横浜外国人墓地紳士録(3) ~ヘンリー・プライヤー2015-04-15 21:11:51

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 日本で最初に出版された昆虫図譜だと言われているのが、「日本蝶類図譜」("Rhopalocera Nihonica"、1935年、植物文献刊行会)であり、著者は、横浜に住むイギリス人のヘンリー・プライヤー(Henry James Stovin Pryer)です。
 この本は営利目的で出版された訳ではありません。出版部数は恐らく200部以内で、大半がイギリスに運ばれ、国内に残ったのは50部未満だと言われています。


 プライヤー氏は日本に来る前から、ロンドン昆虫学会のアクティブ・メンバーとして知られていました。1870年に来日し(1871年、もしくは1872年の来日だと記す資料もあります)、横浜に落ち着き、火災や船舶保険の代理店などに勤めながら、昆虫類を中心に各地の資料や標本を集めていました。
 とりわけ氏はチョウの季節型に興味を持っているようで、キチョウやツマグロキチョウの分類を飼育実験により正しく整理するなど、日本のチョウ類に関するすぐれたコレクションを作りました。

 また、現在北海道大学植物園に所蔵されているラキストン(Thomas Wright Blakiston)採取鳥類標本というコレクションは、プライヤー氏も協力していたようです。「Catalogue of the birds of Japan」という著作(http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1474-919X.1878.tb07040.x/abstract)も、ラキストン氏とプライヤー氏の共著、となっています。


 プライヤー氏は「日本蝶類図譜」を自費出版すべく、日本人画家(金子政次郎、水野信)に原色図を描かせ、自ら英文で解説し、その日本語訳を付しました。製版と印刷は東京の築地活版印刷所で行われました。
 しかし、氏は39才の若さで病死し、生前に発行できたのは第1分冊のみで、第2、第3分冊は横浜在住の英米人の協力により編集され、どうにか完結することができました。

 調べたところ、プライヤー氏には日本人の内妻がいたが、子供はいなかったようです。
 死後、墓は横浜外国人墓地にあります。

残酷な春を、ただ座り、眺め、聞く2015-04-28 22:49:12

 世界の屋根だと謳われた国で、ひどい天災が発生しました。
 また、別の国では戦争やテロが人の尊い命を奪っています。
 死に直面しざるを得ない多くの人たち、そしてその親族や友人のことを想像し出せば、言葉はほとんどを用をなさないような気がしてきました。

 カール・アマデウス・ハルトマンの交響曲一番を聞いてみます。



 この交響曲は、ウォルト・ホイットマンの詩にインスパイアされ、1936年頃から構想し、長年かけて作り上げたものです。
 導入部は「Elend(苦しみ)」というタイトルが付けられ、怒り狂う金管とティンバニの爆発に挟まれて、アルトの独唱が語りかけます。

 私はただ座り、眺めている、この世のあらゆる災いを
 すべての苦しみと恥辱を
 私は戦争、疫病、暴政が続くのを眺め
 犠牲者や囚人をただ眺めている
 ......

 第二楽章は「春(Frühling)」というタイトルです。独唱と木管がかわるがわる歌い、毎年繰り返し咲くライラックの花を称えます。
 と、同時に、この残酷極まる4月の花からいやおうなく湧き上がる死への思いも、そこに歌われます。

 咲き残りのライラックが戸口の庭に匂い
 夜空の西に大きな星が沈み果てた時
 私は嘆き悲しんだ~そして返り来る春毎に嘆き悲しみ続けるだろう。


 カール・アマデウス・ハルトマンは、インゴ・メッツマッハーの言葉(「新しい音を恐れるな」(春秋社)」を借りれば、第三帝国時代の重要なドイツ人作曲家の中で、体制に迎合しない勇気があった唯一の人物です。
 この交響曲は、孤独と絶望に満ちた時代のもっとも鮮烈な証言、だとも書いています。

横浜外国人墓地紳士録(4) ~ポール・ピエール・サルダ2015-04-30 22:33:43

 現在は「岩崎博物館」となっている旧ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場だと言われています。
 ゲーテ座跡の説明には、「明治18年(1885)4月、この地に居留外国人のための 劇場『パブリック・ホール』が開場した。アマチュア劇団の芝居、音楽会等様々な催し物が 行われた。設計はフランス人ポール・ピエール・サルダで、建坪270坪、地上2階地下1階の 赤レンガ造りであった。明治41年(1908)11月、『ゲーテ座』と改名した。 大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで外国人の社交場でもあった。」と書かれています。

 設計を担当したポール・ピエール・サルダ(Paul Pierre Sarda)は、横浜外国人居留地の名士であり、財産家であり、ワーグマン(http://tbbird.asablo.jp/blog/2015/03/25/7597145)やジョルジュ・ビゴーの描く風刺雑誌の恰好の題材でした。


 サルダ氏は元々1873年に海軍省の御雇い外国人として来日し、横須賀造船所の機械技師として3年ほど勤めたのち、一時期東京大学で教え、そして1878年頃に横浜居留地へ移り住みました。

 長く建築家として活躍し、多くの建築物の設計を手がけました。パブリック・ホール・ゲーテ座のほか、グランド・ホテル新館(1887年)、横浜指路教会(1892年)、ライト・ホテル(1893年)、フランス領事館(1896年)などがその代表作です。
 また、ほかも多くの商館、個人住宅の設計、建築に関わりました。
 例えば、いま山手ロイストン教会がある241番地にかつて建てられたHenri Blum氏邸も、サルダ氏の手によるもので、当時の山手の外国人住宅の中でも一際豪華な意匠と規模を持つ建物であったと記録されています。

 サルダ氏の死亡を伝える1905年の「ジャパン・ガゼット」の記事によれば、氏は日本人女性との間に息子が一人おり、当時すでにフランスでエンジニアの職についていたそうです。
 氏の墓は外国人墓地13区にあります。