小説博覧会2016-12-04 11:25:17

 明治23年4月10日、上野にて華々しく開催されている第3回内国勧業博覧会を横目に、叫雲愚老の庵で「小説博覧会」なるものが行われました。


 参加者は、幸田露伴宛の手紙によれば、「月角小王、繡蓮女史および叫雲愚老、これだけは貴殿御存じ、脱顛子、阿房宮守、ゆかり式部、これだけは御初対面なり」でありました。
 四畳半の部屋にめいめいが座り、順次に自作の文章を読み上げた後、「互いに品評なし、面白しとの公評を得たる仁へは何か俗ばなれせし珍物を愚老より呈し、又おもしろからずとの判を得たるものは天に向ッて三拝、地に対して三拝、世界に三拝、坐客に九拝し、謹んで尚又筆紙墨硯に一拝づゝの上にて、即席に懺悔文を作って謝すべく、且つ例の御馴染なる三十六節の解酔竹鞭にて脊中に三度どやす筈なり。」という趣向です。

 まずは発起人の叫雲が出品小説を読むが、その名も八犬伝に対抗して「新編一犬伝」というもので、いかにも怪しい集いでした。
 以下の作品は、繡蓮女史の「風前虹」、月角小王の「痴陳平」、阿房の宮守の「ねじくり博士」、脱顚子の「閨の月」、ゆかり式部の「新九想観」、最後は露伴が「博覧会の博覧会」なる戯文で結びを付けたそうです。

 どの作品も出来が芳しくなく、繡蓮女史、ゆかり式部の女性作者ふたりは罰を加えるほどにないと定まるほか、あとの全員は三拝九拝のあげく解酔竹鞭で三十ずつ打たれて、下手懺悔文を認めた次第であります。
 いくわ、「下手な話は尚聞くべし、下手小説は読み難し。我等無法の人間みだりに下手なものを書く、人天に對して恐れ入ッてあやまるの外なし、ゆるし玉へや上手となるまで。今や懺悔に虚言なし、願はくは此懺悔の功徳をもッて罪業消滅風流即生せん。」


 各氏の作品と一部始終はまるごと「日ぐらし物語」と題されて、いまも幸田露伴集に収められ、出来損ないだった小説もめでたく風流となったのであります。

【メモ】マグレブとクスクス2016-05-15 21:45:06

 「マグレブ」はアラビア語で「日の没する地」、「西方」を意味するそうです。
 バグダードを出発して西に侵攻した7、8世紀ののアラブ軍団は、ジブラルタル海峡を過ぎ、大西洋に達すると、そこから先にはもはや征服すべき土地がなくなったことに気づき、「日の沈む西方の地の果て」という意味で名づけました。現在モグレブと呼ばれるのは、主にモロッコ、アルジェリア、チュニジアの三か国です。元々ベルベル人の居住地ですが、いまマグレブの人々はアラビア語を話し、主にイスラム教を信仰し、人種的にもアラブ人との混血が進んでいます。

 マグレブ文化の中心地であったモロッコの町は、北アフリアで一番洗練された料理を作る場所として知られ、モロッコの宴会料理はバステーラという円盤状のパイから始まり、マグレブの代表的な料理であるクスクスに終わることが多いようです。

 クスクスはどうやらアラブ侵入以前からベルベル族の伝統料理として存在したものです。
 クスクスには作るための専用の二段式蒸し鍋が存在します。
 手元の「地中海事典」(地中海学会、三省堂)によれば、小麦、大麦などのあらびき粉を大きい平鉢にとり、水とオリーブオイルを手のひらで転がしながら混ぜ、鍋の上段に入れます。下の鍋で羊や鶏、牛などのシチューを煮込み、その蒸気で上段のクスクスを蒸し、15分くらい蒸すとまた平鉢にあけ、篩にかけながら水と油を混ぜることを三回ぐらい繰り返し、食べるときは下段のシチューをかけて食べるそうです。

 「食の文化地理 ~舌のフィールドワーク」(石毛直道、朝日選書)によれば、小麦、大麦のほか、トウモロコシ、ドングリの粉で作ったもの、乾いたパン粉をクスクスとして使用することもあります。また、下鍋のシチューは羊、ヤギ、ラクダなどの肉、あるいは魚、それに野菜を入れ、イスラム教の安息日である金曜日に作る料理であるそうです。

 「月刊 言語」の1980年Vol.9が手元にあり、中野暁雄の「モロッコ食物誌 (あるアラブの娘さんからの聞き書き)」が掲載されて、当然クスクスを取り上げています。
 下鍋の肉は普通の牛肉か牛の頭か尾の肉、もしくは鶏が普通だそうで、食べるときは手で団子のように丸め、さじは使わないそうです。また、クスクスは金曜や日曜に作り、マグレブらしい、はれの感じのする料理、だと書いてあります。

サムライの作法2016-03-20 11:21:47

 もし江戸時代の侍が、たまたま傍輩同士が喧嘩を始め、うち一人が刀を抜いたのに出会ったら、どうすべきなのでしょうか?

