航海中に嵐に遭い、洋上を漂流したあげくロシア領カムチャッカ半島に辿り着いたのが、享保13年(1728年)のことです。
 そこでコサック隊の襲撃を受け、15人が殺され、生き残ったわずかふたりのうちのひとりが、まだ10歳ぐらいの少年ゴンザでした。

 ゴンザたちはモスクワを経由し、1733年にロシアの首都ペテルブルグへ送られ、時の女帝アンナ・ヨアノヴナにも謁見しました。
 ゴンザはロシア語の上達も早く、女帝の命により開設された日本語学校の教師になり、また、当時ロシア最高の学識者のひとりであるアンドレイ・ボグダーノフの指導の下、辞書の執筆に勤しみました。
 残念ながら、1739年(元文4年)12月、ペテルブルグが史上まれにみる寒波に襲われるなか、ゴンザは21歳の若さで亡くなりました。

 ゴンザたちが編纂した辞書では、例えば「私の」が「オイガト」となっているように、薩摩の言葉が色濃く見えて、面白いです。


 時代が下り、アンドレイ・タタリノフの「タタリノフ露和語彙」もしくは「レキシコン」だと称される露日辞書が印刷されたのは、天明2年(1782年)です。

 タイトルのページには、「にぽんのひと さのすけのむすこ、さんぱち ござります」と記されていますが、アンドレイ・タタリノフの父親サノスケは延享元年(1774年)に遭難し、千島列島に漂着した陸奥佐井村の多賀丸乗組員でした。
 北村一親の論文によると、サノスケがロシア正教の洗礼を受け、ロシア名はイワン・イワノウィチ・タタリノフと言います。アンドレイ・タタリノフは1752年、ロシアのヤクーツクに生まれたのですが、サンパチ(三八)という日本名を持っているようです。


 一方、日露辞典では、ゴシケウィッチと橘耕斎の共著の「和魯通言比考」が安政4年(1857年)に、ロシアのアジア局から出版されました。
 書中の漢字は達筆で、耕斎の筆跡だと思われます。

 橘耕斎は遠州掛川藩士の立花四郎右衛門の次男として生まれ、祐筆を勤めた上級武士であったが、身を持ち崩して脱藩し、一時は博徒の頭目となり、一説によると殺人まで犯し、何度か投獄されたそうです。
 その後改心して仏門に入り、池上本門寺の幹事に昇進したところ、女性問題を起こし、寺を離れて雲水となり、放浪の旅を重ねたそうです。伊豆は戸田港に流れ着いたところで、ロシア人のゴシケウィッチと親しくなったのが、再び運命の転機をもたらしました。

 時は安政元年(1854年)、ロシアの使節エフィム・プチャーチンが下田港に来たとき、安政東海地震による津波で乗船のディアナ号が大破しました。
 翌年5月、プチャーチンら幕僚は 3ヶ月間の突貫工事で作った代船のヘダ号に乗って下田を出ましたが、60人乗りのヘダ号に乗船できないその他の乗組員は、下田港に来ていた別のアメリカ船に便乗して帰国することになっていました。当時35歳の橘耕斎も荷物に隠れ、ゴシケウィッチも乗るこのアメリカ船で密出国に成功しました。
 吉田松陰が同じく下田から密出国を企んで捕らえられてから、14ヶ月後のことです。

 ところが、このアメリカ船はイギリスの軍艦に捕まり、当時クリミア戦争でイギリスと交戦状態にあったロシアの乗組員は捕虜となり、耕斎も含め、全員ロンドンへ送られました。一年余りの捕虜生活の後、ようやくゴシケウィッチらとともにペテルスブルグに入りました。
 耕斎はアジア局の翻訳官に採用され、ロンドンでの捕虜時代からゴシケウィッチと共同で編纂しはじめた「和魯通言比考」を上梓しました。
 その後、ロシア正教の洗礼を受け、ロシア外務省の役人として、日本政府の使節を三度にわたり迎えていたようです。

 明治6年(1873年)、ロシアを訪れた岩倉具視に説得されて日本に帰国したのち、耕斎は明治政府から芝の増上寺の隅に住居を与えられました。帰国後はふたたび仏門に入り、増田甲斎と改名し、世に出ることなく、ロシア政府より送られた300ルーブルの年金で悠々と暮らしていました。

 藩士、博徒、雲水、捕虜、辞書の編纂、異国での役人、そして再びの出家、耕斎は数奇に満ちた一生を送ったと言えましょう。
 ロシア滞在時の名前をウラジミール・イオシフォウィチ・ヤマトフと言いますが、ヤマトフとは「大和夫」をあてたものだそうです。

大酋長の孫の英語授業2018-02-12 16:34:02

 1932年に廃業となりましたが、かつてポートランドとユージーンの間約200キロの路線で営業していたオレゴン電鉄に、カムカムリ(Comcomly)という名前の駅があったそうです。
 カムカムリとは、キングともチーフとも呼ばれ、臣下5000人だと伝えられている、ネイティブアメリカン・チヌーク族の大酋長でした。

