オケラ街道 ― 2015-10-04 17:09:56
今秋初のG1レースは本日、中山競馬場で行われました。
スプリンターズ・ステークスです。
ベルカントと一番人気を争ったストレイトガールが、春のヴィクトリアマイルに続く2つのビッグタイトルを獲得して、国内最終戦で有終の美を飾りました。この後は香港に遠征するそうで、がんばって欲しいと思います。
私はストレイトガールに対抗の印を打ちましたが、本命のミッキーアイルは4着に終わり、競馬場に行っていれば、今頃はまだオケラ街道を歩いているかも知れません。
日本津々浦々の競馬場界隈に、オケラ街道と称する道がいっぱいありますが、元祖であり、発祥の地は中山競馬場と西船橋駅間にあるものだと聞きます。
船橋法典の駅ができる前からあり、競馬場からの距離はそこそこ遠いです。意気消沈で歩いていると、道両側に並ぶ手頃な飲み屋がどうしても目に入り、つい自暴自棄、ヤケクソになってしまいます。
勝負事に負けて無一文になることを「オケラになる」というのは、いまでも通用します。
語源については、植物説と動物説の二説があります。
植物説というのは、キク科の多年草にオケラ(朮)というのがあって、万葉集に武蔵野の「うけら」の花を詠んだ歌が収められています。オケラの根茎を乾燥したものは「白朮」と呼ぶそうで、健胃を目的として漢方で用いられ、民間療法では解熱、陣痛などにも使われます。
薬用にするのはオケラ全体ではなく、その皮だけです。オケラの根の皮が剥かれた状態が、賭け事に負け過ぎて衣服まで剥かれた状態に比されたのが、オケラの語源だと推測されます。
もうひとつの動物説では、昆虫のケラ(螻、螻蛄)が語源だとしています。
ケラの両手を上げて広げる格好は、スッカラカンになった失意のギャンブラーが、もうどうにもダメだというお手上げ状態に擬されています。
とジージーうるさく鳴くのがケラであり、勝ち組はそれを見てケラケラと笑うばかりです。
スプリンターズ・ステークスです。
ベルカントと一番人気を争ったストレイトガールが、春のヴィクトリアマイルに続く2つのビッグタイトルを獲得して、国内最終戦で有終の美を飾りました。この後は香港に遠征するそうで、がんばって欲しいと思います。
私はストレイトガールに対抗の印を打ちましたが、本命のミッキーアイルは4着に終わり、競馬場に行っていれば、今頃はまだオケラ街道を歩いているかも知れません。
日本津々浦々の競馬場界隈に、オケラ街道と称する道がいっぱいありますが、元祖であり、発祥の地は中山競馬場と西船橋駅間にあるものだと聞きます。
船橋法典の駅ができる前からあり、競馬場からの距離はそこそこ遠いです。意気消沈で歩いていると、道両側に並ぶ手頃な飲み屋がどうしても目に入り、つい自暴自棄、ヤケクソになってしまいます。
勝負事に負けて無一文になることを「オケラになる」というのは、いまでも通用します。
語源については、植物説と動物説の二説があります。
植物説というのは、キク科の多年草にオケラ(朮)というのがあって、万葉集に武蔵野の「うけら」の花を詠んだ歌が収められています。オケラの根茎を乾燥したものは「白朮」と呼ぶそうで、健胃を目的として漢方で用いられ、民間療法では解熱、陣痛などにも使われます。
薬用にするのはオケラ全体ではなく、その皮だけです。オケラの根の皮が剥かれた状態が、賭け事に負け過ぎて衣服まで剥かれた状態に比されたのが、オケラの語源だと推測されます。
もうひとつの動物説では、昆虫のケラ(螻、螻蛄)が語源だとしています。
ケラの両手を上げて広げる格好は、スッカラカンになった失意のギャンブラーが、もうどうにもダメだというお手上げ状態に擬されています。
とジージーうるさく鳴くのがケラであり、勝ち組はそれを見てケラケラと笑うばかりです。
【メモ】ハードディスク増設 ― 2015-10-18 15:00:42
いまのPCを使い始めてから、すでに5年目に突入しました。(http://tbbird.asablo.jp/blog/2011/09/06/6090008)
本体にはもうちょっと頑張ってもらおうと思いますが、近頃はハードディスクがたまに怪しい音を出したり、いつ逝かれても不思議でない状況になっているので、バックアップ用のハードディスクを増設みました。