 「こんな本があった!江戸珍奇本の世界」(社団法人家の光協会)は、古典秘籍の宝庫である西尾市岩瀬文庫(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B8%82%E5%B2%A9%E7%80%AC%E6%96%87%E5%BA%AB)の目録作成に携わった塩村耕氏の著作であり、文庫に納められている珍奇本の数々を紹介しています。
 そのうちの一冊、侍の生き方マニュアルとも言うべき「八盃豆腐」を紹介するページは、冒頭にあるような問いかけから始めています。

 まず、脇に控えて見守るべきです。
 もし、どちらかが親類か親しい友人で、その人が危うく見えたなら、助太刀をして相手を打たせてやります。もし、両者とも普通の関係なら、一方が打たれたら、相手に申し含め、近辺の寺へ同道して付き添い、人をやって藩に届け出るべき、だと書かれています。
 仲裁に入り、仲直りさせたりするのはよろしくなく、刀を抜きかかった方が「あほう払」の罪(両刀を取り上げられ、追放する屈辱的な刑罰)に処せられるゆえ、です。

 傍輩が家来を手討ち損じ、逃れた家来が自分の屋敷に駆け込んだ場合、道中で家来に持たせたヤリが他家の侍に奪い取られた場合、残罪者を連れて刑場に向かう途中、大寺の高僧が囚人に袈裟を掛け、身柄渡しを懇願して引き下がらない場合など、ほかにも難しい局面についていろいろ書かれているらしいです。


 義と名誉のためには命も投げ出せるのが武士道ですが、こういう侍たち特有の行動規範が、もしあたり前にすべて侍が心得ているなら、教訓書すら無用だったはずです。やはり二世紀半の長い平和な時代に、武士たちのモラルが緩んでいたのでしょう。

 実際、先日読んだ「サムライとヤクザ―」(氏家幹人、ちくま新書)によると、明治維新前のまさに江戸幕府が伸るか反るかの動乱期、幕府軍でよく戦った戦士たちは、元からの侍ではなく、駕篭かきや火消し、博徒など、町の荒くれ者だったそうです。
 戦乱の世から泰平の世への転換と軌を一にして、戦士の作法だった男道は徐々に色褪せし、役人の心得であるほうの「武士道」へと様変わりした、という話でした。

高垣眸2016-01-24 16:38:34

 高垣眸が昭和6年に書かれた少年小説「怪人Q」を読みました。

 第一次世界大戦で敗戦国となり、苛酷な賠償条約に虐げられた祖国ドイツを救うため、高名な科学者であったクラウス博士が恐怖のQ結社を組織し、世界を敵に回して戦う話を軸に据えます。
 東少年、石黒七段、ゲイ探偵らがQに立ち向かい、奮闘しますが、潜水艦(潜行艇)、ヘリコプター(直昇ジャイロ)、ロボット(人造人間)など、当時の科学を先取りした発明と忠誠な部下を擁するQ結社は、米国の大西洋艦隊にもいささかたじろがず、米国大統領から約束を取り付け、Q結社を自ら解散しました。

 この作品の延長線上にあるのが、後の「凍る地球」、「恐怖の地球」などの地球シリーズなのかも知れません。
 白色人種がもたらした文明によって、精神的畸形に近い人間が多数はびこっていることを、高垣氏はしきり憂慮しているようです。


 大阪国際児童文学館による「日本の子どもの本100選(戦前編)」にも高垣眸の「豹の眼」(1928年)が選ばれています。
 日本人の大佐を父に、旧インカ帝国の末裔を母に持つ黒田杜夫が主人公となり、舞台はサンフランシスコやアリゾナ大高原になっています。清王朝の遺族でサンフランシスコのアヘン窟に身を潜めている恭親王、王の娘で日本人の手品師を母親に持つ錦華、王の部下である張爺や、混血のインディアンらと一緒に、主人公たちはインカ帝国の秘宝をめぐって、白色人種と戦う冒険活劇です。その敵のボスが「豹」であり、銀行の頭取と政府の探偵という二つの顔を持った人物、という設定であるようです。

