横浜外国人墓地紳士録(4) ~ポール・ピエール・サルダ2015-04-30 22:33:43

 現在は「岩崎博物館」となっている旧ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場だと言われています。
 ゲーテ座跡の説明には、「明治18年(1885)4月、この地に居留外国人のための 劇場『パブリック・ホール』が開場した。アマチュア劇団の芝居、音楽会等様々な催し物が 行われた。設計はフランス人ポール・ピエール・サルダで、建坪270坪、地上2階地下1階の 赤レンガ造りであった。明治41年(1908)11月、『ゲーテ座』と改名した。 大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで外国人の社交場でもあった。」と書かれています。

 設計を担当したポール・ピエール・サルダ(Paul Pierre Sarda)は、横浜外国人居留地の名士であり、財産家であり、ワーグマン(http://tbbird.asablo.jp/blog/2015/03/25/7597145)やジョルジュ・ビゴーの描く風刺雑誌の恰好の題材でした。


 サルダ氏は元々1873年に海軍省の御雇い外国人として来日し、横須賀造船所の機械技師として3年ほど勤めたのち、一時期東京大学で教え、そして1878年頃に横浜居留地へ移り住みました。

 長く建築家として活躍し、多くの建築物の設計を手がけました。パブリック・ホール・ゲーテ座のほか、グランド・ホテル新館(1887年)、横浜指路教会(1892年)、ライト・ホテル(1893年)、フランス領事館(1896年)などがその代表作です。
 また、ほかも多くの商館、個人住宅の設計、建築に関わりました。
 例えば、いま山手ロイストン教会がある241番地にかつて建てられたHenri Blum氏邸も、サルダ氏の手によるもので、当時の山手の外国人住宅の中でも一際豪華な意匠と規模を持つ建物であったと記録されています。

 サルダ氏の死亡を伝える1905年の「ジャパン・ガゼット」の記事によれば、氏は日本人女性との間に息子が一人おり、当時すでにフランスでエンジニアの職についていたそうです。
 氏の墓は外国人墓地13区にあります。

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