 新大陸の開拓者たちは、事業をうまく進めるために現地有力者と婚姻関係を結ぶのは、あの時代にしばしば見られることです。
 カムカムリの娘のひとりElvamox (別名Marianneとも言う)は、Pacific Fur Companyの毛皮商ダンカン・マクドゥーガル(Duncan McDougall)に嫁ぎ、もうひとりの娘コアルゾア(Koale'xoa、別名プリンセス・サンデー)も、Hudson's Bay Companyのアーチボルド・マクドナルド(Archibald McDonald)に嫁ぎました。
 アーチボルド・マクドナルドはエジンバラ大学を卒業してアメリカに渡ったスコットランド人であり、コアルゾアとの間にラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)が生まれました。
 ラナルド・マクドナルドは生まれて数ヶ月後に母と死別してしまいましたが、アメリカンインディアンの先祖は日本からアメリカへ渡った、という伝説を信じ、日本に縁を感じ、憧れていました。


 惣郷正明の「サムライと横文字」(ブリタニカ出版)を読んでいますが、その記載によると、ラナルド・マクドナルドが銀行員の地位を捨てて、日本へ行く手がかりとして、サンドウィッチ島行きの捕鯨船プリマス号の船員になったのは1845年の暮れでした。
 1848年、船がカラフト近海から南下し、礼文島沖に達したとき、事前に交わした約束の通り、ボードを下ろして単身で離船しました。鎖国時代の日本では密入国は死刑になると聞いたが、漂流者なら悪くても本国送還になるだろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装って、利尻島に上陸したそうです。

 当時の掟通り、ラナルド・マクドナルドは松前に送られ、さらに長崎まで護送されました。
 長崎では崇福寺の末寺である大悲庵に収監され、室外へ出ることが許されなかったが、待遇は悪くなく、特別に西洋食が支給されたようです。
 奉行の取調べには和蘭通詞の森山栄之助が立ち会いました。
 捕鯨船から離れたのは船長との間に「diffculty」があったと言うと、通詞はこの単語が聞き取れず、英蘭辞書を差し出して指された単語を見て、「もんちゃく」があったと訳せたそうです。

 マクドナルドが日本文化に関心を持ち、学問もあることを知った長崎奉行は、栄之助のほか、堀達之助、西与一郎など通詞14名は英語を兼修とし、彼につけて英語を学ばせることにしました。英語を母国語とする者から直接指導を受けるのは、このときが初めてだったそうです。

 翌1849年、長崎に入港していたアメリカ軍艦プレブル号に引き渡されアメリカに戻るまで、7ヶ月間という短い期間でしたが、ラナルド・マクドナルドの影響は大きいものでした。ラナルド・マクドナルドの顕彰碑は、大悲庵跡に建てられています。
 一方、マクドナルドにとっても、日本滞在は思い出深いものだったようで、1894年の死の間際の最後の言葉は、日本語のサヨナラを用い、「Sionara, my dear, Sionara」でありました。


 生前、ラナルド・マクドナルドは、日本での学生たちについての回想を記していました:
 「みんな、文法は得意であるが、L の発音が不完全で R に発音する。子音のあとに I または O の音をつけくわえる習慣がある。しかし敏感で、よく受け入れるので、教えるのが楽しい...」

 現在の日本の英語学習者にも、何か通じるところがあるような気がします。

豹(ジャガー)の眼2017-10-22 23:23:14

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 高垣眸の作品について適当な記事を書き、特に「豹の眼」に関するくだり、二胡ちゃん様よりコメントを頂いたことがあります(http://tbbird.asablo.jp/blog/2016/01/04/7970963)。

 昭和37年に発行された「名作リバイバル全集」での「豹の眼」を、神保町の古書店の店頭でたまたま見かけ、手に入れました。
 未見ですが、「少年倶楽部」掲載時は名人・伊藤彦造の挿絵だったそうです。このリバイバル版の表紙装画、挿絵は嶺田弘のもので、元々の連載時とは違うが、こちらの絵もなかなか味があって、作品の色にも合っていると思います。

幻の女流詩人ビリティスの歌2017-10-18 22:23:01

 19世紀末のことです。
 中東、かつてのフェニキアの地、アマトントの廃墟に程近い場所で、ひとつの地下の墓が発見されました。
 石棺に刻まれた碑文を、ドイツの考古学者W・ハイムが解読した結果、墓の主は、紀元前六世紀、ギリシャの辺地パンフィリーの地に生まれた、ビリティスという女性のものだと解明されました。
 墓の内壁には150にも及ぶ数の古代のイオニア韻率に沿った詩篇が記されており、凡そ3つのパートに分かれますが、そのすべてがビリティスの数奇な生涯を物語っている詩です。


 1895年、まだ二十台の若いフランス詩人ピエール・ルイスによる優れたフランス語訳を介し、これらの詩篇は「ビリティスの歌 (Les chansons de Bilitis)」として広く知られるようになりました。
 クロード・ドビュッシーは1897年から1898年にかけて、「ビリティスの歌」から3篇を選んで、歌曲を作曲した。

1. La Flûte de Pan (パンの笛)
2. La Chevelure (髪)
3. Le Tombeau des Naïades (ナイアードの墓)



 文献学者は、ピロデウムスの詩句に二度ビリティスの歌からのパクリがあることを発見しました。
 ピエール・ルイスからの献本を受けた在アテネのさる高名な教授は、かつてビリティスの名への言及がある文献を、どこかで読んだ記憶がある、と寄贈者のへの返書で示唆していました。


 そんなはずはありません。
 なぜなら、すべては若き詩人の手による捏造です。W・ハイムなる考古学者も、フェニキアの古墳も、石棺もミイラも碑文も、ピエール・ルイスの創作に過ぎません。

 若くして輝かしい名声を得たピエール・ルイスは、しかし晩年は文壇からも忘れられ、盲目となり、孤独と貧困のうちに世を去ったそうです。