 1959年のテレビドラマ「豹の眼」がDVDで出ていますが、すでに設定が変わり、主人公黒田杜夫はジンギスカンの血をひく日本人となっています。清王朝再興を目指す秘密結社「青竜党」の娘・錦華たちとともに、ジンギスカンの隠し財宝争奪戦に挑む話のようですが、そこには高垣眸が書いていた、反白人主義的な一面がほぼ省かれたのであります。


  「宇宙戦艦ヤマト」のメディアミックス作品のひとつに、高垣眸の「熱血小説/宇宙戦艦ヤマト」(1979年)が、あります。
 どうやら「宇宙戦艦ヤマト」のスタッフは、高垣眸作品のきわめて熱心な読者だったようです。そのため、当時はすでに勝浦に住み、半ば引退していた高垣氏に小説の原稿を依頼し、例え内容がアニメ版と食い違いがあったとしても、出版させたようです。

 しかし、高垣版ヤマトに対し、当時(1980年前後)のアニメ視聴者たちは古臭くと感じ、総じて評価が低いようです。時が流れ、1930年代生まれのヤマトの製作者側と、ヤマトを見ているファンたちの間には、厳然たるジェネレーションギャップがあったのかも知れません。

少年小説の系譜2016-01-04 09:47:43

 大阪国際児童文学館による「日本の子どもの本100選(戦前編)」のタイトル一覧(http://www.iiclo.or.jp/100books/1868/htm/TOP-Year.htm)を見ています。

 知らない本も多いですが、福沢諭吉の「世界国尽」、西條八十の童謡、室生犀星の詩集、島崎藤村の童話集などと並んで、押川春浪の「海底軍艦」、平田晋策の「新戦艦高千穂」、吉川英治の「神州天馬侠」、大仏次郎の鞍馬天狗ものや江戸川乱歩などを選んでいるのが、楽しいです。
 つまり、大人が子供たちに読ませようとしたいわゆる「児童文学」だけでなく、元々少年向けエンタテイメントを志向した作品も多数入っています。


 いま「ライトノベルから見た少女/少年小説史」(大橋崇行、笠間書院)を読んでいますが、作者は、文学作品としての児童文学こそがアカデミックな研究に耐え得るものとする論調に異を唱え、現代のライト・ノベルに繋がるエンタテイメントとしての「少年小説」を取り上げています。

 例えば、大阪国際児童文学館のリストにも入っている、巌谷小波の「こがね丸」も、日本における最初の「児童文学」作品として位置づけられるより、「少年小説」の系譜に入れるべきものだと説いています。
 この系譜は、戦後の「痛快文庫」に引き継がれ、マンガによってが取って代わられたりもしたが、キャラクター立ちする手法等を確立しながら、近年の「ロードス島戦記」、「涼宮ハルヒの憂鬱」、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」などのヒットに繋がっている、かも知れません。

馬の家畜化の始まり2015-11-18 21:23:51

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 "Just So Stories"は、日本では「なぜなぜ物語」と訳されていますが、イギリスのノーベル賞作家ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)が書き、1902年に出版された、子供のための童話集です。

 「How the Whale Got His Throat」、「How the Camel Got His Hump」など13篇の話のなかでも、もっとも長いのが「The Cat That Walked by Himself 」(http://www.boop.org/jan/justso/cat.htm)です。このなか、野生馬が、急に人間の仲間になったくだりが、以下に如くです。

 When the Man and the Dog came back from hunting, the Man said, 'What is Wild Horse doing here?' And the Woman said, 'His name is not Wild Horse any more, but the First Servant, because he will carry us from place to place for always and always and always. Ride on his back when you go hunting.

 「ワイルド・ホースがここに何をしているのか?」、犬と狩りから帰ってきた男が聞くと、女は言った、「彼はもうワイルド・ホースではなく、召使頭になったのよ。なぜなら彼はいつもいつも私たちをあちこちに運んでくれる。猟に行くとき、彼の背中に乗って。」


 実際のところは、どうだったのでしょうか?
 馬・ロバの家畜化は約6000年も前から始められたと、考古学者は考えています。

 ウマ科の動物は、後氷河時代末期に巨大な群れをなし、草原ステップ地帯全域に広がり、そして急激に増加する人類の集団にとっては、狩りの対象でした。
 すると、どうしても気になるのは、人類はいつ、何をきっかけに馬の家畜化に成功したか、という問題です。その前に少なくとも何千年間も渡って、せいぜい食糧としてしかしていなかったのに、です。