WDのGreenを選んだのには特に意味がなく、スーパーへ行く途中のPC Depoで見たら、税込みで8100円と安かったからだけです。

もちろんSATAケーブルも用意します。

PCのケースを開けて、電源を接続して、SATAケーブルをマザーボードに接続して完了です。

立ち上げると、新しいWDのハードディスクをシステムが認識しました。

増設したディスクをフォーマットして、Windowsバックアップ設定をしました。
現在バックアップ中です。
ベンジャミン・ブロツキー氏とその映像 ― 2015-10-25 14:21:50
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archive.org で古い本を適当に見ていたら、1912年の「Moving Picture World」誌で、ベンジャミン・ブロツキー氏に関する記事を見つけました。(https://archive.org/stream/movingpicturewor12newy#page/620)
ブロツキー氏は「亞細亞影戲公司」の創設者です。(http://www.zwbk.org/MyLemmaShow.aspx?zh=zh-tw&lid=128091)
「Moving Picture World」誌の記事によると、サンフランシスコ大地震後の混乱後、ブロツキー氏が古いEdison Universal製の投影機と40~50巻のジャンクフィルムを持って、最初に辿りついた中国の都市は天津でした。
当時の中国では映画がまだ大衆に知られていなく、放映ショーを開いても、最初は人々が畏れてあまり集まってこなかったそうです。また、上映 していた米国製西部劇の上映中、銀幕上のカウボーイが手前にピストルを向けるところで観客が怒り、挙げ句の果て劇場に火がつけられ、大きな損害を蒙ったそうです。
上記「中文百科在線」では、1913年、鄭正秋と張石川がメガホンを取った「難夫難妻」が中國人が撮った最初の短編映画だと書かれていますが、どうもその前の1909年、上海亞細亞影戲公司は香港で、梁少波という人が監督による「偷燒鴨」というショートムービーがすでに撮影されたそうです。
また、ブロツキー氏が中国各地で撮影した最初のドキュメンタリー「A TRIP THROUGH CHINA(中国)」が台湾の国家電影資料館にビデオコピーの形で現存していることがわかりました。中国各地の風景や市井の人々をが映像として残り、大変歴史的価値が高いものです。(http://tcdrp.ctfa.org.tw/achieve.asp?Y_NO=2&M_ID=4)
「Moving Picture World」誌の記事の後になりますが、1913年、ブロツキー氏が来日しました。1913年、横浜山下町でヴァライエティー・フィルム・エクスチェンジ社を創設し、シネマトグラフ・フィルム配給と映像機器販売を行う会社として登録されていました。
のち、氏は東洋フィルム会社を設立し、アメリカ放映時でも好評を博した「A TRIP THROUGH CHINA」に倣って、日本政府の委託を受け、ドキュメント映画「BEAUTIFUL JAPAN」の製作に取りかかりました。
最終的に未完成でしたが、撮影されたフィルムが140分ぶん現存しているそうです。
実際の映像を私はまだ見たことがないですが、間違いなく、これも歴史的価値が高いものなのでしょう。
archive.org で古い本を適当に見ていたら、1912年の「Moving Picture World」誌で、ベンジャミン・ブロツキー氏に関する記事を見つけました。(https://archive.org/stream/movingpicturewor12newy#page/620)
ブロツキー氏は「亞細亞影戲公司」の創設者です。(http://www.zwbk.org/MyLemmaShow.aspx?zh=zh-tw&lid=128091)
「Moving Picture World」誌の記事によると、サンフランシスコ大地震後の混乱後、ブロツキー氏が古いEdison Universal製の投影機と40~50巻のジャンクフィルムを持って、最初に辿りついた中国の都市は天津でした。
当時の中国では映画がまだ大衆に知られていなく、放映ショーを開いても、最初は人々が畏れてあまり集まってこなかったそうです。また、上映 していた米国製西部劇の上映中、銀幕上のカウボーイが手前にピストルを向けるところで観客が怒り、挙げ句の果て劇場に火がつけられ、大きな損害を蒙ったそうです。
上記「中文百科在線」では、1913年、鄭正秋と張石川がメガホンを取った「難夫難妻」が中國人が撮った最初の短編映画だと書かれていますが、どうもその前の1909年、上海亞細亞影戲公司は香港で、梁少波という人が監督による「偷燒鴨」というショートムービーがすでに撮影されたそうです。
また、ブロツキー氏が中国各地で撮影した最初のドキュメンタリー「A TRIP THROUGH CHINA(中国)」が台湾の国家電影資料館にビデオコピーの形で現存していることがわかりました。中国各地の風景や市井の人々をが映像として残り、大変歴史的価値が高いものです。(http://tcdrp.ctfa.org.tw/achieve.asp?Y_NO=2&M_ID=4)
「Moving Picture World」誌の記事の後になりますが、1913年、ブロツキー氏が来日しました。1913年、横浜山下町でヴァライエティー・フィルム・エクスチェンジ社を創設し、シネマトグラフ・フィルム配給と映像機器販売を行う会社として登録されていました。
のち、氏は東洋フィルム会社を設立し、アメリカ放映時でも好評を博した「A TRIP THROUGH CHINA」に倣って、日本政府の委託を受け、ドキュメント映画「BEAUTIFUL JAPAN」の製作に取りかかりました。
最終的に未完成でしたが、撮影されたフィルムが140分ぶん現存しているそうです。
実際の映像を私はまだ見たことがないですが、間違いなく、これも歴史的価値が高いものなのでしょう。
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