 これにはいろいろな説があります。
 馬を最初に家畜化に成功した英雄は、実はペットを欲しがっていた少年だったのではないか、という、アメリカの古生物学者ジョージ・G・シンプソン(George Gaylord Simpson)の説が、私には魅力的です。

 「その少年は、役に立たない動物を連れまわって、おそらくまず父親に叱られたのであろう」、とも。

ベンジャミン・ブロツキー氏とその映像2015-10-25 14:21:50

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 archive.org で古い本を適当に見ていたら、1912年の「Moving Picture World」誌で、ベンジャミン・ブロツキー氏に関する記事を見つけました。(https://archive.org/stream/movingpicturewor12newy#page/620


 ブロツキー氏は「亞細亞影戲公司」の創設者です。(http://www.zwbk.org/MyLemmaShow.aspx?zh=zh-tw&lid=128091
 「Moving Picture World」誌の記事によると、サンフランシスコ大地震後の混乱後、ブロツキー氏が古いEdison Universal製の投影機と40~50巻のジャンクフィルムを持って、最初に辿りついた中国の都市は天津でした。
 当時の中国では映画がまだ大衆に知られていなく、放映ショーを開いても、最初は人々が畏れてあまり集まってこなかったそうです。また、上映 していた米国製西部劇の上映中、銀幕上のカウボーイが手前にピストルを向けるところで観客が怒り、挙げ句の果て劇場に火がつけられ、大きな損害を蒙ったそうです。

 上記「中文百科在線」では、1913年、鄭正秋と張石川がメガホンを取った「難夫難妻」が中國人が撮った最初の短編映画だと書かれていますが、どうもその前の1909年、上海亞細亞影戲公司は香港で、梁少波という人が監督による「偷燒鴨」というショートムービーがすでに撮影されたそうです。
 また、ブロツキー氏が中国各地で撮影した最初のドキュメンタリー「A TRIP THROUGH CHINA(中国)」が台湾の国家電影資料館にビデオコピーの形で現存していることがわかりました。中国各地の風景や市井の人々をが映像として残り、大変歴史的価値が高いものです。(http://tcdrp.ctfa.org.tw/achieve.asp?Y_NO=2&M_ID=4


 「Moving Picture World」誌の記事の後になりますが、1913年、ブロツキー氏が来日しました。1913年、横浜山下町でヴァライエティー・フィルム・エクスチェンジ社を創設し、シネマトグラフ・フィルム配給と映像機器販売を行う会社として登録されていました。
 のち、氏は東洋フィルム会社を設立し、アメリカ放映時でも好評を博した「A TRIP THROUGH CHINA」に倣って、日本政府の委託を受け、ドキュメント映画「BEAUTIFUL JAPAN」の製作に取りかかりました。

 最終的に未完成でしたが、撮影されたフィルムが140分ぶん現存しているそうです。
 実際の映像を私はまだ見たことがないですが、間違いなく、これも歴史的価値が高いものなのでしょう。

アジア特電 1937~19852015-08-05 20:06:03

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 「アジア特電 1937~1985 激動なる極東」(ロベール・ギラン著、矢島翠訳、平凡社)

 日中戦争中の上海、真珠湾以降の戦時下の日本、マッカーサーと占領軍、インドの独立運動、中国の国共戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして中国の文化大革命。
 まさに大動乱時代のアジアを、フランス人ジャーナリストの作者は駆け巡り、そして見聞した様々な事柄を、この本に書き綴りました。

 作者は、戦後の繁栄期も含めて日本駐在が長く、東京下町の情緒や地方の風物の味わいを愛している親日家です。
 しかし、日本軍が上海や南京で行った蛮行に対しては、厳しい批判を忘れていません。
 混乱があったのは短時間だったかも知れません。素早く手を打たれ、処罰が行われたのも事実なのかも知れません。犠牲者の数字は正確ではないかも知れません。しかし、旧日本軍の暴力行為が非常に多かった、と言った証言を、直接作者が目にした惨状と併せて、しっかりと書き留めています。(途中で出会った日本女性の優しさとは対照的であった)

 いずれにしても、戦争の極限状態が、いかに人間の良識を破壊し、狂気を呼び起こしてしまうかを、決して忘れてはいけません。
 旧日本軍の汚名をすすごうとする右翼的なナショナリスティックなキャンペーンが、いかに空しいかを、感じずにはいられません。